「無知の無知」の突破力――安倍流ダブルスピーク
2017年1月30日

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J. M. フラッグの「アンクル サム(Uncle Sam)」に模されるドナルド・トランプが1月20日、米合衆国第45代大統領に就任した。同じ日、日本の第193国会の施政方針演説が行われた。研究室で資料整理をしながら、久しぶりにラジオの国会生中継で安倍晋三首相の演説を最後まで聞いた。テレビと違って、耳からの情報だけなので、単語の選択や言い回し、抑揚や滑舌の良し悪しに敏感になる(動画リンク)。この人の場合、5分も聞いていると、さすがに体がムズムズする感覚を禁じ得なかった。

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「全国津々浦々で、確実に「経済の好循環」が生まれています」「アベノミクスによって、有効求人倍率は、現在、25年ぶりの高い水準。この3年間ずっと1倍を上回っています」などと、相変わらず、経済と雇用の現実と遊離した自画自賛(「自我自讃」!)の言説がちりばめられている。これほどまでに自分のやったことを力強く、おおらかに、思いっきり誇大に褒める首相はかつていなかったのではないか。「500回以上の首脳会談の積み重ねの上に、地球儀を大きく俯瞰しながら・・・世界の真ん中でその責任を果たしてまいります」と胸を張るが、一国の首相にしてはあまりに尻軽外交であることはすでに批判した(欧州「首脳外食」で批判)。

演説の随所に、自分に都合のよいディテール(南スーダンのサッカー試合、リカレント教育を受けて再就職を果たした女性の話など)を執拗に組み込み、自らの結論の正当化に使う。そして、「地方創生」「国土の強靱化」「働き方改革」「女性の活躍」「教育再生」など、この内閣のキャッチフレーズを総花的に並べて、「見事な成功例」「改革を一気に加速します」「3本目の矢を、次々に打ち続けます〔矢は「射る」もの、「放つ」もの!〕」と悦に入る。それぞれの項目の末尾で、拍手を求めるように声を張り上げる。「共に、切り拓いていこうではありませんか」「新しい国創りを進めていこうではありませんか」などと、懲りずに9回(!)もやった。官邸の振付師は、エモーショナルな演説原稿のなかに、そこで声を張り上げ、力強く! とモルト クレッシェンドの指示記号でも書き込んでいるのだろうか。だが、ラジオから聞こえてくる与党席の拍手は小さく、「〔南スーダンの自衛隊の活動を〕世界が称賛し、感謝し、頼りにしています。・・・積極的平和主義の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄のため、皆さん、能う限りの貢献をしていこうではありませんか」と自己満足的に叫んでも、拍手は控え目だった(昨年9月26日のようなスタンディングオベーション(総立ち拍手)はなし)。

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一方で、演説なかに民主党政権時代の政策や発言への非難を忍ばせ、ことさらに敵意をあおる。その一例。「かつて、「最低でも」と言ったことすら実現せず、失望だけが残りました。・・・威勢のよい言葉だけを並べても、現実は1ミリも変わりません。必要なことは実行です。結果を出すことであります」。鳩山由紀夫首相(当時)が言った(普天間飛行場の)「最低でも県外」という発言をあてこすったものだが、拉致問題でも北方領土交渉でも読み違い、判断ミスにより「結果を出すこと」ができていないのは安倍首相も同じではないか。また、「ただ批判に明け暮れたり、言論の府である国会の中でプラカードを掲げても、何も生まれません」と言って野党を挑発してみせたが、実はこれは自民党も野党時代にやっていたこと(2010年5月の衆院総務委)。いわゆる「ブーメラン効果」となって首相に返っていった。24日の代表質問の際、「訂正云々(でんでん)というご指摘はまったくあたりません」と答弁したが、これは「未曾有」(みぞうゆう)の出来事である。私がホームページで「直言」を出すようになってから20年になるが、その間に11人の首相の施政方針演説(通常国会)を聞いてきた。安倍首相のそれは、品格、風格、格調の高さという点で落第点である。

思えば、2012年12月に政権を奪還した安倍氏は、「アベノミクス」などという、自分の名前を冠した経済政策を押し出した。経済学をまともに勉強していれば、顔に恥じらいが出るものだが、この人の場合は本気である。大学時代の教授はいう。「安倍君は保守主義を主張している。それはそれでいい。ただ、思想史でも勉強してから言うならまだいいが、大学時代、そんな勉強はしていなかった。ましてや経済、財政、金融などは最初から受け付けなかった」(野上忠興『安倍晋三 沈黙の仮面』(小学館、2015年)60頁)。

