死刑か無罪か――鹿児島裁判員裁判 2010年11月8日

に体調を崩し、病院で徹底的に検査を受けた。8日間完全静養した後、4日から授業を再開した。関係の方々にご心配とご迷惑をおかけした。これからは健康に十分に注意して、少しテンポを落として仕事を続けていきたいと思う。

授業再開の前日、鹿児島で講演した。 「日本国憲法公布64周年講演会」 。5年ぶり3回目の 鹿児島講演である 。かなり前から決まっていたもので、キャンセルはできない。逆に、鹿児島の人と自然に触れて職場復帰のバネにしようと、周囲の懸念を振り切ってあえて実施することにした。当初の日帰り日程を変更して、前日から鹿児島入りし、豊かな自然のなかで、体をならしていくことにした。

2日午後は、主催者の飯田泰雄・鹿児島大学名誉教授の案内で、大隅半島の観光を行った。垂水方面からの 桜島の噴煙は迫力があった 。海自鹿屋航空基地の資料館なども見学した。3日午前は、小栗実・鹿児島大学学長補佐の案内で 桜島をくまなく観光し 湯之平展望所 から桜島を間近に見ることができた。 埋没鳥居 噴火時のシェルター 降灰対処の屋根付きの墓 など、桜島独特の風景も興味深かった。お世話いただいた方々に、この場を借りてお礼申し上げたい。

桜島に元気をもらって、午後からの講演は100分を一気に語ることができた。気力も体力も落ちていたので、翌日からの授業再開にも自信がついた。実は、私に元気をくれたのは、鹿児島入りした当日に始まった裁判員裁判だった。今週の「直言」はストック原稿をアップする予定だったが、急遽本稿を書き下ろすことになった。執筆力も下がっていたので、この事件との出会いは、私に書くリビドーを復活させてくれた。

 11月2日付各紙は、1日の「耳かき店員殺害事件」東京地裁判決を大きく扱っていた。裁判員裁判で初の死刑求刑。判決は無期懲役だった。『朝日新聞』東京本社版は一面トップ、機内(愛媛からの便)で読んだ大阪本社版は写真入りで一面の左側半分を使い、鹿児島に着いてから入手した西部本社版(福岡)は一面で小さく報じていた。

判決は、死刑に関する「永山基準」(1983年最高裁判決)に基づき慎重に判断し、計画性のなさや、抑うつ状態が悪化して愛情が変化して殺害を決意したこと、母親殺害も、不意の遭遇で激しく動揺した結果などと丁寧に認定し、「極刑に値するほど悪質な動機とは言えない」「深く後悔しており人生の最後の瞬間まで内省を深めることを期待すべきだ」などとして、無期懲役を言い渡した。事実関係にほとんど争いはなく、裁判員の判断は「死刑か無期か」の量刑に絞られた。

裁判員裁判の問題点の一つは、事実認定よりも、量刑に集中してしまうところにある。重罰主義に流れる「世間の目」に影響されて、量刑は重きに傾く。また、裁判員には生活があり、審理に時間がかけられない。制度設計としては、短期間の審理が想定されている。法廷に提出される証拠についても、公判前整理手続で振るい落とされていく。そのため、否認事件や死刑求刑事件の場合、裁判員制度は「裁判のファーストフード化」と冤罪を招くおそれはないかなど、さまざまな危惧が表明されてきた。私自身、 この制度に強い疑問を持ってきたし 、いまも 変わっていない 。だが、2日に鹿児島地裁で開かれた裁判員裁判の第1回公判の様子を、傍聴した大野友也・鹿児島大学准教授から聞いて、これは裁判員裁判に新局面を開くのではないかと、知的興奮を覚えた。判決まで1カ月以上あるが、この段階であえて詳しく書いておこう。

この事件は、2009年6月に鹿児島市内で老夫婦(夫97歳、妻87歳)が殺害され、71歳の男性が強盗殺人と住居侵入の罪で逮捕、起訴されたものである。被告人は、捜査段階から容疑を一貫して否認している。裁判員裁判ではこれまでなかった完全否認事件である。殺害の態様はきわめて残虐で、被害者はスコップで何度もめった打ちにされ、2人とも顔が「お面のよう」になるまで削られていた。強盗殺人罪(刑法240条)の場合、死刑か無期懲役しかない。完全否認の場合、遺族への慰謝は当然ないわけだから、有罪となれば情状酌量の余地なしで、死刑判決が出る可能性が高い。

