憲法理論研究会と鈴木安蔵のこと 2012年11月5日


2010年10月~12年10月までの2年間、憲法理論研究会(略称・憲理研)の代表を務めた。10月8日の運営委員会で、新しい代表(運営委員長)と事務局長を選出して、私の任期は終わった。正直、ホッとしている。大藤紀子事務局長(獨協大学教授)と事務局員の皆さんには、この2年間、大変お世話になった。

私の任期終了ギリギリのところで、懸案だった憲理研ホームページを立ち上げることができた。この機会に、憲法理論研究会と創設者である鈴木安蔵(歴史的人物なので、以下、敬称なしとする。他の歴史的人物も同様)のことについて少し書いておこう。

350人を超える憲法研究者が参加する学会の運営は、けっこう神経を使う。学術総会、ミニシンポジウム、2回の夏合宿(私の時は島根県松江市と愛媛県松山市)の企画・実施のほか、月例研究会を毎回企画し、都内の大学に会場をセットしなければならない。終了後の懇親会もおおむね出席した。付き合いの悪い私にしては、かなり珍しいことである。月例研究会とぶつかる土曜日の講演はお断りし、また他の研究会なども欠席して、この間、もっぱら憲理研の活動に重点を置いてきた。

思い返せば、昨年のミニシンポは「貧困からの自由と生存権――『健康で文化的な』生活のベースラインを求めて」。弁護士の遠藤比呂通氏らを招いて大変有意義な会だった。今年7月のそれは、橋下徹大阪市長のブレーン、上山信一慶應大学教授をゲストに招いて、「変容する統治構造を診る」と題し、地方自治の現代的課題をめぐって緊張感あふれる議論になった。すべて『憲法理論叢書』20号(敬文堂、近刊)に収録されているので参照されたい

今回新しく選出された代表は糠塚康江氏(関東学院大学教授)、事務局長が志田陽子氏(武蔵野美術大学教授)である。昨年から全国憲法研究会の代表を辻村みよ子氏(東北大学教授)が務めているので、10月から憲法の二大学会のトップを女性が担うという、この国の歴史上、初めての事態が生まれた。この10年で女性の憲法研究者の数が増えたとはいえ、男性中心の研究者の世界、そのなかでも特に女性が少ない憲法分野においては画期的なことだと思う。

ホームページ開設の挨拶でも書いたように「憲法問題と冷静に向き合い、腰を据えた理論的解明を行うこと」は、改憲から壊憲(廃憲・破憲)まで飛び交う時代だからこそ、ますますその重要性を増しているように思う。

 『憲法理論叢書』のバックナンバーをクリックすれば、この21年間の学会や月例研究会、シンポジウムのテーマがわかる。また、日本国憲法制定過程において重要な役割を果たした鈴木安蔵が憲理研の創設者であり、初代の代表であることも知ることができよう

 鈴木は、1904年3月3日、福島県小高町(現・南相馬市小高区)で生まれた。生い立ちや学生時代のこと、戦前、戦後の鈴木の活動と「鈴木憲法学」というものについては、弟子の金子勝氏(立正大学教授)が執筆されたものに譲りたい永井憲一氏樋口陽一氏の文章からも、若い憲法研究者たちにとって鈴木がいかに重要な存在であったかがわかる。私が憲理研に入会したのは1978年なので、残念ながらお会いする機会はなかったが。

 鈴木の人と学問については、さまざまな評価がある。鈴木の思想遍歴を見ると、旧制高校時代は新カント派に傾倒。二高社研入会から大学時代はマルクス主義に急速に接近する。治安維持法違反で禁錮2年の有罪判決を受けるや、獄中で憲法学の文献を徹底的に研究する。その学問的パワーには驚くべきものがある。冒頭の写真は、私の研究室にある、戦前・戦後の鈴木の著作である。

 近年では、「系譜学」の方法論を活かした、原秀成『日本国憲法制定の系譜Ⅰ』(日本評論社、2004年)が、「忘却された憲法史家・鈴木安蔵」の活動と憲法制定過程における役割を明らかにしている。原氏も書いているように、1932年6月に刑期を終えて出所した鈴木が、その5カ月後の1933年1月と3月に吉野作造と面会し、短時間に集中して「憲法制定史研究」への示唆と方向づけを得たことは重要な意味をもつ(Ⅰ,90-94)。鈴木は1933年6月に『憲法の歴史的研究』(大畑書店)を刊行するが、その扉に「亡き吉野作造先生に献ず」とあるように、鈴木と会ってからすぐに吉野はこの世を去っていた。鈴木にとって、まさに運命的とも言える吉野との「出会いの最大瞬間風速」であった。

『憲法の歴史的研究』の「献辞に代へて」の冒頭、「私が、はじめて憲法学に親しんだのは、1929年の春であったが…」と書き、「はしがき」では「憲法学の研究に志して以来、いまだ、極めて日浅い」自分が本書を出す意味を率直に記している。

