憲法97条は条文整理の対象にならない――「アベコベーション」の日本へ
2016年10月10日

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国して1カ月。授業も始まり日常の生活に戻ったものの、妻も私も日本のテレビが見られなくなった。BBCやZDF、アルジャジーラなどの外国ニュースを見ている。見られなくなった理由は、その騒がしさである。日本のテレビは何でこうも早口で、騒がしいのだろう。ワイドショーやバラエティ番組、トーク番組も、「ひな壇芸人」ばかり。「賑やかし学者」もさかんにしゃべっている。私たちがドイツにいる間に当選した「小池東京都知事」が毎日のニュースで注目されていても、扱いがショーのようで、実感がわかない。日本語が妙に軽く感じられる。

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一番びっくりしたのは国会である。9月26日の衆議院本会議。安倍首相の所信表明演説の(終わりではなく)最中、自民党議員がほぼ総立ちで拍手をしているではないか。「同志〇〇の演説に対して、総立ち、長く続く嵐のような拍手」と、その昔、スターリン以降の各国の共産党指導者の演説の切れ目にはこういう表記が通例だった。最初に拍手をやめた人が姿を消して銃殺されるという噂があるから、誰もやめられないので拍手はずっと続く。指導者がおもむろに手で拍手を制して、演説が再開される。壇上で自ら拍手する際、指導者は手をやや斜めに傾け、ゆったりと拍手するのが特徴だ。この日の国会の光景は、こうした現在および過去の独裁国家と見紛うばかりの異様さだった。それを9月30日の衆院予算委員会で民進党(私がドイツにいる間に党名が変わったので、日本で書く「直言」で初めてこの党名を使う)の議員から、「この国の国会ではないんじゃないかという錯覚すら覚えた」と追及されると、安倍首相は、「あまりに侮辱ではないか。…私が許せないのは、どこかの国と同じだと。どの国なんですか?」と声を荒らげた。何とも子どもっぽい切り返しである。

10月5日の衆院予算委員会では、幼稚性が進化(深化)していた。「「(憲法改正草案を)谷垣さんの時に決めたから僕ちゃん知らない」なんて、私が一言でも言いましたか。全く言っていないことを言ったかのごとく言うのはデマゴーグの典型例だ」と色をなして反論していたが、「僕ちゃん知らない」とは言わなかったと、あえてここまで切り返すのは、自己投影のなせるわざだろう。安倍首相の場合、KY(空気が読めない)のではなく、KM(空気が見えない)のである。先月、スーパーマリオに扮してリオ五輪の閉会式に登場した安倍首相を、私が確認した限り、ドイツの主要メディアは完全に無視した。それを伝えること自体が「恥ずかしい」という感覚ではないか。この日の国会の風景も、近年の「国会、その存在の耐えがたい軽さ」を示してあまりある。わずか半年で、この国はすっかり「安倍色(カラー)」に染まってしまったのか。

「デマゴーグだ」「誹謗中傷だ」…。安倍首相の国会での答弁には、最初から議論を拒否する姿勢が一貫している。批判に対する耐性がない。自身に対する批判に対して「誹謗中傷」という言葉でヒステリックに切り返す。まともな議論にならない。野党がどんなにえげつない質問をしたとしても、これをいなして、必要に応じて切り返すという余裕がほしい。内閣総理大臣たるもの、さまざまなことを総合的に判断することが求められる(だから「総理」! )。慰安婦問題への「謝罪の手紙」について質問された時、「それはむずかしい」「現段階では困難である」と言えばいいところを、「毛頭考えていない」と断言してしまった。「毛頭」と言ったことについて、河野洋平元衆院議長は、「他に言い方があるだろう。人間性の問題だ」と語ったという(10月4日BSフジ)。