 ここに、2日に裁判員に配付された検察官の冒頭陳述メモ(2枚)と、弁護人の冒頭陳述書がある。検察側のメモはビジュアルで簡潔、実にわかりやすい。事件の経緯、犯行状況、被告人が犯人であることなどを、まるで研究会のレジュメのように過不足なく書き入れている。内容は別にして、裁判員に説明するため、よく工夫されていると思った。対する弁護側も、レジュメ1枚に立証趣旨が簡潔に書かれていて、しかも陳述書自身、文章が短く、改行を多用して、実に読みやすい。長くて回りくどい法律家の文章はそこにはなかった。

 弁護側の陳述は「被告人とされた白濱政廣さんは、犯人ではありません」「現場をよく知る、顔見知りの犯行です」で始まり、冒頭から検察側と完全に対立している。そして、検察官が証拠としている指紋やDNAは「何者かによってねつ造されたものです」とまで断定している。裁判員裁判始まって以来の、重大否認事件である。

検察の冒頭陳述によれば、「整理ダンスの引き出しを片っ端から引き出すなどして金品を探した」と書いてある。だが、財布や封筒などにあった現金、合計13万円と貯金通帳は手つかずに残されていた。金庫も荒らされていなかった。そして、スコップにも侵入箇所の錠にも、物色されたタンスの引き出しなど、犯人が確実に触れると思われるものからは指紋が検出されず、タンス内の書類から10箇所、壁に立てかけられたガラスの破片から1箇所、錠を外すために手を入れたところから被告人の「細胞片」が1つ検出されたという。被告人には前科があり、警察には指紋が保存されている。それと照合・一致する指紋が、書類とガラス片からだけ出てきた。これが被告人を犯人とする「物的証拠」というわけである。

検察側は、被告人は6畳居間の掃き出し窓をスコップで割って侵入したとする。だが、割れば大きな音がしたはずで、被害者が気づいたはずである。「割れたガラス片は、ご丁寧に、二枚揃えて壁に立てかけていました」「お湯を沸かし、蛍光灯の明かりもついていたのです。平穏に被害者宅を訪問した、顔見知りの者がいたのです」と弁護側。住居侵入、強盗、殺人というストーリーを描くにはあまりに不自然な現場の状況である。

室内で土足痕も見つかったが、検察側は、被告人の靴のサイズが一致したとしか述べていない。逆に弁護側は、この室内の土足痕は「セイフティジョイ」という靴の底型模様と似ており、被告人は「ニューバランス」という運動靴しか持っていないこと、被告人の靴には血痕が付着していないことなどから、別人のものとしている。

注目されるのは、検察側が目撃証言を1つも挙げることができなかったことである。弁護側は、「本件事件を解明するためには、現場をみることが一番です。『百聞は一見にしかず』『現場百回』と言います」と述べ、現場の状況を詳細に描写している。犯行は6月18日午後8時前、夏至の鹿児島市の日没は午後7時半頃。天候は晴れ。近くの団地に帰宅する車や人の交通量も多い時間帯だった。現場にはタイヤ痕はなく、被告人は車を運転していない。返り血を浴びたであろう状態で、まだ暗くなっていない時間帯、交通量の多い場所をどのようにして逃げたのか。弁護側は、「白濱さんではない『不審者を見た』という目撃証言も存在します」と述べている。

これは大変な事件である。これまでの裁判員裁判ではもっぱら量刑が焦点だった。東京の「耳かき店員殺害事件」では、「死刑か無期か」が問われた。だが、鹿児島の事件は、量刑はほとんど問題にならない。むしろ、事実認定のところで、被告人を犯人とするだけの有罪の証明が十分になされているか、が焦点となる。検察官は死刑を求刑する可能性が高い。とすると、焦点は「死刑か無罪か」にならざるを得ない。簡単に結論は出せない。裁判員制度発足以来、最大の事件が始まったと感じた。

11月1日に裁判員選任手続きが行われた。これは全国的にも注目された。裁判所が呼び出し状を送付した295人の裁判員候補者のうち、233人が辞退したからである。辞退者は約9割に達し、制度発足以来、最多となった。当日出頭すべき候補者46人のうち、欠席が12人も出て、 抽選対象者は29人にまで減少した 。最終的に、裁判員6人、補充裁判員4人がくじで選ばれた。補充裁判員は最大6人まで選べるが、これまでで最多になった。男性4人、女性2人の裁判員と補充裁判員も法廷に入るから、陪審制の12人には2人足りないが、「10人の男女」が審理に参加するわけである。

 

『南日本新聞』2日付によれば、裁判員候補者には裁判所から「死刑、無期懲役、無罪を判断する重要事件」という説明があり、また、「〔40日間の長期にわたるが〕本当に出席できますか。大丈夫ですか」という念押しの電話もあったという。

