監視カメラは何を監視しているのか――「安全・安心社会」の盲点(1) 2012年8月20日



「慣れる」という言葉がある。「その状態に長く置かれたり、たびたびそれを経験したりして、違和感がなくなること。通常のこととして受け入れられるようになること」をいう(『大辞泉』)。「その土地の気候に慣れる」「彼女のきまぐれにはもう慣れた」など、日常よく出会う言葉の一つである。監視カメラ(「防犯カメラ」よりも広い意味で)についても、この「慣れる」という言葉が妥当する。

 いま、監視カメラは、日本全国に300万台あると言われている。それに対する国民の意識や対応は、明らかに変わった。プライバシー権との関係で鋭い緊張関係にあるにもかかわらず、これを問題視することはほとんどなくなった。「安全・安心」のためには自由の制限やプライバシーの侵害もやむを得ないという意識が一般的になりつつあるようにも見える。監視カメラをめぐる「文化」が変わったと言ってもいいだろう。

だが、監視カメラに違和感がなくなり、それを日常のものとして受容することで「監視カメラへの慣れ」が生まれていることは、権利・自由の侵害への「馴致」にもつながりかねない。防犯上必要なカメラの利用ということは一般的には否定できない。だが、「安全・安心」のかけ声のもと、監視カメラ設置の密度と濃度は、犯罪防止という目的のために必要な手段を超えているようにも思われる。そこで、今週と来週と再来週の3回、身近な例を用いて、この問題について考えてみることにしよう。

冒頭の写真は、山間の町のごみステーションである。「不法投棄禁止」ということで、関係者以外のごみ捨てをチェックしようというのが目的のようだ。人が近づくと点灯するライトが手前にあって、昼夜を問わず監視するという構えで威嚇する。周囲には住宅や別荘がまばらにあるだけで、あとは山林である。散歩の途中でこれを撮影していると、住人らしき夫婦が車でごみを捨てにやってきた。人があまり通らない道で、監視カメラに向かってカメラを構える怪しい奴…。これ以上ないというほどの怪訝な顔で、私のことを見つめていた。

また、都会のマンションや共同住宅では、住民の多さとは反対に人間関係は希薄で、管理人などが介在する分、監視カメラの問題性は濃密度を増す。身近な例ということで、東京近郊のマンションに引っ越した知人の体験を紹介しよう。

今年の春から住み始めたマンションでのことです。オートロック方式のエントランスで、日勤の管理人がいます。2ヵ月くらい経った頃、初めて「資源ごみ」を出すことになり、市のごみ収集カレンダーで日にちと出せる物を確認して、段ボール、古布、飲料パック、そしてあらかじめ紐で束ねて準備してあったカタログ類を、指定された金曜の朝、マンションのごみステーションに出しました。

翌土曜の未明、地方に住む親戚の訃報が入り、通夜・葬儀で4日留守にして、火曜夜に帰宅。その翌日、管理人からインターフォンに連絡がきました。


管理人:先週の資源ごみの日に、雑誌を出されませんでしたか。赤い紐がかかってるものなんですけどね。
私:さあ、赤い紐でしたら、うちではないです。
管理人:防犯カメラに映ってるんだけれど。
私:えっ?!それ、私なんですか。
管理人:よく似た人が映っていて、赤い紐のかかった雑誌なんだけど。
私:赤い紐ならやっぱり違うと思います。うちは白い紐しかないので。
管理人:『○○会社の歩み』という雑誌が入ってるんですよね。
私:えっ?…○○会社ならうちですね(夫の勤める社名)。
管理人:すいませんが、いまちょっと見に来てもらえませんか。

駐車場横のごみステーションに行くと、フェンス越しに、赤い紐で十字に束ねられた塊が見えました。手に取ると、確かに我が家が出したカタログ類でした。通常は白いロールのビニール紐しか使わないのですが、それだけはたまたま荷物か何かに使われていた赤い紐で束ねたようです。

 管理人によると、この地域では、今年度から「本」は「資源ごみ」の日ではなく、「不燃ごみ」の日に変更になったのだと。しかも、パンフレットやカタログでも、厚みのあるものは「雑誌」に入り、さらに「雑誌」は「本」として扱うので、「資源ごみ」の日には出せないというのです。そして、「注意してくださいね!あっ、もうこれはいらないな」。そう言って、管理人は階段の横に貼られた小さな紙を剥がそうとしました。

《金曜の資源ごみの日に雑誌を出された方、至急ごみステーションから引き取って下さい。持ち戻られない場合には、防犯カメラの公開をします》

剥がす横から文面を見て、びっくりしました。同じものを、1階の掲示板でも見つけ、それからエレベーターに乗ってまたびっくり。エレベーターのボタンのところにも、その≪防犯カメラ公開≫の紙が貼られていたからです。どうやら留守中にとんだ「おたずね者」になっていたようでした。

部屋に持ちかえったカタログ類を、「不燃ごみの日にまた出し直さねば」と考えていると、ふっと、急に恐ろしくなってきました。私は、ごみステーションに防犯カメラがあって、いつも映されていることを知ってしまった。「よく似た人が映っている」と管理人は言った。引っ越してきたばかりの私の顔を識別でき、ビデオで私を確認していた。回収されずに残された我が家の出したカタログ類の中身もチェックしていた。しかも、なぜか管理人は夫の会社名を知っていた。気持ちが悪い。もうごみステーションに行きたくない。私はマンション内のどこにカメラがあるのか、いくつあるのかも知りません。マンションの中を、顔を上げて歩くのも怖い。そんな心境になりました。