それにしても、鈴木の筆の速さは驚異的である。この482頁の大著を3年あまりで書き上げた。その間、刑事被告人という不安定な立場にあったため、本書には伏せ字が随所にあり、即日発売禁止処分を受けている。

なお、第3章「民間における憲法諸理論」において、自由民権運動から生まれたさまざまな「私考憲法草案」に注目していた点はさすがである。フランスやドイツ(プロイセン)の諸憲法の「マルクス主義憲法学」的方法からするカテゴリカルな分析よりも、この憲法史的研究の部分に私は魅力を感じた。

 翌1934年、鈴木は『日本憲法学の生誕と発展』(叢文閣)を出版する。雑誌『改造』や『唯物論研究』などに発表した諸論文を収録したものである。そのなかで、「自由主義の死滅」を題して、「最近ファシズム的機運の急速な台頭」のなか、自由主義はファシズムに汚染され、ファシズムの補足物ないし一分派に堕したと厳しく糾弾されている(201,210頁)。冒頭部分には、「本書の原稿が整理し終わるや殆んど同時に、著者は某事件のために下獄し、一切の自由を喪失しました」とあり、校正などは編集部でやったという出版社の断り書きが付いている(5頁)。伏せ字とともに、鈴木が置かれた厳しい状況が伝わってくる。

 出所して半年ほどたって、鈴木は衆議院憲政史編纂委員に就任している。これは『憲法の歴史的研究』を高く評価した大審院判事・尾佐竹猛の推薦によるものだった。鈴木はこの地位を利用して、高知の図書館で植木枝盛らの憲法草案を書き移すことができた(原Ⅰ,99頁)。

 日中戦争が泥沼化し、国内的には思想弾圧が厳しさを増すなか、鈴木は、土佐の植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」の発掘と分析にあたり、「尾佐竹庇護下」(原氏の言葉)で憲法史の研究に没頭する。

 この時期の鈴木の研究は、『日本憲法史概説』(中央公論社、1941年)という502頁の大著にあらわれる。「序」の日付は何と「皇紀2600年新秋の宵」。鈴木のスタンスの変化を見て取れる。だが、歴史的叙述は手堅い。第5章以降、自由民権運動の憲法構想に関連する叙述に割かれている。白眉は、第7章「私擬憲法時代の民間憲法諸草案」で、高知で発見した植木枝盛「東洋大日本国国憲按」が活かされ、詳細な検討が行われている。鈴木はこの植木草案のことを、「人民主権的傾向頗る強い立憲君主制が我が自由民権左派の主張であって、それ以上に民主的な主張は今日までのところ発見しがたい」と評価している(233頁)。植木の憲法草案を発見し、こう評価した鈴木の炯眼である。

だが、戦前の鈴木については、立花隆氏がその「影の側面」について執拗に光をあてている(「私の護憲論」連載第11回から17回まで〔『月刊現代』2008年5~11月号〕)。一つの根拠は、河上肇『自叙伝』のなかで河上が示した鈴木への不信と違和感だった。立花氏の筆は、河上の鈴木評価などに基づき、「二つの顔をもつ憲法学者」(『月刊現代』2008年9月号108-118頁)、「大転向の過去」(同10月号202-213頁)という形で、鈴木の別の顔を明らかにしていく。鈴木は映画『日本の青空』(大澤豊監督、2007年)で「英雄的な人物」として描かれるが、「時代考証」のひどさも含め、立花氏のこの映画に対する評価はきわめて低い(同8月号131頁など)。私は立花氏の鈴木評価のすべてに同意はできないが、「日本の青空」の評価については共感する。ちなみに、憲法映画『太陽と月と』(福原進監督、2010年)も、映画としては相当クェスチョンの作品だった。

 出所後の憲法史研究への重点移行は、立花氏も指摘するように、その背後に鈴木の「転向」の問題があることは否定できないだろう。戦時体制下、鈴木は「地味な」憲法史研究を続けるだけにとどまらなかった。進んで体制を正当化する論文を次々に発表していく。それは単に「筆を折る」というレヴェルにとどまらない、積極果敢なものだった。

 雑誌『改造』1941年2月号には、宮沢俊義、黒田覺と並んで、鈴木の「翼賛議会とは何か」が掲載されている。これは憲法史の研究ではなく、翼賛体制を丸ごと正当化する論調になっている。そこで鈴木は、「大政翼賛会とナチスやイタリアファシズム運動を同一視するのは間違いだが、政治的革新の一つの前例として参照の対象となることは必要にして有益な筈である」と書いている。「我国の新体制運動は飽くまでも帝国憲法の規定、精神を尊重恪遵する立場に立つ。その翼賛体制確立の方法手段においても公明正大、合法的なることは説明するまでもない。かかる運動によって我国新体制の確立さるるに至るならば、思うに歴史上比類なき独自の美果たるものであろう」と。

