大学と「世間」(その1)――本末転倒の風景 2009年12月21日

学は、いつから、こんなにせわしく、あわただしく、細かく、ゆとりのない世界になってしまったのだろうか。

私は37年間、同じタイプのビジネス手帳(高橋書店)を日記のように使い、すべて保存してきた。大学に職を得て26年。その間の手帳をパラパラとめくってみた。札幌に助教授として赴任した1983年の手帳を見ると、大学院生だった前年のものに比べ激変している。何よりも会議などの校務日程がびっしり入っている。広島時代は国立大学だったこともあり、時間的余裕があった。1996年4月、早大に着任し、生活は一変した。授業コマ数がものすごく増えた。会議の数も半端ではない。だが、2003年頃までは、今とは明らかに違っていた。忙しいことに変わりはないのだが、どこか心にゆとりがあった。何よりも授業が楽しく、自由な雰囲気で取り組むことができた私の講義は学生の関心を引き出すことに重点を置くから、札幌・広島以来のやり方で、「ライブ」感覚で臨んでいる。ところが、ここ5、6年、講義に向かう足取りが重くなった。もちろん、学生の前に立てば、そんなことは忘れて一生懸命、全力で講義することに変わりはない。しかし、何かが違うのである。

「世間」の目を過剰に意識し、「世間」の要求に過度に迎合した結果、大学は変貌した。閉鎖的な「象牙の塔」など、今は昔。「開かれた大学」どころか、「開かれすぎた大学」、「開ききった大学」の有り様である。「大学の自治」は風前の灯である。

かつて教育は、比較的おおらかに行われてきた。「15分遅れで始まり、15分早く終わる、休講ばかりの講義」というのもあり、学生や「世間」からの批判もあった。こういうものは克服されて当然だったし、大学は研究中心で、教育は二の次、というのでは「世間」の理解も得られないだろう。だが、「学生のための大学」という、それ自体は正当に響く声が「上から」出されるようになり、それに「学生は消費者です」という変奏を加えて、近年、教育内容や教育方法への「世間」の注文が着実に増えていった。

例えば、「シラバス」という授業計画書はすでに定着している。年々、教務の指示は細かくなってきた。ここ1、2年は、ゼミまで毎回の内容を書くことが要求されるようになった。最初、教員からは驚きの声があがった。ゼミで毎回何をやるかなんて、事前に書けるはずもないからである。だが、「シラバス」はネット上に公表されるからというので、全教員に一律に要求された。どんな授業をやっているかを知らせることは意味があるが、検索でヒットすることを意識して、より詳細かつ具体的記述が求められる。とにかく書けばいいというので、第1回「人権(1)表現の自由」、第2回「人権(2)生存権」みたいに書いておいた。ゼミ生に話すと大笑いだった。ゼミの場合、「シラバス通りには絶対にやらない」ことが最初から分かっていても、この無意味な書類作りに時間を要した。一体、これは何だろう。本末転倒なり。

「学生による授業評価」が行われるようになって久しい。当初は、学生が教員を評価することで、やる気のない講義をなくし、授業を活性化させるという触れ込みだった。だが、これが、どれだけ教員の士気を下げ、教室の雰囲気を悪くしてきたことか。「テーマは明確か」「声の大きさは適切か」「教員にやる気はあるか」「板書はきちんとしているか」など、事細かにチェックされた。私は事前に計画を出さず、その時の「事件」を使って議論を展開したりするし、あまり板書をしないから、数値で平均化すると評価はグッと下がる。授業の内容から授業方法に至るまで、すべて自由という時代は終わった。個性ある授業が困難となり、平均的な授業への傾きをもっていく。授業評価の自由記載欄には、「2ちゃんねる」さながらの汚い言葉が並ぶ。こうした学生の授業評価に悩み、「登校拒否」ぎみになった教員もいた。何のための授業評価か。本末転倒なり。

なお、私の学部では議論の末、授業評価を記名式にした。試験が終わり、評価も出た後で授業評価を実施する。学生は名前を出して、授業運営に対する意見や要望をする。これに教員として耳を傾けるのは当然である。「2ちゃんねる」的な匿名の授業評価は、これで回避できている。

授業の持ち方にも変化が生まれている。かつては、専門科目は通年4単位が多かったから、7月になると「夏休みは、こういう本を読んでおくように」と課題を与えて、前期授業は終了。10月に後期が始まり、1月に試験をやって、4単位を認定する。講義で扱うテーマも進度も、とやかく言われることはなく、数回にわたり一つのテーマを掘り下げて講義することも可能だった。90年代の終わり頃から、やたらと「国際化」がいわれるようになり、留学生もいるからということで、十分な熟慮もなしに「セメスター制」なるものが導入された。前期・後期の通年4単位はなくなり、ほとんどが春学期2単位、秋学期2単位ということになった。

かつて専門科目は「単位のバラ売りはしない」がポリシーで、前期・後期とじっくり1年かけて授業するのが普通だった。だが、セメスター制になると、2単位とったらその科目はとらない、あるいは別の担当者の授業に乗り換えていく。一見、選択の余地が広がったように思われるが、体験上、セメスター制が学生の学力にプラスの効果を与えたとはとうてい思えない。私自身は、セメスター制のもとでも、かつての前期・後期通年の意識でやっているので、前期の段階で学生に後期も受講するようにすすめてきた。それでも半期だけの受講者はおり、制度上は可能なのだけれども、講義をする側からすれば何ともさみしい。何でも選択できるというのは、表面的な情報の範囲は広がっても、専門について辛抱強く熟考することの助けにはなっていないように思う。