 この事件は裁判員発足以来最大の40日間が予定されている。最高裁によれば、制度発足以来1年間の平均の数字で、裁判員が法廷に拘束されるのは平均3.8日、評議は平均7時間20分だった。本件では40日間、評議に3週間という桁違いの時間が確保されている。それだけ、本件が「死刑か無罪か」を決める、きわめて重大な事件であることを意味する。

私が鹿児島に入った2日は冒頭陳述が行われた。4日証人尋問。「現場百回」の弁護側の主張を受けて、5日には、殺害現場での現場検証が初めて行われる。そして、8日〜12日、15日に証人尋問を連続して行い、16日に被告人質問、17日に結審する。18日から3週間もかけて評議を行い、注目の判決は12月10日午前10時に言い渡される。証人の数は発足以来最大になるだろう。

初日から裁判を傍聴し、鹿児島テレビ(KTS)での解説も担当した大野友也准教授によれば、初日の検察冒頭陳述から、裁判員にも傍聴者にも、「えッ?」という場面が多々出てきて、これは大変な事件になるという予感がしたという。それは前述したような、土足痕の靴のサイズとか、指紋をめぐる不自然な状況、目撃証言がないことなど、あまりに検察の主張に矛盾や疑問が多かったことと無関係ではあるまい。

 4日の第2回公判を傍聴した大野氏によると、鑑識課警察官の証人尋問が行われ、866のDNA資料のうち、1つだけが「ほぼ一致」したこと、それも使い切ってしまったので再鑑定できないことが明らかにされたという。DNA鑑定の問題性が浮き彫りになった足利事件の教訓を踏まえるならば、裁判員がこの866分の1の「ほぼ一致」をどう判断するか。大いに注目されるところである。なお、4日の公判でこの警察官は、被告人の自宅や被告人所有の自転車、衣服、靴などから、事件と関連する証拠は一切出てこなかったことも証言したという。

また、4日の公判では、被害者と親族間で遺産相続をめぐる争いがあり、また、特定の親族との間で、被害者宅のレース鳩の鳴き声や糞をめぐって対立があったことなどが証言された。被害者のうちの夫の方がアルコール依存症で入院歴があり、以前はかなり酒癖が悪く、周囲との関係がよくなかったことも証言された。

 5日の現場検証で裁判員がどのような心証を得るか。事件は現場で起きている。その現場をしっかり検証することで、裁判員が、裁判官では見抜けないような事実を発見するかもしれない。被告人の指紋が付いていたとされる窓ガラス片が2枚並べて立てかけてあった不思議など、現場の状況をしっかり踏まえて解明してほしいと思う。

大野氏によれば、現場検証の行なわれた被害者宅は 白いシートがかけられ 、裁判員の出入りについては取材自粛が求められたという。被害者宅の南側には片側一車線の県道が走り、人通りも多い。今回は室内だけの検証だったが、逃走経路まで検証すれば、裁判員の印象もまた違ったものになるのではないか、と大野氏はいう。

 刑事司法の大原則は、「疑わしきは被告人の利益に」という無罪推定の原則である。裁判員は、「罪を犯したことは間違いないと考える場合は有罪」「有罪とするには疑問があるときは、無罪としなければなりません」と説明される(最高裁判所説明例)。初日の法廷は、被告人が「罪を犯したことは間違いない」と自信をもって言えるにはかなり距離のある雰囲気だったようである。すべてはこれからである。5日の現場検証を踏まえて、8日からの集中的な証人尋問で大きな山場を迎えることになるだろう。

 これまでの裁判員裁判では、裁判員は量刑で悩んだ。「耳かき店員」事件では、「死刑か無期か」という選択だった。しかし、本件では、死刑か無期かの量刑の問題に至る前に、被告人は「有罪か無罪か」が鋭く問われている。被告人を「有罪とするには疑問がある」という傾きが生まれれば、おのずと結論は明らかである。

 量刑判断が中心だった裁判員裁判が、本件では、「有罪か無罪か」を問う陪審裁判のように機能していくのではないか。補充裁判員を含め、法廷には10人もの男女が在廷している。私は、裁判員制度の陪審制度的修正が必要であると考えている。裁判員制度は、裁判官との合議に参加していく参審制と、有罪か無罪かだけを評決して、量刑は裁判官が決める陪審制との折衷的な性格をもつ。12月10日に言い渡される判決は、裁判員制度とその運用に大きな影響を与える歴史的判決になるかもしれない。

付記:本稿執筆にあたり、現場から最新の情報を送ってくれた大野友也氏に感謝申し上げたい。

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