雑談(49)四つの「無知」  2006年4月10日

週の直言を更新した日に53歳になった。私が生まれた1953年に53歳になった人は、1900年生まれである。あたりまえのことだが、でも、この人は、日露戦争や二度の世界大戦を経験して、47歳で日本国憲法の施行に立ち会っている。1900年からの53年間と、1953年からの53年間とでは、激動の時代を体験するという点で、同じ年齢でもずいぶん違うな、と思った。50歳になったときに、「人間50年」とうたい49歳で死んだ織田信長のことに触れながら、私なりの「決意」を書いたこともある。あれから3年。今年は特に、私よりも一回り上の「団塊の世代」の定年をめぐる話題に事欠かない。いずれこの「直言」で、自らの「還暦」について書くこともあるだろう。「直言」の第1回を書いたのが43歳だったから、まもなく連続更新10年になる。どんなに忙しくても、一回一回の更新を大切にしたいという思いは変わらない。でも、なかなか時間がなくて執筆が停滞する。今回も、こんなに長い前置き(イクスキューズ)をして、ストック原稿の「雑談」をUPする。

  ものを書き、人を教える職業に就いて、発する「言葉」の大切さを思う。少しでも間違った言葉を選択し、発信すれば、あるいは「より打撃的でない他に選びうる言葉」を考慮せずに直接的な言葉を使ったときなど、予想外の反応がくる。私も自戒せねばと思っている。単行本や雑誌、新聞といった活字媒体であれ、授業や講演という音声を通じたものであれ、あるいはラジオの「12分30秒」を通じたものであれ、毎回が「真剣勝負」の世界である。自分の発言には責任を持つ。自らの主張における一貫性、整合性が問われる。くるくると発言を変えるのは論外としても、批判的たらんとして、批判のベクトルを見失い、あるいは体制を正当化するピエロになってしまう例もないではない。やはり問われるのは、「知のモラル」ということだろう。

  最近、樋口陽一『憲法 近代知の復権へ』(東大出版会、2002年)を再読する機会があった。「2002年9月読了」の印があるので、4年ぶりである。特に「知とモラル そして知のモラル――『知』の賢慮に向けて」(初出1996年)は、何度読んでも、いつ読んでも新鮮で、刺激的である。「当りまえのことを誰も言わなくなったときには、その当りまえのことを語りつづけることができるかどうかこそが、知『の』モラルを問う試金石となるでしょう」「わかり切った平凡なことを言うカッコ悪さに耐えるのも、『知』です」(同旨の『法律時報』論文も所収「知」をめぐる「いま」と重ね合わせると、ビンビンと心に響く。樋口氏の論文の詳しい紹介はここではできないが、ぜひ学生・院生は言うまでもなく、憲法や政治、社会の問題に関心のある方々には一読をすすめたい。私の印象を言えば、樋口氏が危惧されてきたことは、私の業界を含めて、「知」に関わる世界に確実に広まりつつあるということである。例えば、タブーを恐れぬ批判的な「知」としてさっそうと登場し、メディア露出度を高めたあげく、「体制」側に利用されていく例を見ることは稀ではなくなった。改憲問題についての言説もまた、「知」の世界に関わる人々に、「知のモラル」を問うているように思う。

  ところで、この「直言」でも折にふれて書いてきたことだが、人が「知」の世界と触れ合おうとするとき、そこには四つの「かたち」があるように思う。
  まず、「無知の知」である。これはあまりにも有名で、私がここで持ち出すまでもなく、知の哲人、ソクラテスのいう「知」に生きる者の心のありようである。「彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていない」(プラトン・久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』岩波書店)。「無知の知」は、自らの無知を知るがゆえに真の智慧への衝動となり、真の智慧へと向かう動力となる。自分がいかに無知であったかを知る。これぞまさに「知の起動ディスク」だろう。
  学問は無限の宇宙のようなものである。すべてを知り尽くしたという「学者」からありがたい「ご高説」をうかがうよりも、高齢になっても悩み続け、日々、自らの知力を「研ぎ」すまし、自らが選んだ対象を「究める」ことにエネルギーを使う「研究者」に、私は魅力を感じる。その意味では、この世にもうおられない先生方を含めて、私が若い頃からお世話になった方たちは、初々しいまでに新鮮な問題意識を持ちつづけた「知のチャレンジャー」たちだった。

  30年も前のこと、いまは亡き大学者といえる先生に、ある質問をしたことがある。教室から出たすぐのところだった。その時、先生がされた一瞬の困惑の表情を私は見逃さなかった。「あれ、先生はこれをご存じなかったのだ」。私は得意気にそのことを先生に向かって語り続けた。黙って聞いておられた先生は、「よし。来週また話そう」と去っていかれた。その翌週、そのテーマについて先生から見解をうかがうことができたかどうかは、昔の話なので記憶が定かではない。いま、教師として同じような場面に遭遇することがある。「よし。〔君の質問で初めてその問題について気づかされた。ありがとう。これから少し調べて、考えでみるので〕来週また話そう」ということになる。私も〔 〕のなかを抜いていることを思えば、あの先生に対して私がいかにずうずうしい態度をとっていたか、いま思い出しても汗が出てくる。

  授業や講演で、学生や一般市民の方々からの鋭い質問が、いかに知的刺激になり、また、新たな説明の仕方を工夫しようという動力になるかはかりしれない。「同じテーマでも、二度と同じ授業はやらない」というポリシーを貫く上でも、学生や聴衆からの質問は大切である。「無知の知」は、人にとって、「知」への永遠の「エネルギー源」と言えよう。

