信太正道さんを悼む――「最後の特攻隊員」
2015年12月7日

オランダ講演のポスター

太正道さん。88歳。平和運動の「厭戦庶民の会」代表で、23年のお付き合いになるところで突然のお別れとなった。信太さんをよく知る元日本航空客室乗務員の青山透子さんから死を知らせるメールが届き、仰天した次第である。あわてて『東京新聞』11月20日付特報面の「デスクメモ」で確認した。

11月3日の横浜講演のおり、最前列に座っておられるのを檀上から見つけ、「信太さん、お久しぶりです」と冒頭で挨拶した。信太さんはうれしそうに微笑んでおられた。その7日後、信太さんは検査入院で訪れた病院で急逝された。奥様のお話では、入院の書類を記入しているときに、車椅子の上で足がスーッとのび、すぐに病室に移されたが、そのまま亡くなったという。死因は脳幹出血と急性白血病だった。

信太さんと出会ったのは、1993年1月31日、瀬戸内海の大久野島の毒ガス工場跡地だった。前日の1月30日、私は、辰巳知司さん(共同通信)と尾崎祈美子さん(RCC中国放送)の依頼で、広島市内で開催されたシンポジウム「ヒロシマから生物・化学兵器を考える」のコーディネーターをやった。その翌日は大久野島のフィールドワークで、毒ガス資料館の村上初一館長(当時)の案内で毒ガス製造施設をみてまわった。その際、突然、背後から大きな声で私に語りかけてくる背の高い老紳士がいた。それが信太さんだった。神奈川県にお住みだが、1992年から2年間だけ広島在住だといって自己紹介をされた。お話をうかがい、知り合ううちに、その経歴の「すごさ」に驚くことになる。

最後の特攻隊員

海軍兵学校74期。1945年7月25日、海軍少尉に任官した直後、千歳海軍航空隊の士官食堂で、整列した隊員を前に司令が名前を読み上げる。200人中36人が神風特別攻撃隊古鷹隊に指名された。信太さんもその一人だった。出撃を待つ。その心境を著書『最後の特攻隊員――二度目の遺書』(高文研、1998年)でこう書いている。

「翌日から、二週間の体当たりのための訓練が開始されました。千歳の飛行場から夕張炭坑の山がよく見えます。指名されるまでは、あんな山に入ったら、この世の地獄だな、人間も終わりだなと思っていたのに、指名後は、あの中の人はいいなあ、死ななくてもいいんだものな、と変わっていきました。死刑を宣告されると、物の見方が変わるからでしょう。毎晩のように同じ夢を見ました。敵艦めがけて突っ込んで行く。ぽかーんと大きな水柱が立つ。見る見る自分が高く持ち上げられる。ワッハッハッと自分は笑う。なんだ、死んじゃいないではないかと大喜びする。そのうちに目が覚める。夢か。やっぱし、俺は死ななくてはならないのか、と現実に打ちのめされてしまう――そんな夢でした。いまでも5年に1度はこの夢を見ます。」

海上保安庁時代の信太さん

出撃することなく「終戦」を迎えた信太さんは、その後京都大学に入学。上級公務員試験に合格して海上保安庁に入る。最初に配属されたのが「航路啓開本部」。掃海艇部隊の管理部門である。すぐに朝鮮戦争が始まり、海上保安庁の「特別掃海隊」は1950年10月中旬から2カ月間、米軍の仁川・元山上陸作戦の正面海域の掃海活動に従事する。その間、MS14号艇が触雷し、1名「戦死」、18名が負傷する。3隻の掃海艇はすぐに海域を離脱したが、航路啓開本部長は「帝国海軍の恥さらし、戦場離脱だ、戦前なら銃殺だ」と激怒したという。信太さんはその本部長に呼ばれ、2000トン級の貨物船に乗って朝鮮海域の掃海状況の確認をしてくるように命じられる。木造の掃海艇が処理仕残した機雷がないかどうか、鋼鉄製の船で確かめる。海上保安庁ではこの船を「試行船」(GP1)と名付けていた。GPとはギニアピック、つまりモルモットのこと。この試行船が無事通れれば、米軍はその海域は安全であるとして活動を行う。海上保安庁の刊行物『海上保安庁の歩み』には、「戦後の特攻隊」という記述がある。信太さんは、その船にキャリア公務員としてただ一人乗船させられる。「私には何の仕事もないことが分かりました。・・・やっと気づきました。私自身が「モルモット」であることを」。2カ月間、磁気機雷があるかもわからない海域をただ航行させられ、米軍が遠方でそれを監視している。「私たちはつまり、米軍の“露払い”です。しかし、彼らには私たちに死を命じることは出来ません。私たちには戦場離脱の自由が100万分の1はありました。なぜなら、平和憲法があったからです」と信太さんは著書で書いている。

