東京青梅市から府中市に延びる立川断層。私の自宅もその上にあるが、これが震度7の首都圏直下型地震を引き起こすという報道に、何とも複雑な気持ちでいた。それが、3月28日の新聞各紙夕刊を読んで驚いた。立川断層だとして一般公開した地層のずれは、実は過去に建物工事の際に埋められたコンクリートが風化したものだった。当初、活断層と発表した東大地震研究所の教授が記者会見し、謝罪した。びっくりしたのは、東大教授が、「断層があると考えていた場所から物が出てきた。ある種の催眠術にかかってしまった。大変申し訳ない」(『毎日新聞』3月28日付夕刊)、「見たいものを見てしまった。催眠術にかかったようだった」(『朝日新聞』3月29日付)と語ったことである。「催眠術」という言葉を地震学の専門家が使ったことに、私は猛烈な違和感を覚えた。
催眠術と言えば、SF商法(催眠商法)というものがある。1965年、「新製品普及協会」(略してSF)が主婦や高齢者を一カ所に集め、冷静な判断を失わせて高額商品を売りつける商法が問題となった。「今買うとお得です。今を逃すとこんなに安くは買えませんよ。今回だけは30万円に大まけしておきます。いつ買うか?今でしょ!」。サクラらしき人物がわざとらしく「エーッ、安~い」と合いの手を入れる。これで、高額の羽毛布団などを買わされてしまう。その後も、品を変え、所を変え、衣を変えて、さまざまなSF商法が生まれた。もちろん、特定商取引法に基づいてクーリングオフをすることが可能になったのだが、それでも被害はあとを絶たない。
催眠術の手法は政治の世界にも浸透している。「SF政治」(催眠政治)である。時には甘言を弄し、時には脅迫的言辞を伴い、表に裏に、陰に日向に、人々に特定の政策を刷り込んでいく。なぜ、人々の生活にとって有益なのか。それが問題解決にとって有効なのかといった検討は脇に追いやられる。とりわけ「バスに乗り遅れるな」は、「SF政治」(催眠政治)の常套句である。それを無批判に垂れ流すメディアの責任は重い。
例えば、3月16日付の各紙社説。期せずして全国紙すべてがTPP推進の論調だった。『朝日新聞』もTPP推進と規制改革連動の論調。「自由化の先導役を担え」と題する『毎日新聞』社説も、TPP積極推進の『読売新聞』や『日本経済新聞』との距離はすこぶる近かった。
これに対して、地方紙は冷静だった。例えば、『琉球新報』同日付社説は「TPP 参加表明 あまりに拙速、無謀だ」と書く。秘密主義を批判し、情報の公開を求めるのは『高知新聞』社説。「一国の農業の前途をなげうって臨むにしては、得られるものが小さすぎる」は『河北新報』社説である。地方からの視線はTPPに厳しい。
『新潟日報』社説は、「そのバスは乗ってみないと行き先がわからない。座席に腰掛けたら、望まないところに連れていかれそうだと分かっていても途中下車は難しい。さて乗るかどうか。…ハンドルを握る米国が日本の『乗車』を許せば出発だ。…損得に気を取られて命の糧を失うわけにはいくまい」と書いた。
「バスに乗り遅れるな」という表現は、私も2年前の「直言」で行っている。「食の安全保障」の観点からもTPP の罪深さを論じた。農水省の試算では、農産物の生産減少額は4兆1000億円。食料自給率は40%から14%に低下する。農業の多面的機能の喪失額は3 兆7000億円にのぼる。GDPの減少額は7兆9000億という数字だった。
メディアの報道の仕方に、「メリットとデメリット」という言い方がある。物事は、そう簡単にメリットはこれ、デメリットはこれだとうまく切りわけられるものではない。ある「メリット」とされたことが、実は長期的に見れば大変な損害を与える場合もあり得る。『産経新聞』5月17日付「TPP」特集は、「メリット=関税撤廃で輸出・海外投資は拡大」「デメリット=農林水産打撃、『食の安全』影響も」という見出しで、TPP効果をフラットに比較している。「政府統一試算」によれば、関税撤廃の経済効果は、輸出が2兆6000億円増えるから、国内総生産(GDP) を約3兆2000億円押し上げる反面、コメに778%、牛肉に38.5%、小麦に252%などの高関税がなくなれば、輸入品に押されて農林水産業の生産額は3兆円減るという。『産経』はこのメリット・デメリットの比較から、「メリットの多いTPPに乗って、しっかり交渉しましょう」という方向に誘導していく。