 まさに大政翼賛会の礼賛論である。その頃、日本各地では、隣組を通じて「萬民翼賛ノ本旨」に即した地域支配が徹底し、翼賛体制が浸透させられていた。鈴木はそれを「歴史上比類なき独自の美果」とまで美化している。

 のみならず、鈴木は敗戦直前には西部軍報道部員として福岡に滞在し、そこで本土決戦で米軍が九州に来襲したとき、九州を独立させてとことん戦い抜くべしという陸軍の一部に同調して、九州独立の法的側面の検討をしていたという(10月号213頁)。

 戦後、鈴木はこれら戦前の言動について反省の文章を書き、自己の戦争責任を総括している(『憲法学三十年』。立花氏はこれを「真摯に反省している」と書いている〔同11月号230頁〕)。鈴木はその後も自己批判を続け、大学教授のポストもずっと後になるまで辞退している。こうした点を含め、立花氏は鈴木が「自分をさらけ出して、自らを厳しく罰した」と評価している(233頁)。

 戦争が終わるとすぐに、鈴木は、高野岩三郎や森戸辰男、室伏高信らと「憲法研究会」を創設する。鈴木が起草した「憲法草案要綱」(第3案まで)は1945年12月27日に発表された。連合国軍総司令部(GHQ)民生局のラウエル中佐は、この憲法研究会案に注目。綿密な検討を加えた後、これを二つのセクションで翻訳し、「この憲法草案中に盛られている諸条項は、民主主義的で、賛成できるものである」という所見を付けた覚書を提出した(高柳賢三他編『日本国憲法制定の過程I』〔有斐閣、1972年〕26-39[35])。ここで詳しくは立ち入らないが、日本国憲法制定過程におけるGHQ案の起草に際して、鈴木の憲法研究会案が参考にされたことは確実と言われるようになった(同『日本国憲法制定の過程Ⅱ解説』18-21頁)。

 特に、この草案が国民主権を明確にすると同時に、天皇が国政に関する権能を有せず、「国家的儀礼ヲ司ル」としている点は、現行憲法の象徴天皇制につながっている。このアイデアは、植木枝盛の私擬憲法(「東洋大日本国国憲按」)が「皇帝」の権限に対して「立法院」の同意を随所にセットして、実質権限を議会に委ねようとした、さまざまな憲法的工夫と響き合う。家永三郎は、『植木枝盛選集』(岩波文庫)の「あとがき」で、日本国憲法の原案となったマッカーサー草案の作成にあたり、GHQが戦前におけるほとんど唯一の植木枝盛研究者だった鈴木安蔵が起草した「憲法草案要綱」を参考にしていたことを指摘して、「日本国憲法と植木枝盛草案の酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有する」(322頁)と書いている。日本国憲法には、鈴木安蔵を通じて、自由民権運動と植木の憲法構想が息づいているのである(以上、憲理研ホームページ・鈴木安蔵に書いた私の編集部注より

 今から思えば、戦前における鈴木は、治安維持法違反で獄中にあるときに憲法学の勉強を徹底的に行い、出所後、自由民権派の私擬憲法の研究に重点を移すことで、マルクス主義憲法学の教条的な学者としてではなく、むしろ、日本憲法史研究者として、日本国憲法制定過程にも寄与することになった。その意味では、立花氏がいう「大転向」とその誠実な反省があったからこそ、その後の鈴木もあったとは言えまいか。

 なお、日本国憲法の制定過程における鈴木安蔵の役割と同時に、最近知ったことだが、もう一人の福島出身の鈴木の存在と役割にも注意が必要だろう。それは法学者の鈴木義男(社会党)である。憲法25条の生存権規定が憲法に入るにあたっては、帝国憲法改正案特別委員会の芦田小委員会における社会学者の森戸辰男(社会党)の役割がよく知られている。だが、1996年になって初めて公開された政府文書(『帝国憲法改正案小委員会速記録』)の分析を通じて、25条の生存権規定成立には、鈴木義男の果たした役割が大きかったことが最近の研究で指摘されている。1946年8月1日、小委員会の第7回審議において、「それならば生存権は最も重要な人権です」という鈴木義男の気迫のこもった一言で、委員会の流れが生存権承認の方向に変わったという(清水まり子「鈴木義男と生存権規定成立への関与――研究ノート・その2」〔仁昌寺正一他『キリスト教教育と近代日本の知識人形成(2)』東北学院大学、2012年75-111頁〕参照)。芦田小委員会の審議内容を踏まえれば、今後は、「日本国憲法制定過程における二人の鈴木」にもっと注目する必要があるだろう。

 鈴木安蔵は、憲法理論研究会の代表を19年間務めた。そして、1983年8月7日、79歳で死去した。


《注》鈴木義男は衆議院議員7期、片山内閣の司法大臣・法務総裁を 経て、専修大学第7代学長、東北学院大学理事長を務め、1963年8月 25日、69歳で死去した。

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