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極端な発言で世論をゆさぶり、挑発し、最終的に強権的な支配を強化して立憲主義や法の支配を危うくする政治家とその候補が世界中に増殖している。米国大統領候補(11月まで)やフィリピン大統領など、「人間性」がかなり怪しい人物も少なくない。冒頭の写真、『南ドイツ新聞』8月6/7日付一面トップの絵は、これらの専制的政治家(Autokrat)である。「クーデター未遂事件」を「奇貨」として、軍・警察・大学・メディアなどを完全支配下に置いたエルドアン大統領(トルコ)、憲法裁判所の権限を縮小するなど、立憲主義・「法の支配」を危機に陥らせている政権党「法と正義」(PiS)党首のカチンスキー元首相(ポーランド)、4年間に18回の憲法改正を繰り返し、新憲法(基本法)まで制定して「非リベラル国家の建設」に邁進する、ハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相(最新の情報として、佐藤史人「憲法改正権力の活躍する「立憲主義」−ハンガリー基本法の世界」『世界』2016年11月号参照)、メディアを支配しながらポピュリズム政治の先駆けとなり、失脚を繰り返しつつも再帰を狙うベルルスコーニ元首相(イタリア)、そして、ご存じロシアのプーチン大統領である。あちこちで専制的政治家たちが舞い戻ってきている。実は、ここに挙げられている政治家たちと安倍首相は親密な関係にある。エルドアン大統領とは「8カ月に3回」も会談するほどの仲良しだし、プーチン大統領とは12月15日に下関での会談を仕掛けている。

半年間、ドイツから安倍政治の手法を観察してきて言えることは、安倍首相はAutokrat の仲間入りの資格十分だということである。安倍首相の特徴は「見え透いた嘘」に自ら酔っているところにある(所信表明演説では、「未来」という言葉を18回、「世界一」を8回も使った! 〔『毎日新聞』9月27日付〕)。そもそも「アベノミクス」がそうである。少しでも羞恥心というものを持ち合わせていたら、自分の名前を冠した経済・財政政策をあそこまで高く持ち上げることはできないからである(「新3本の矢」の「希望出生率1.8の実現」を想起せよ)。神経の図太い人や、恐れを知らず平然としている人のことを「強心臓」というが、神経が細くデリケートな人が、いつの間にか自分には力があり、強いのだと勘違いして全能感にひたっている状態を「アベ心臓」という。そのような心臓をもつ人物によって推進されている「アベノミクス」こそ、この国を支配する「SF政治」(催眠政治)そのものにほかならない(直言「SF政治(催眠政治)にご用心―「アベノミクス」とTPP」)。すでに書いたが、伊勢・志摩サミット(G7)の際、消費増税先送りの口実のために「リーマンショック」を持ち出した姑息さは各国首脳、特にドイツのメルケル首相にしっかり見抜かれていた。ドイツの新聞は、「G7がかくも国内政治的に濫用されたのは稀である」と書いた(直言「政治家の資質」を問う」)。

この首相の政治が始まった時、私は「アベコベーション」の日本―とりあえず憲法96条?」を出して、「憲法96条先行改正論」を批判した。安倍首相が当時やる気十分で取り組んだのは、立憲主義からすれば「あべこべ」の禁じ手、つまり憲法改正発議の要件を「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」から「過半数の賛成」に引き下げて、憲法改正をやりやすくするという、権力者としてあまり強引で、かつ稚拙な手法だった。さすがに、改憲に親和的な人々からも反発を招いてこれは頓挫した。そもそも「あべこべ」とは、事柄の順序や方向などが通常の状態とは反対であること、またそのさまをいう。私は、安倍首相が押し進める、この真っ逆さまの手法を「アベコベーション」と呼んできた。

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憲法改正についての「アベコベーション」は、例えば、今年2月3日の衆院予算委員会において、稲田朋美自民党政調会長(当時)との質疑に端的にあらわれている。稲田氏が、「憲法9条第2項の文言について、憲法学者のおよそ7割が自衛隊はこの条項に違反ないし違反する可能性があると解釈している。このままにしておくことこそが立憲主義を空洞化させるものだ」と質問すると、安倍首相は、「7割の憲法学者が、自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況をなくすべきではないかという考え方もある」と答弁した。憲法がまずあって、その条文に反する状態がその後に生じているわけで、憲法研究者の多数は学問的にそう解釈しているにすぎない。違憲の現実を合憲にするために憲法規範を改正するというのは、まさに「アベコベーション」そのものである。なお、各省庁の幹部人事を官邸が一気に握って統制する内閣人事局をつくった時の所管大臣は稲田氏であり、合同庁舎8号館5階にあるその看板は彼女の「揮毫」による。その「人」という字もまた、「アベコベーション」のあらわれではないだろうか。