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「アベすぎる」という言葉がネットで広まったことがある。「他人の話が聞けない、聞かれたことに答えない、ごまかす」という性格の人のことをいうそうだ。このうち、「他人の話が聞けない」というのは特に安倍氏の本質的属性(本性)と言っていいのでないか。私のいう「4つの「無知」」のうち、安倍氏の場合は、「無知の無知」と「厚顔無知」が際立っている。言わずと知れたソクラテスの「無知の知」。それをもじった「無知の無知」とは、おのれの無知に気づかないという悲しくも情けない状態をいう。無知であることを知った瞬間、知への発展が始まるが、「無知の無知」の状態が続く限り、知的退歩につながる。他方、「厚顔無知」は、「厚顔無恥」からくる造語で、「そんなことやって、何の役にたつのか」という物言いがその一例である。「政治は結果がすべてだ。結果を出さなければ意味がない」という形で物事を単純化し、政治を知ることに対する積極的拒否の姿勢と言ってもいい。自分と違う意見の人間の話を聞こうとせず、批判されるとムキになって反論する。いや、「論」になっていないので、「反論」ではなく「言い返す」である。

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実は、この日就任したトランプ新大統領には、安倍首相とのある共通点がある。昨年11月のトランプタワー58階での「駆け込み会談」でお互い何か引き合うものがあるとすれば、まさにその点だろう。つまり強力な「無知の無知」と強烈な「友・敵思考」である。すなわち、「トランプは学生時代から本はほとんど読んだことがない。授業に出たり出なかったり、親しいクラスメートは1人もいなかった。・・・自分を好いてくれる人たちへは、笑顔を振りまくが、敵対者に対しては「歯をむき出しにした憤り」をぶつけた。・・・トランプには友か敵かしかいなかった。」(「トランプ大統領:本を読まず箔つけに通った名門校」JBPress参照)。「友・敵思考」で突き進む日米の首脳によって、日米関係は新たな「敵」(これから創られる敵)に対する「攻守同盟」へと変貌していくだろう。

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トランプの国連軽視、唯我独尊的な対外政策との「一体化」はきわめて危険であるにもかかわらず、安倍首相にはその自覚がない。1月20日の施政方針演説では、日米安保条約体制を「日米同盟」とまで持ち上げてしまった。安保条約10条は、この条約が、国連の措置が実効性をもつまでの暫定的なものであり、日米のいずれか一方からの通告によって1年後にこの条約が終了すると規定されている。国連の集団安全保障が実効化すれば、この条約は終了するという歴史的制約性を帯びたものであって、安全保障の普遍的な形でもなければ、不変のものでもない。国連軽視のトランプが安保条約の本格的な双務化(集団的自衛権の行使)と、単独かつ一方的な軍事介入(これは中南米、中東、アジアの3方面において大いにありうる)への積極的協力を求めてきた場合、「米国第一主義」との過度の一体化はきわめて危うい。そのくらいの現実認識なしに、「世界の真ん中で輝く」などとはしゃぐ安倍首相は、トランプにとっては、自らの掌(てのひら)で踊るピエロのような存在ではないか。

ところで、「積極的平和主義」という言葉を安倍首相が使うようになったのは、2013年9月12日の「安全保障と防衛力に関する懇談会」が最初であり、9月26日の国連総会一般討論演説で使ったのが公の場での最初だった。首相の「積極的平和主義」とは、「国際協調主義(憲法98条)を悪用して、日本の対外的な軍事機能を一気に拡大することを憲法の平和主義の名のもとに正当化しようとするものであり、平和主義の政治主義的利用である(直言「地球儀を弄ぶ外交――安倍流「積極的平和主義」の破綻」)。

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「戦争は平和である」(WAR IS PEACE)。ジョージ・オーウェルの名著『1984年』(新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫)――先週、米国で売り上げが急増したという――の「ニュースピーク」、すなわち「二重語法」(ダブルスピーク)である。他に、「自由は屈従である」(FREEDOM IS SLAVERY)、「無知は力である」(IGNORANCE IS STRENGTH)がある。二重語法の場合、人の印象を変えるために、相互に矛盾する意味をあわせ持つ言葉を堂々と用いてイメージ操作を行う。例えば、「平和省」という役所は戦争をすることが仕事である。隠したい本心や事実に気づかれぬよう、できるだけ美しい言葉にかえるなど、婉曲した表現を用いることなども含まれる。

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安倍首相の「ダブルスピーク」は「積極的平和主義」のほかにも枚挙に暇(いとま)はなく、最近では、首相は「テロ等準備罪の成立なくしてオリンピックの開催なし」ということを言い始めた(1月23日代表質問への答弁)。「テロ等準備罪」の本体は「共謀罪」である。刑法総論にもかかわる重大な問題であり、突然、これが前面に出てくるというのはいかにも不自然である。2013年9月のIOC総会で、オリンピック開催について演説した際、フクシマの「アンダー・コントロール」のほかに、「東京の安全と治安のよさ」を強調していた。これが五輪東京開催の決め手となったことからすれば、テロ対策のための新たな法的手当てがなければ五輪開催ができないという安倍首相の物言いには、IOC関係者からは「話が違う」と言われるだろう。ちなみに、11年前の「直言」では、共謀罪が廃案になる時の国会について書いていた(直言「共謀罪審議にみる国会の末期」参照)。

