裁判員制度は「第二の後期高齢者医療制度」?  2008年8月4日

判員制度の発足まで9カ月あまりとなった。先週、「裁判員制度は『第二の後期高齢者医療制度』になる」という記事を見つけた(『読売新聞』7月27日付)。見出しにひかれて、すぐに本文を読むと、こういうことだった。
   7月15日から裁判員候補者名簿の作成作業が始まり、この11月から候補者のもとに通知書が届く。だが、福田首相の周辺は、「裁判員制度は『第二の後期高齢者医療制度』になるのでは」と危惧しているというのだ。4月15日から始まった後期高齢者医療制度は、国民の反発を招き、福田内閣への打撃となったことから、同じ反応が、裁判員制度でも起きると判断したわけである。広報担当者を官邸に呼び、「マスコミに丁寧に説明してほしい」と念を押したという。法務省などがパンフやチラシ約1889万部を作成しているし、説明会を全国各地で開き、これに129万人以上が参加しているから、「認知度は高まっている」と記事はいう。だが、一部のフォーラムや「司法改革」タウンミーティング」が「サクラ」を使っていたことが判明しており(2006年12月)、この数字は額面通り受けとれない。何かと話題の多い鳩山邦夫法務大臣(当時)も、「サイバンインコ」の着ぐるみにまで入って、PRに余念がないが、国民の関心はいっこうに高まらない。今年4月に最高裁が発表した意識調査では、「参加したい」という回答は15.5%にすぎず、「義務でも参加したくない」が82.4%だった(前掲・読売)。本来、「司法の国民的基盤」を強めるはずの司法参加が、なぜ、国民にそっぽを向かれているのか。その真剣な検証が必要であるにもかかわらず、制度発足に向けて熱心なのは、法務省と最高裁ばかりである。すでに裁判員制度の延期を求める弁護士会も出てきている。

  そうしたなか、首相官邸が裁判員制度を「第二の後期高齢者医療制度」と位置づけたことをどう診たらよいか。

  第1に、そこには政権維持の視点しかないことである。後期高齢者医療制度はタイミングも最悪だった。消えた年金の照合問題が遅々として進まないなかで、年金からの「天引き」が始まったのだから、到底理解は得られない。国民の批判が高まり、政府は小手先の手直しを「逐次投入」して、この制度は整合性がとれなくなりつつある。
   裁判員制度も同じである。来年5月の発足を前に、政権維持の狭い視点から小手先の「改良」を加えていけば、もともと問題を抱えているこの制度の設計に狂いが生じ、「司法改革」の正当性が劣化していくことは避けられない

  第2に、後期高齢者医療制度と裁判員制度の双方に共通するのは「見えない負担感」である。前者は、年金からの「天引き」という手法によって増幅させられた。高齢者医療費削減という目的だけを突出させれば、医療の現場は荒廃する。事実、医師会も反発し、結局、誰のために、何のための「改革」なのかわからなくなってきた。それを政府は、説明不足の問題に解消しようとしている。
   裁判員制度も同様である。国民の司法という設計自体には、陪審制の歴史的経験を踏まえれば、積極的な意味合いをもつ。だが、裁判員制度は、陪審制と参審制のメリットをいずれも減殺してしまう効果をもち、加えて、不出頭への過料や、事実認定や量刑などについて漏らした場合に懲役・罰金に処せられるなど、国民には負担感だけが目立つ
   福田内閣は、裁判員制度を「第二の後期高齢者医療制度」ととらえたことにより、前述のように、負担感の軽減に向けて小手先的対応が始まるだろう。根本設計に問題のあるものをどんなに丁寧に説明しても、納得は得られるものではない。そこで、この際、裁判員制度について書いた一文を転載することにしたい。

 

友だちの友だちは裁判員?

 ◆「裁判員誕生!」

  「裁判員参上!」という法務省PR用看板が「裁判員誕生!」に変わった(『毎日新聞』2008年4月19日付)。法務大臣の直接指示によるもので、大臣本人は「友だちの友だちは裁判員」が本命のようだったが、字数が多いため断念したようである。

  女優の仲間由紀恵さんが微笑みながら手を差し伸べて、「ともに。裁判員制度」。これは一昨年、法曹三者が連名で、大々的に新聞広告を出したときのキャッチコピーである(2006年10月各紙)。最高裁も仲間さんを使い、「えっ、私も裁判員?!ですか。」を出した(2007年1月)。

  この制度について、法曹三者のなかで一番熱心なのは法務省・検察庁である。少し前に見つけた「裁判員PR検察汗だく」(『朝日新聞』2008年3月18日付)という記事によれば、福岡高検は、2月上旬に「サイバンインコ」の着ぐるみを県内各所に派遣。検察事務官がなかに入って、まさに汗だくの宣伝活動。福井地検は「越前カニ」をモデルにして「やるカニ」くんをつくるなど、広報用ご当地キャラも登場。同日夕刊には、仙台地検で検事正が「裁判員制度が始まります」というタスキをかけて、松島・21キロハーフマラソンを完走したという記事も。

  弁護士会の側は明らかに冷めてきたようだ。今年1月の日弁連会長選挙では、『裁判員制度はいらない』という著書をもつ候補者が43%近くも得票した。そうしたなかで、2009年5月21日(木曜)に裁判員制度が発足する。