また、セメスター制になると、試験は7月と1月の2回。当然、答案の採点量は2倍になった。これが一番大きな変化だろう。しかも、締め切りは毎年短くなっていった。セメスター制導入直後は、試験の採点締め切りは8月15、16日だった。だが段階的に早められるようになり、とうとう2009年は8月5日が締め切りである(政経学部は3日!)。授業を7月のギリギリまでやるように求められ、しかも10日以上も採点締め切りを早める。

私個人は、特に今年の夏は大変だった。法学部の大講義を2コマ、政経学部の一般教育の「法学」を1コマ。試験答案はオープン科目や導入科目、法科大学院を合わせると、1050枚になった。それを段ボールの箱に詰めて、車で仕事場に運び、7日間もかかった。同じことが、入試を目前にした来年2月にも要求される。これは大変な負担である。

職員の事務量もかつてに比べれば質量ともに増えている。学生もバイトや旅行などの時間が少なくなった。一体、この制度の導入で誰が幸せになったのだろうか。誰も幸せにならない「改革の連鎖」が続く。そして、それによって、学習意欲があがり、学力が向上したかといえば、そうは思えない。社会全体の「知の衰退」にも寄与しているのではないか。

2009年度から、さらに無意味なことが加わった。授業の半期「15回」義務づけである。文部科学省の指示だそうで、全学教務がその一律実施を求めてきた。15回実施は「教育の質を高める」というのがその理由だが、授業回数という「量」の問題が、なぜ授業の「質」の向上に連動するのか、まったく疑問だ。学部でも異論が出たが、結局、全学一律実施となった。その結果、15回を確保すべく、「国民の祝日」まで授業をやることになった。私も初めて、4月29日(「昭和の日」)に授業をやった。回数至上主義。本末転倒なり。

教育の変化は、学会の開催にも影響している。かつて憲法の学会は5月と10月、平日に行われた。授業を「学会休講」にして参加した。2004年の法科大学院ができたとき、学会出張の規制が徹底して行われ、教員の間に抵抗もあったが、いつの間にか「定着」してしまった。それは教員研究者の忍耐と諦めによるところ大である。休講には補講が義務づけられるが、15回だと、補講を何度も入れることは困難になる。勢い、研究のための出張も自粛されるようになった。

その結果、学会の開催の仕方まで変化した。平日開催はあり得ず、土日・祝日を使った開催になった。そのため、学会の途中で帰る地方大学の人が出てきた。月曜1限の授業を入れている人は、夕方5時までの学会に出席していては、交通機関の関係で、その日のうちに帰れない。私も札幌と広島に12年いたから、日程のやりくりが大変なことはよくわかる。首都圏の大学でも同じである。やたら校務が増えて、土・日の仕事が入り、学会どころではない。教育における一律・過剰なサービスの結果、研究時間だけでなく、学会活動にも支障が出ている。

10月の京都での学会のおり、ある教授が、「私は全国憲法研究会の創設以来、一度も休まず皆勤しましたが、明日は休日授業のため初めて欠席します。残念です」と私に語り、足早に去っていかれた。その悔しそうな顔が目に焼きついている。大学教員は研究者である。学会も出られず、回数強制により休日授業をやる。本末転倒なり。

要するに、大学には、画一性と同質性への強迫が蔓延しているように思う。他と違ってはいけない。同じ期間、同じ回数、できるだけ同じ内容を、同じように提供する。大学が「世間」に過剰に気をつかい、教員は萎縮する。匿名の暴力がネットの掲示板にあふれている。とりわけ、2004年に法科大学院が出来てから、結果オンリーの、これまでの大学にはない価値観が蔓延してきた。ある教員が外国の例を説明しようとその国の話を始めたところ、教員に向かって、「関係ない話はやめてください」と言った学生もいたそうだ。試験に関係ないことは話すな、というわけだ。「厚顔無知」と「傲慢無知」が増殖して、教室の雰囲気を悪くしている。本末転倒なり。

歴史学者の阿部謹也氏の著書『学問と「世間」』(岩波新書、2001年)には、「世間」の横並び志向が大学の中にも及んできたとして、こう述べる。1991年に大学設置基準の改定が行われ、一般教育と専門教育の制度上の壁が取り払われた。いわゆる「大綱化」である。大学における「規制緩和」の最初の一突きだった。これにより、大学における戦後の一般教育は解体され、「教養教育」の改革が行われた。しかし、これは成功したとはいえない。「教養とは何か」についての共通理解なしに行われたからである。

もう一つ、財政再建的視点である。公務員の定員削減。その行き先が、国立大学等の独立行政法人化であった。国立大学は国民の税金でまかなわれているから、「そこで営まれている学問・研究は果して国民の需要を充たすものなのか」という厳しい眼差しが向けられた。阿部氏は、「独立行政法人化のような乱暴な政策が強行されようとしているのも、まさに国民のそのような目を意識してのことだとすら思われる」と述べている。一橋大学学長だった阿部氏。この本が出た3年後に、国立大学の独立行政法人化が発足する。

鴻上尚史『「空気」と「世間」』(講談社現代新書、2009年)は、阿部氏の視点を現代風に展開したものだが、そこでは、「世間」が流動化したものが「空気」として捉えられている。教員の給与をカットする際、理事会が持ち出した最大の根拠は、世間の眼、学費負担者の眼である。給与カットのなかで、「空気を読め」というわけである。だが、これは到底納得できない。かつての大学教員よりも、はるかに密度の高い仕事を、恒常的緊張のなかでやらされている。研究・教育が苦痛になる。これぞ、本末転倒の極致である。

次回は、小泉内閣の「構造改革」のもとで、規制緩和、独立行政法人化、専門職大学院等々が、大学にもたらした負の遺産と、それを克服して大学の再生をはかるためには何が必要か、そのための道筋を論じてみたい。(この項続く)

 

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