航空自衛隊時代の信太さん

1954年に航空自衛隊が発足すると同時に、信太さんは航空自衛隊員となる。アラバマ州の米空軍基地でジェット戦闘機パイロットの訓練を受け、築城航空隊のパイロット養成教官となる。階級は一等空尉である。そこで4人組でアクロパット隊を編成。これが後のブルーインパルスになる。だが、信太さんは自衛隊が米軍の“露払い”であり、旧軍出身者の保安庁・警備隊、自衛隊幹部の本音を直接聞くなかで疑問がつのり、1958年、自衛隊をやめて日本航空に就職する。23年間、国際線の機長をつとめ、1986年に退職する。その後、信太さんの平和運動家としての活動が始まる。私が大久野島で出会った1993年は、信太さんが平和運動の活動に入ったころだった。

日本航空機長退職時

信太さんの名前がメディアに知られるようになるのは、『朝日新聞』1993年10月13日付「論壇」欄への投稿である。この欄は大学教授ばかりでなく、一般の人からの原稿も企画報道部(当時)が選んで掲載していた。投書欄にある囲みコーナーである。私も何度か依頼されて書いたことがある。信太さんの原稿のタイトルは「海外邦人の救出は民間機で」というもの。以下、長いが掲載する。

 自衛隊法改正案をめぐる論議が再燃している。衆院解散によりいったんは廃案になった同改正案を、野党・自民党は、連立与党内の論議を横目に、独自に議員立法で臨時国会に提出した。緊急時の海外邦人救出のため、外相の要請で自衛隊機を派遣できるようにする「人道上のもの」と訴えている。  その背景説明として、先の国会の審議過程で宮沢首相は、自らが外相であった時のベトナム戦争中のサイゴン陥落を例に、邦人の輸送をアメリカに依頼しなければならなかったのは、チャーターした日航機の乗員が危険性の高い飛行に反対したことと、民間機の桁違いに高い保険料がネックになったためと答えている。
 また政府は、閣議決定も国会の承認も経ず、外相の要請で輸送を行う趣旨は、緊急を要するからであると説明。さらに、輸送にあたる自衛隊機への攻撃は自衛権の侵害になるとして、自衛隊機を防護するために、武力行使を容認する答弁も行っている。
 ところで宮沢前首相が例に挙げたサイゴンでは、外務省の邦人に対する退去勧告の後、米軍輸送機は使われず、ヘリコプターにより、わずかに10人が救出されたのに過ぎない。残る169人はサイゴン陥落後も、何ら危害を受けることなく現地に残っていた。もし自衛隊機が救助にあたっていたら、むしろ不測の事態による二次災害の危険性が極めて高かったのではなかろうか。また、外相が保険料を口にするようでは、本気で人命を助ける意思があったかどうかも疑わしくなる。
領空は「完全かつ排他的な主権を有する」(国際民間航空条約)のであり、民間機といえども、無断侵入した場合には、大韓航空機事件にみるように、絶対に撃墜されないという保証はない。まして、軍用機の場合には、たとえうまく逃げ通せたとしても、相手国の国民感情に取り返しのつかない、しこりを残すことになろう。
 緊急時といえども、政府は自衛隊機の飛行経路にあたる国々に飛行許可を申請する必要がある。その際、民間機の場合なら比較的簡単に許可を得ることができる。しかし、軍用機はそうはいかない。まして、騒乱時においては、飛行許可を得ることは容易ではない。