そんな時、ちょうど友人から電話がかかってきたので、この出来事を話しました。友人は、「そのカメラって防犯カメラじゃなく、まるで『監視カメラ』だね。防犯カメラは部外者の侵入を防ぐものなのに、これじゃあ住人の行動を監視するカメラになっている。怖いね」。友人の言う通りだと思いました。そもそもごみを出す日や品目を間違えるのは犯罪ではないですし、その該当住人を見つけ出すために、ビデオ解析を用いるのは行き過ぎではないだろうか、と。

帰宅した夫に顛末を話すと、思いがけない言葉が返ってきました。「管理人がそれだけ見てくれているというのは、セキュリティのしっかりしたマンションだってことじゃないか。安全を望むならしかたない。何かを望めば、反対の何かを失うのは当然だよ」。非常に悩ましい言葉です。

今回の件で、私は、マンションの防犯カメラは、外部からの侵入のチェックだけでなく、内部の住人のマナー違反などの摘発にも使われることを知り、恐ろしい気持ちになりました。便利で進んだ世の中、犯罪のない安全な社会。気がつけば、街中が監視カメラだらけという現実。最近逮捕されたオウムの元信者が、行くところ行くところ執拗に防犯カメラに映されていたことも思い出されます。SF映画のストーリーでなく、自分の身近にこんな世界がやってきていたとは。

 怖い思いをした知人には気の毒だが、この体験には、実にたくさんの興味深い論点が含まれている。熱心すぎる管理人の問題であり、一般化はできない、という指摘も可能だろう。あるいは、地方自治体ごとにごみの分別が複雑になり、そのトラブルの一つという見方もあろう。だが、マンションという限られた空間に暮らす「部内者」の間で、「防犯カメラの映像を公開する」という形で「ごみ出しモラル」を強制しようとしたこのケースは、私にとって驚きであり、「安全・安心」の突出による社会の歪みを象徴しているように思えてならないのである。

 監視カメラ(「防犯カメラ」)は一体何を監視するのか。防犯の目的のためにのみ使われるのか。それは知人の例が示すように、外部からの「不審者」をチェックするだけにとどまらないのではないか。コミュニティー内の関係者のなかから、不審者(不信者?)を炙(あぶ)りだす機能も果たし得る。日常的な「ごみの出し方」などがチェックされるだけではない。犯罪やトラブルが発生したとき、その映像は捜査機関によりフル活用される。監視カメラに投影されるのは、「非・不審者」と「不審者」しか存在しない世界である。そこでは、すべての人が容疑者として扱われる(Generalverdacht)。

  旧オウム真理教の指名手配犯の逮捕に至る過程は、「劇場化」どころか、「映画館化」の様相を呈した。指名手配犯について、「お前はどこでも見られている」というトーンで、監視カメラ映像が大量に使われたことは記憶に新しい。ただ、映像のすべてが公開されたわけではないだろう。警察はメディアに流す監視カメラの映像を意識的に操作しているように思われる。ここからも撮影している、これも映っているというのは言わば「手の内」である。「すべてが見られている」というイメージを強調することで、犯罪の隙間がないことを示す。そのアングルから犯罪抑止効果を狙う。だが、他方で、具体的にどのように「すべてが見られている」のかは決して詳らかにしない。あえて手の内を明かさないことで、犯罪者をおびき寄せる。これが密かな監視である。従来は、監視カメラの重点は後者にあった。それはプライバシーの侵害等の主張への対応でもあった。だから、テレビで公開されているのはほんの一部で、監視カメラの映像の量と質(「ここまで見られている!」)は私たちの想像をはるかに超えるものになっているはずである。

 この写真は、早大8号館の最上階のエレベータールームに設置された監視カメラである。このカメラは固定式で、ある特定の方向を撮影しているその位置から撮影した写真がこれである。設置されたのは4年前のことである。

  2008年5月8日。来日した中国の胡錦濤国家主席が早大を訪問して、大隈講堂で講演することが突然決まった。まったく唐突だった。教職員・学生への事前の案内はなく、当日になり正門が閉鎖され、講堂に近い1号館で行われる授業のすべてが、別の教室に変更になるなどして、教員も学生も大変混乱した。

 中国のチベット政策に批判的な学生や市民が大隈講堂前にやってきて、「チベットに自由を」と叫んでいた。胡主席が到着する前に機動隊が学内に入り、ブルーの柵を使って学生たちを大隈銅像前まで押し込んだ。異様な光景だった。もう一つ異様な光景は、8号館の高層階のエレベータールームに、学内の人間とは思われない目つきの鋭い男たちが現れ、胡主席が大隈講堂に入るところを撮影しようとしていた学生に、その場から離れるように求めたことだ。私は一つ下の階から大隈講堂を見ていたが、私のところに男たちは来なかった。その頃に監視カメラが取り付けられたようである。これに私は気づかず、あとで学生から聞いて知った。

 早大では、ここ15年あまりの間に、大学の建物に対する学部自治は弱められ、教室の管理について全学(教務部など)の権限が強まった。そのため、監視カメラの設置・運用に対して学部のチェックは十分ではない。ただ、2004年頃、新8号館建設の際、監視カメラの設置をめぐり、教授会で議論したことがある。設置場所をエレベータールームに限定することや、撮影した映像の利用制限などを議論した記憶がある。だが、それ以降、監視カメラに関する議論はない。ここにも「慣れ」が生まれている。

 次回は、監視カメラを使った街づくりや、「みだりに容ぼう等を撮影・録画されない自由」などについて考えてみたい。  

(この項続く)

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