  さて、「知」のありようとしての二つ目は、「無知の無知」である。おのれの無知に気づかないという悲しくも情けない状態をいう。無知であることを知った瞬間、知への発展が始まるが、「無知の無知」の状態が続く限り、知の世界では、それは現状維持か、あるいは知的退歩につながる。「無知の無知」の状態に陥らないよう、これは日々自戒する必要があると考えている。ずっと後に自らの「無知の無知」を知ったときに流す冷や汗、脂汗を減らすためにも、常に心を開き、「知」への謙虚さを失わないことが大切だろう。これは自戒を込めて述べておきたい。

  三つ目は、「傲慢無知」である。例えば、「このテーマは専門外だから」といって「知らない」ことに対して「知の門」を閉ざす姿勢ないし心のありようがある。無知であることは多少自覚はしているものの、無知に対して居直りの気持ちを強く押し出すのが特徴である。とりわけ「専門が違うから」という言葉は困ったものである。「私は理系なので、文系のことはちょっとわからない」という前置きをする人がいる。学会でも、「ドイツのことは専門外なので、お教えいただきたい」なんていうイクスキューズをする人がいる。本人は別の国を「専門」に研究していることは誰もが知っていることを前提に、「ドイツは専門外」というのである。本人は謙遜のつもりなのだが、これを一般市民の前でやりとりしたら、「あれ、憲法をやっているのに、そんなことを知らないの」と不思議がられるだろう。学会や研究会という、同業者だけが集まる限定された空間でのみ使える不思議な物言い、不思議な「謙遜」、それが「専門外なので」という言葉だろう。不必要に使わない方がいい言葉である。

  最後に、「厚顔無知」がある。「厚顔無恥」の変換ミスではない。自覚的な造語である。「そんなことやって、何の役にたつのか」という物言いがその一例である。
  近年、大学は、社会の「ニーズ」にこたえるということで、さまざまな専門的職業に直結する資格を得るための学科や大学院を急増させている。社会体験のある人たちが大学に入ってくるのは、大学を活性化させるという意味ではいいことである。大学が社会に開かれるということは、大学自体にとっても、社会にとってもプラスになる。しかし、「開かれた大学」を超えて、「開きすぎた大学」、さらには「開ききった大学」ということになると、それは大学の存在理由にも関わってくるように思う。民間企業との交流も必要な場面もあるだろうが、大学が企業の一研究部門になってしまってはならない。「団塊の世代」が学生時代は「産学共同」はネガティヴな響きをもっていたが、いまや、研究推進部門に「産学共同推進」なんて部署をつくる大学も生まれている。様変わりである。あるいは、大学教育も様変わりして、「社会のニーズ」に対応すべく、カリキュラム「改革」を毎年のようにやって混乱を重ねている。教師にも学生にも、長期的にみれば社会にとってもプラスにも幸せにもならない「改革」が多すぎるのではないか

  そうしたなか、大学に入ってくる層のなかには、「知」に対する謙虚さを欠くどころか、むしろ、「知」を積極的に限定し、あまつさえ、「知」の雰囲気を損なうタイプの人が増殖しているように思う。たいして勉強もしてもいないのに、わかったふうな顔をして、なまじの「社会体験」をひけらかす人もいる。高偏差値大学を出て、社会に出て働いたというわずかな体験が、実は、学問において最も重要な要素である、純粋で素朴な「驚きと発見」を損なっていると思われるケースもある。この種のタイプは「厚顔無知」といって、一番重症である。「知」の発展契機を自ら閉ざし、逆に居直り(ここまでなら「傲慢無知」ですむのに)、さらにアグレッシィヴに「何の役に立つのか」という決まり文句で迫り、教師や他の受講生の知的好奇心を減殺する役回りをする。「厚顔無知」のタイプが法曹や専門職に就いたら、長期的にみれば、社会にとって相当マイナスになると思うのだが。

  この種の人びとは、教える側の士気を最も削ぐタイプでもある。「こんなことも知らないのか」という知識がないことに驚いても、そこから猛烈に勉強する学生は「無知の知」の典型で、教える側にとってはむしろ好ましい。だが、「そんなことやって何の役にたつのか」「試験に出ないことに時間を使わないでほしい」と公然と言ってのける「厚顔無恥」全開のタイプは、「厚顔無知」の域に達しており、救いようがない。
  世の中には、役には立たないが、ためになることがたくさんある。また、学ぶことに年齢は関係ない。むしろ、社会に出てから学びたくなる人びとが、定年後に、あるいは老成してから大学に入ってくる。すばらしいことである。
  私は、これまで三つの大学に勤めたが、そこで、専門を超えた交流の必要を体感した。かつて、ある大学で、「知」の
理想的なかたちを体験したこともあった学ぶことの楽しさを味わうのに「かたち」はいらない。そこに「知」を求める人間がいればよい。教師と学生の役回りも相対的なもので、あるゼミで、外国で特別の体験をした学生が教師になって授業をやることだってある。「知」の資格や権威は絶対的なものではあり得ない。私は、「知」に対する謙虚さ、学問に対する畏敬の念さえあれば、大学は生き続けられると思う。それが学問や大学に対する愛情にもつながるだろう。

  4月である。今週から学部の授業が始まる。旺盛な好奇心とパワーいっぱいの新入生と出会って、私も元気をもらうことにしよう。

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