 湾岸戦争の時、自衛隊機の派遣に対して、イラクは敵対行為であるとし、ヨルダンは中立を損なうという理由で許可を与えていない。ヨルダンからエジプトへの避難民の輸送は日本のキリスト教団体などからの募金によりチャーターされた外国の民間機により行われた。イラクで働いていてエジプトに逃れたベトナム人を輸送したのは、政府のチャーターした日本航空の特別機だった。このように、民間機の方が「緊急時の、在外邦人救出のための輸送」にはより適切だということになる。
 内乱などを含む戦時における文民は「戦時における文民保護に関する1949年ジュネーブ条約」があり、国際法によって保護が約束されている。
 従って、政府は、まず外交手続きにより、文民保護を紛争当事者に要請し、その後、適切な国際機関に仲裁・保護を求め、中立機関の保障を得た赤十字のマークを付けた航空機によって輸送する方が、より安全で確実であることはいうまでもない。
 政府専用機も、自衛隊機として登録されている以上、海外では非軍用機では通らない。また、軍用機に同乗している民間人が国際法の保護の対象になるのは疑わしい。
 第二次大戦の末期、国際法の精神を無視して、武装兵士と軍需物資を搭載したために、多数の日本軍の赤十字船が海の藻屑となった。今回の改正案では、理論上、武装自衛隊員の同乗が可能である。自民党はいまだ前の大戦の教訓を学んでいないのであろうか。
 私は自衛隊と民間航空のパイロットであった。熟練度において、一万時間以上の国際線飛行時間を有するパイロットが何百人もおり、世界の空を知り尽くしている民間航空会社と、自衛隊では比較にならない。緊急時には、高度の国際線の経験を必要とする。二次災害を出してからでは遅い。将来とも、国際線の経験を積む機会の少ない自衛隊には出る幕はない。海外邦人としても、命が惜しいのなら、あわてずに、民間パイロットが操縦する赤十字機の救援を待つべきであろう。経験のある登山者は、暴風雨中に動いたりはしない。
(しだ・まさみち 元日本航空機長、自衛隊出身操縦士会元副会長=投稿)

自衛隊の海外派遣をめぐる国会の議論のなかで、この信太さんの問題提起は核心をついていた。信太さんのキリャアと体験がその発言に重みを与えていた。その後、外国のメディアが信太さんに取材するようになり、海外での講演の機会も増えていく。冒頭の写真は、2002年1月のオランダにおける講演会のポスターである。

体験的平和学[PDF]

私も、法学部の専門科目「法政策論」の招聘講師として、1998年12月1日に信太さんをお招きした。現在は400人以上の受講者がいるこの授業も、当時は80名ほどだった。信太さんには中教室で1時間お話いただいた(1998年のお知らせ欄参照)。その鮮烈な体験に基づく話に、公務員上級職志望者から大いに感動したという感想が寄せられた。この「直言」でも、「元自衛官の体験的平和論」として16年前に紹介している。二度目は、2003年6月26日、全学のオープン教育科目「テーマカレッジ演習・平和学」の招聘講師としておよびした。この写真は、そのときのチラシである。

公演する信太さん

信太さんは反戦ではなく、「厭戦」といっていた。「国民の2割が面従腹背の厭戦主義なら戦争屋は戦争ができません」と信太さんはいい、「厭戦庶民の会」代表として、より庶民の感覚から平和を訴えておられた。しかし、その主張はいつも鋭かった。小泉首相の靖国参拝問題では、強い調子でこれを批判する投書や原稿を発表されていた。安倍首相に対してもこれを批判した。朝日新聞紙上で信太さんの「絶筆」となる投書を下記に掲載する(『朝日新聞』2014年1月23日 朝刊オピニオン面)。