そもそも「デメリット」という表現を使うから、「メリット」との比較になってしまう。農林水産業に壊滅的打撃を与えるような政策を選択の対象にすること自体に問題はないのか、という視点を国民から奪っていくのが「メリット・デメリット思考」である。「損得に気を取られて命の糧を失うわけにはいくまい」という『新潟日報』社説の指摘が重く響く。政府が、一国の農林水産業を壊す犯罪的政策を進めているのに、それを正面から批判できないメディア(正確に言えば、全国紙東京本社とキー局の中枢部分)は、「SF政治」(催眠政治)の推進者になっている。
神経の図太い人や、恐れを知らず平然としている人のことを「強心臓」というが、安倍首相の場合は違う。もともと神経が細くてデリケートな人が、いつの間にか自分には力があり、強いのだと勘違いしている。そういう心のありようを、これからは「アベ心臓」と呼ぼう。そういう特殊な心臓をもった首相の暴走による「アベコベーション」は、さらなる段階に駆け登ろうとしている。「アベノミクス」こそ、日本を短期間覆った露骨な「SF政治」(催眠政治)として、後世の政治史家が描くことになろう。
先週金曜日、5月17日、安倍首相は「3 本の矢」の「成長戦略」の第2弾を発表した。「世界で勝って、家計が潤う。アベノミクスも、いよいよ本丸です」。SF商法の宣伝マンのように、安倍首相は上ずった声で叫ぶ。「世界で勝つ」。意味不明の言葉が新聞の見出しに踊った。その重点は、今後3年間を「集中投資促進期間」と位置づけ、設備投資年70兆円を目標とするという。注目されるのは、TPP交渉を前にして、「農業・農村の所得倍増」を目標に掲げたことである。「お祖父ちゃん」のあとに政権についた池田勇人首相の「所得倍増計画」にあやかったのかは分からないが、これが日本の農業のあり方を根本から覆す政策になることは間違いない。『読売新聞』5月18日付は「アベノミクス『本丸』」と手放しで持ち上げる。
「第2弾」で度肝を抜いたのは「大学改革」である。8つの国立大学の1500人教員を外国人教員に入れ換える方針という。非常勤や特任の教員ではなく、常勤ポストで1500人というのは、各大学の人事計画に介入し、かき回すとんでもない計画である。外国人教員が増えれば学生が留学し、国際化が進むという催眠術である。
新聞やテレビには「アベノミクス効果」なる言葉が飛び交い、デパートの高級品売り場を走りながら、上擦った声で女性レポーターが報告する。「アベノミクス効果で、高級時計がよく売れているようです~」。株価上昇に浮かれて景気が回復したかのような幻想に陥らせ、1100兆円もの長期債務残高、若者の4割が失業状態か非正規雇用にある深刻な雇用状況等々、何も解決しないまま先送りする。株価上昇による資産所得は基本的に泡銭である。技術開発や製品開発による汗水たらした労働の成果で得たものではない。こんな不自然な状態が長く続くと考える方がどうかしている。それでも「アベノミクス」を持ち上げるメディアは、7月の参院選挙までの世論誘導に協力しているのか。
思い出してほしい。2007年7月12日の参議院選公示日に、秋葉原駅頭で第一声を行った安倍首相は、背広を脱ぎ、ワイシャツ姿で、「社会保険庁をぶっ壊す」と絶叫した。そして、「最後のお一人にいたるまで、責任をもって年金をお支払いすることをお約束します」と語った。そのジャスト2 カ月後に政権を投げ出した人物が、再び「私のことを信用してほしい」と言っている。「アベ心臓」で盲進している「悪質リフォーム業者」の言説を冷静に観察して、「SF政治」(催眠政治)にからめ捕られないように注意する必要があろう。
そのために最も有効なことがある。それは一度立ちどまって考えることである。SF商法でも、契約を結ぶ前に誰かに相談する。一日待ってもらう。とにかく頭を冷やして、じっくり考えてから答えを出す。「今でしょ!」って言われたら、「なぜ、今なの?」って聞く。「だから、今でしょ!」って強く言われたら、「だから、なぜ、今なの?」って聞く。「今しかないんだよ!」って言われたら、「じゃ、考えさせてもらいます」って答える。これが最も効果あるSF商法の撃退法であり、「SF政治」(催眠政治)からの覚醒法である。「まず96条から」という妙にせわしい主張についても、ここは立ち止まって考えることが大切なのである。
冒頭、立川断層の件で「催眠術にかかったようだった」と語った東大地震研教授は、「人工物を見た経験が少なかった」と反省しているそうだ(『朝日』3月29日付)。現実を知らない学者、自分の思い込みで驀進する政治家、現場で何が起きているかを取材して書かないで、権力者のいったことをそのまま垂れ流すメディアに共通の病理がそこにある。 「アベノミクス」やTPPの催眠術がとけたとき、人々はそこに何を見るのだろうか。
《付記》ドイツのオークションで入手したヴァイマール共和制時代の国債証券。天文学的なインフレのなかで、国債1枚(10万ライヒマルク)は紙屑になった。