自民党改憲草案は基本的人権の保障を定める憲法97条の削除を求めている。この点、9月30日の衆院予算委員会で質された安倍首相は、削除の理由を「条文の整理にすぎない」と答弁した(『東京新聞』10月1日付)。この「整理」という言葉は恐ろしい。「粛清」(Liquidation) や「浄化」(Versäuberung)、そして「最終解決」(Endlösung)にもそれぞれ特別の意味がある。「無駄」な条文を整理してすっきりさせるという思いなのだろうが、憲法97条は無駄でも蛇足でもない。それは「整理」の対象にはなり得ない。この点はすでに拙著『はじめての憲法教室―立憲主義の基本から考える』(集英社新書、2013年)で論じているし、拙著『18歳からはじめる憲法〔第2版〕』(法律文化社、2016年)第10章でも付け加えたように、97条は削除できない「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」という史実を含む。以下、確認のため、直言「年のはじめに「憲法97条のはなし」」から、関連する部分を引用しよう。

…(自民党改憲草案の)Q&Aでは「内容的に重複」というのが削除理由だが、そもそも11条と97条とでは置かれている位置関係がまったく違う。11条は第3章の人権条項の冒頭にあって、人権の歴史性と普遍性を条文として宣言し、具体的な人権条項への総論的役割を果たしている。他方、97条は第10章「最高法規」の冒頭の条文であって、最高規範性の宣明(98条)と、権力を担う主体に対する憲法尊重擁護の義務づけ(99条)の目的を示すものである。つまり、統治のあり方も憲法の存在理由もまさに人権の保障にあるということである。それだけ97条は憲法の最高規範性を確保するために不可欠な条文といえるだろう。それを「内容上重複」というだけの理由で削除するのは、憲法条文上の設計思想を理解しない、不遜な態度というべきである。…

基本的人権は、不可侵かつ永久の権利であり、かつ、いま生きている「現在の国民」だけに保障されるものではない。11条と97条はともに、まだ生まれていない「将来の国民」への眼差しも忘れていない。憲法における「時間軸」の問題である。97条は、基本的人権が、人類の自由獲得の努力の産物であるという歴史性にも言及している。ここでは「スパルタクスの反乱」など、奴隷制時代の闘争にまで遡及するわけでなく、近代、特に18世紀市民革命期の自由と民主主義を求める努力が想定されている(宮澤俊義=芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』日本評論社)。「過去幾多の試練に堪へ」とは、各種の全体主義による自由と民主主義に対する攻撃や圧迫に対する抵抗と、それを守り続けてきた努力の総体を指す。そのような歴史への眼差しは、97条の特徴である。11条が、人権の総則としての位置づけをもつのに対して、97条ではさらに、基本的人権の「過去」と「現在及び未来」との関係やパースペクティヴを明確にしつつ、最高法規の章に置くことで、基本的人権を憲法のレゾン・デートル(存在理由)にまで高めたものといってよいだろう。…

憲法の「最高法規」の章にある条文を削除することによって、この〔自民党改憲〕草案が目指すものが、基本的人権を軸とした憲法ではないことを正直に語ってしまった。…

と、ここまで書いてきて、『毎日新聞』10月8日付が、自民党内に、2012年の改憲草案を一部棚上げして保守色を弱め、改憲論議を推進させようという動きが生まれていることを伝えている(2005年の自民党「新憲法草案」もベースに)。安倍首相は野党に対して、「批判だけに明け暮れ、対案を出さないのは無責任だ」という。民進党の蓮舫執行部は「批判から提案へ」という方針を前面に掲げているが、こと憲法改正の問題については安易に対案を出すべきではない。誤解を恐れずあえて言えば、対案を掲げて論議すべきではない。この点を『信濃毎日新聞』10月1日付社説はこう書いている。

「…対案について、野党はどう考えるべきなのか。5月の党首討論での岡田克也民進党代表(当時)による反論が参考になる。「私は、今は9条を変える必要はないと思っている。だから案もないんです。今の憲法でいい、9条でいいということですから」。改憲の必要はないので対案は出さない―。これはこれで首尾一貫した姿勢と言える。今の憲法は変える必要はないと私たちも考えている。対案の誘いに、野党は慎重に構えるべきだ」と。

その通りである。憲法の場合、これを変える側に高い説明責任が課せられている。変える側が、「なぜ変えるのか」の説明に失敗すれば、憲法はそのまま残る。憲法に違反した法律を制定した政権が、違憲の主張を排除するため、その法律に合わせて憲法の方を変えようとしたらどうだろうか。憲法改正の論議に対案は不要である。そもそも憲法に違反する「7.1閣議決定」を行った安倍首相に、憲法改正を語る資格はない。腰を据えた本質的な批判こそ、最大の「対案」である。

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