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しかし、何よりも安倍流改憲論こそ、まさに「無知の無知」の突破力、ダブルスピークの真骨頂だろう。憲法96条先行改正など、安倍以前の自民党総裁・首相たちは言い出せなかった。法制局が違憲としてきた「集団的自衛権の行使」を合憲とする「7.1閣議決定」もまた、ダブルスピークの典型だろう。だが、今回の施政方針演説には、実は改憲の具体化への隠されたメッセージがあった。そのキーワードは「教育の無償化」である。

演説の後半で、安倍首相は、「明治日本が、学制を定め、国民教育の理想を掲げたのは、今から140年余り前のことでした。それから70年余り。日本国憲法が普通教育の無償化を定め、小・中学校9年間の義務教育制度がスタートしました。本年は、その憲法施行から70年の節目であります」と述べた。これは来年の「明治150年」と「憲法施行70年」をリンクさせて、憲法26条2項の普通教育の無償化を、さらに高等教育まで広げるための憲法改正という主張の布石であるように思える。この演説で首相は、給付奨学金などの「成果」を得々と語り、直接は改憲の主張はしていない。演説の最後では、「憲法施行70年の節目に当たり、私たちの子や孫、未来を生きる世代のため、次なる70年に向かって、日本をどのような国にしていくのか。その案を国民に提示するため、憲法審査会で具体的な議論を深めようではありませんか。」と煽っているが、まだ一般的である。

ところが、『毎日新聞』1月11日付が伝えるように、首相は日本維新の会の憲法改正原案に盛り込まれた「教育無償化」を改憲項目として例示していた。維新の会は改正原案に「幼児期の教育から無償とする」との条文を盛り込んだ。維新の会は義務教育以外の幼稚園や保育所、高校、大学、専門学校などの無償化を想定する。確かに国際人権規約( A規約)13条2項(c)は「高等教育は・・・無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとする」と定めているが、日本政府は留保してきた。民主党政権下の2012年9月11日に留保を撤回したが、実態は変わらない。給付型の奨学金も不十分で、かつ大学関係の予算は削られる一方である。それを大学までの無償化を憲法改正で導入する? 日頃、そのような冷たい対応をとっていた人が手のひらを返すように改憲賛成に向かうのは理解しがたい。「教育無償化は野党や国民の賛同も得やすいとの思惑がある」という意見にのり、首相は改憲項目の絞り込みに使えると判断したようである(教育無償化は憲法ではなく法律の改正で可能な点を含め、拙稿「浮ついた改憲論議ではなく、根本的な議論を」WEBRONZA(朝日新聞社)参照)。何がなんでも憲法改正をやりたいという、ここまできたか、「改憲症候群」である。そもそも教育予算に冷たい政治家が、法律改正で早期に可能にもかかわらず、こう言い出すのだろうか。「高等教育の無償化は憲法改正で」。これこそ究極のダブルスピークだろう。なお、1月27日の衆院予算委員会で、「日本維新の会」の議員が、「今年はに関し、国会の憲法審査会で前に一歩進めていくべきだ」と首相にエールを送っていた(NHKニュース1月27日15時55分)。要注意である。

「最高責任者は私だ」という言葉。これについて、水林章氏は「自分を法(憲法)よりも上位に置く、確信犯的、あるいは無知・無教養のゆえの「反近代性」を暴露している。いずれにせよ、この国は、こういう人物を「政治家」として許容するばかりか、首相にしてしまうほどに近代的成熟を欠いていると言わざるを得ない」という(『思想としての〈共和国〉―日本のデモクラシーのために〔増補新版〕』(みすず書房、2016年)14頁注3)。

安倍政権の暴走を見ていると、「無知の無知」の突破力を思う。その点、フリードリヒ・A・ハイエク『隷従への道』(一谷藤一郎・映理子訳、東京創元社、改版1992年)を想起した。旧ソ連・社会主義批判の視点だが、「安倍一強」の日本は、さまざまな点で社会主義国と似た兆候が見られる。「なぜ最悪なものが最高の地位を占めるか」という第10章の扉には、19世紀の思想家、ジョン・アクトン卿の有名な言葉、「権力は腐敗するものであり、絶対的な権力は 絶対的に腐敗する(Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.)」が掲げてある(176-177頁)。

《付記》
1月28日深夜、安倍首相はトランプ大統領と初の電話会談を行った。「トランプ氏の指導力によって、米国がよりいっそう偉大な国になることを期待しており、信頼できる同盟国として役割を果たしていきたい」と語ったそうである(『朝日新聞』1月29日付)。トランプはウォーター・ボーディング(水責め拷問)を肯定し、国防長官がそれを否定したのでとりあえず尊重するという姿勢である。ウォーター・ボーディングとは、体を拘束したまま増水させ、溺死の恐怖を長時間与えて自白を迫る手法である。痛みというよりは、水死の恐怖をじわじわ味合わせるところに特徴がある。ドイツのメルケル首相はトランプの拷問に対する言動を批判しているが、安倍首相は今回の電話会談でも、トランプを手放しでほめたたえている。日本国憲法36条は拷問を絶対的に禁止しているが、自民党憲法改正草案の36条は「絶対に」を削除している。トランプの拷問肯定の「価値観」を安倍首相も共有しているのだろうか。
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