 ◆人々の関心は「辞退の理由」

  どの世論調査でも、裁判員制度に対して市民は積極的ではない。長い周知期間を置いたはずなのだが、ここへきての懸命のPRにも、どことなく虚しさが漂う。

  私を含めて、もともと裁判員になれない人が結構いる。「なれない理由」は、欠格事由、不適格事由、就職禁止事由、辞退事由の4種類。禁錮以上の刑に処せられた人は、どんなに時が経過していてもなれない(裁判員法14条)。ずっと昔の交通事故でも、裁判員欠格の烙印が押される。また、何らかの形で事件に関係する人々は不適格とされる(17、18条)。私のような私立大学の法学部教授は「就職禁止事由」に該当する(15条)。何故なのかはわからない。

  「辞退事由」については、70歳以上とか、学生、要介護の親族を抱えている人などは法律に書いてある(16条)。だが、「その他政令で定めるやむを得ない事由」をどのように定めるかは、悩ましいところである。

  実は、昨年秋の早稲田祭で、高校生向けのゼミ展示を依頼され、私のゼミが裁判員制度をテーマにしてこれを行った。その際、ゼミ生たちは、裁判員法16条7号政令の案をもとに、高校生に「辞退事由クイズ」を実施した。「妻の出産予定日と重なる」「海外出張での会議に、本社代表で出席する予定である」「会社のスポーツ部のレギュラーで、全国大会に向け強化合宿中」が○で、「家族で中華料理店を営み、忙しい」「祖母が介護施設に入りたてで、いつ連絡がくるかわからない」「大学の非常勤講師として授業がある」が×という結果に、高校生は怪訝そうな顔をしていた。

  死刑の可能性がある重大事件の審理には、宗教的理由から参加できないという人も出てこよう。これをどう扱うか。性格は異なるが、徴兵制をもつ国における良心的兵役拒否の問題とも重なる面がある。結局、政令案には、「思想信条」を理由とした辞退は明記されないことになった。そのかわり、裁判員の職務により「精神上または経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由がある」場合という抽象的な一文が入り、これで宗教的理由などによる辞退をカバーするようである。いずれの場合も、裁判員選任手続において、裁判官に事情を説明し、その判断で決まる。当然、裁判官によって同じ結論になるとは限らない。

  たまたま私のゼミのOBが、模擬裁判員選任手続に参加する経験をした。私に感想レポートと呼出状などの関連資料を送ってくれた。彼は県庁所在地の地裁から呼び出しを受けた。質問票に、「業務が以前よりも多忙になった」と記入したところ、彼だけ裁判官による質問手続を体験した。「被告人になって尋問を受けているかのような感覚を覚えた」と彼は書いている。そして、私へのメールでこういう。「手続の進め方や内容はもちろんですが、企業に勤めている市民の実態や裁判員制度の世間での認知度について把握していないのではないかと感じます。この状態で2年も経たないうちに制度が始まるとなると、相当荒削りなものになると考えられます。本当に大丈夫なのでしょうか」と。

 ◆24時間電話相談とは

  そもそも、この制度は市民の側が求めたものではない。日弁連は一貫して陪審制の復活を要求してきたが、いつの間にか、参審制もどきの制度に変わってしまった。司法制度改革審議会の議論もお寒いもので、最終的に6人という数字になるあたりは、「さじ加減」の議論だった。

  「裁判ざた」という翻訳不能な言葉がまだはびこるこの国で、法律の世界にウブな人々を、突然、死刑か無期かを決める過程に放り込む制度設計には、そもそもの疑問があった。もっと身近なところから裁判に関わるような仕組みであるべきだった。その意味では、市民の負担は単に時間だけでなく、心理的なものも大きい。

  最高裁は、裁判員が殺人事件の審理などで、遺体の解剖写真や傷口の写真などを証拠として見て、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になって職場復帰できないようなことに備えて、24時間の電話相談窓口を解説する方針を決めた(『読売新聞』4月13日付)。

  日本の場合、無罪率が極端に低く、ほとんどが情状立証になる。裁判員の役回りは、勢い量刑の判断のところで「発揮」されることになる。だが、素人に量刑判断させることは危ない。ワイドショーにより反復継続して「厳罰感覚」刷り込みを受け、「両親の気持ちを考えれば、死刑にすべきだ」と主張する人が出てくるだろう。殺人事件の場合、本人、すなわち直接被害者は死亡していて直接声をあげることはできないから、そこで登場する被害者は常に家族、親族である。つまり間接被害者である。その訴訟参加が、冷静な審理を必要とする法廷を、「仇討ち」ないし「復讐」的心象風景で覆うおそれなしとしない

  昨今のこの国の、「空気を読みすぎる傾向」(私のいう新KY)には危ないものを感じる。また、公判前整理手続(49条)や、多忙な裁判員への配慮としての、審理の迅速性の重視(51条)などが、裁判にマイナスに働くこともあり得る。重大否認事件において、複数の鑑定を突き合わせていると時間がかかるということで、省略される可能性もある。まだ1年ある。「もうたくさん金を使ってしまった」という思考の惰性ではなく、法的措置をとって再検討する勇気も必要だろう。

(2008年4月20日脱稿)

〔『国公労調査時報』2008年6月号「同時代を診る」連載第41回より転載〕

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