(声)「英霊」は本当に喜んでるか   無職 信太正道(神奈川県 87)
 積極的平和主義を提唱する安倍晋三首相が靖国参拝を強行し、外交に大きな影響を与えてしまった。米国も「失望」を表明している。靖国に合祀された「英霊」たちは、それを本当に喜んでいるのだろうか。
 戦争が描かれるとき突撃する直前に兵士たちが「靖国で会おう」と誓う場面があるが、海軍兵学校を卒業し最後の特攻隊員の1人だった私は、そのような言葉を聞いた覚えがない。
 私は1945年7月25日、少尉に任官した直後、神風特別攻撃隊古鷹隊に任命された。偶然にも翌日に北海道・千歳の航空隊を訪れた両親に面会できた。
 「俺、特攻隊に選ばれてしまった」という私に、県の役人だった父は「そうか」とだけ答えた。職業軍人ならば誰しも選ばれる。父にはそれは当然に聞こえたのかもしれない。
 しかし、特攻隊について詳しく話すと顔色が変わった。母は「断ることはできないの?」と泣き崩れた。いたたまれなかった。別れ際、父はつぶやいた。「このいくさは負けだな」
 私は生き残ったが、もし戦死して靖国神社に祀られていたとしたら、両親はどのように考えただろうか。

2013年1月のアルジェリアでの日本人人質事件の際に書いた「直言」でも、私は信太さんのことを紹介し、「現場を知り抜いているからこそ、政治家が安易に力の政策に向かうことを厳しく批判できるのである」と書いている。また安倍内閣が「7.1閣議決定」に基づき国会に提出した安全保障関連法案の国会審議に合わせて出版された、拙著『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』(岩波書店)の3限目「Ⅰ 邦人輸送中の米輸送艦の防護」においても、「元特攻隊員・信太正道氏の平和論」(113-115頁)として次のように紹介した。

 現場を知り抜いているからこそ、政治家が安易に力の政策に向かうことを厳しく批判できるのです。この信太氏の主張は、国際法の観点からも裏付けることができます。前述の米海軍・海兵隊・沿岸警備隊「THE COMMANDER’S HANDBOOK ON THE LAW OF NAVAL OPERATIONS EDITION JULY 2007」を再掲します。
 「航行中の民間客船および飛行中の民間定期航空機は拿捕の対象となるが、破壊の対象とはならない。兵站線は一般的に近代戦においては正当な軍事目標であるが、航行中の民間客船および飛行中の民間定期航空機は、遭遇時に敵によって軍事目的(例えば、部隊の輸送または軍用輸送機としての使用)に用いられていないか、インターセプトしている軍艦または軍用機の指示に応答することを拒否しない限り、破壊の対象とはならない」。
 やはり、「死にたくなければ、米艦船や米軍機には乗らない」ことです。

「水島先生、信太でございま~す」という独特のトーンで電話をかけてこられ、けっこう長電話になってしまう。妻に「信太さんからよ」と言われると、ほぼ同じ時期に亡くなられ深瀬忠一北大名誉教授からの電話と同様、ちょっと覚悟がいった。もうこのお二人から電話がかかってこないということもまた、さみしい気持ちになった。ご冥福をお祈りしたい。


この「直言」を始めて今回で999回になる。これまでどれだけの人たちの追悼文を書いてきただろうか。大切な人たちが唐突に存在しなくなってしまう。心のどこかにぽっかり穴があいたような不思議な感覚になる。でも、追悼文を書くことで、その方との関係を整理して、何を学び、何を受け継いでいくべきなのかを確認でき、そこから元気をいただくことができる。今回の信太正道さんについても、改めて著書や手紙などを読み直して、信太さんの「すごさ」を再確認した。なお、この機会に過去の「追悼直言」を挙げておこう。


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