安倍首相は「平和を愛する諸国民」がお嫌い――「八方塞がり外交」
2019年1月28日

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「胸襟を開く」 辞書的には「心中を隠すところなく打ち明ける」という意味だが、これをやたらと使うのが安倍晋三である。首相としての国会答弁だけで34回。2013年以降は、もっぱら外国首脳との関係で使っている。ご記憶だろうか。米大統領選挙の結果が確定してまもない2016年11月17日夕方(日本時間18日)、日本からニューヨークのトランプタワー58階に駆け付け、その後の記者会見でこう語った。「じっくり胸襟を開いて率直な話し合いができた。・・・トランプ次期大統領は信頼関係ができると確信した」と。初対面で90分程度話しただけでここまで言ってしまっていいのか。その数日前の参議院「環太平洋パートナーシップ協定等に関する特別委員会」(平成28年11月15日)では、こう答弁していた。「まだトランプ次期大統領は大統領でもございませんから、国同士の首脳会談にはならないわけでございまして、大統領が二人いるという状況にはしてはならないと思っているわけであります。・・・様々な課題、経済や貿易やあるいは安全保障について、そして日米関係、同盟関係について忌憚のない意見交換を、胸襟を開いて行っていくことによって信頼関係を築いていきたいと、このように思います。」 首相も自覚しているように、ワシントンでは現職のオバマ大統領が執務しており、トランプタワーでは「国同士の首脳会談にはならない」。にもかかわらず、トランプ政権の暴走が始まる前に、一国の首相が「胸襟を開いた」わけである。このフライングがその後の日本の不幸の方向と内容を確定したとは言えまいか。

北方領土問題

もう一方の専制政治家たるプーチン・ロシア大統領に対しても、安倍首相は、不用意に、かつ一方的に、「胸襟を開く」。1月22日、首相はプーチンと、25回目(!!)の日ロ首脳会談を行った。前日の記者会見では、「モスクワでは、じっくりと時間を取ってプーチン大統領と胸襟を開いて話し合い、平和条約交渉をできるだけ進展させたい」と語っていた。だが、約45分遅刻してあらわれたプーチンの口は重く、もっぱら出てくるのは経済問題だった。安倍首相は、会談後の共同記者発表で、「平和条約の問題をじっくりと時間をかけて胸襟を開いて話し合った」といった(『朝日新聞』1月24日付)。2月22日は首相在任期間が2616日となって吉田茂と並ぶという記念すべき日。その1カ月前だという密かな高揚感もあったのだろうか、会談前は平和条約交渉と条約の「条文化」までいくと熱く語っていた。だが、3時間の会談後は顔色がさえず、条文化どころか、領土問題に関してまったく進展がないことが明らかとなってしまった。6月の大阪でのG20サミットに合わせた日ロ首脳会談で、領土問題解決に道筋をつけて参院選に臨むという安倍カレンダーが崩れた瞬間だった。

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自分の任期内に北方領土問題の解決を焦る安倍首相。その足元を見透かし、見通したロシア側は、心にくいばかりに領土問題や平和条約をスルーして、経済協力の話題を前面に押し出してきた。安倍首相のこわばった顔と、プーチンの薄ら笑いが印象的な「記者発表」だった。記者の質問を一つも受け付けず、両首脳は会場から去っていった。一人くらい記者が手をあげて質問しようと試みる方が自然なのに、横並びに馴致された随行記者団の醜態である。そもそも「共同記者会見」ではなく、「記者発表」とNHKが繰り返し報じたのも、「記者会見」における質問ゼロの不自然さを希釈するためだろう。

「4島返還」を「国是」のようにして、教科書検定でもそこにこだわってきた政府が、北方領土の全面積の7%にすぎない色丹、歯舞の「2島返還」で決着させようとし、その「2島」さえ怪しい状況にあることが、今回の首脳会談で浮かび上がってしまった。戦後70年以上にわたる主権に関わる問題を、一政治家の功名心に引きずられて、簡単に放棄してしまっていいのか。ラブロフ・ロシア外相は、「北方領土」という言葉を使うことにすら抗議してきた。普通なら、与党や保守層から怒りの声の一つや二つあがっていいものなのに、この静けさは何だろう。おまけに、従来からの共同経済活動だけでなく、日ロの貿易額を今後数年間で1.5倍の300億ドルにすることまでプーチンと合意してしまった。サンフランシスコ講和条約2条C項(千島列島の放棄)と3条(沖縄・小笠原諸島の米暫定支配の容認)をめぐるこの国の主権に関わる重要問題を、この政権は何と軽く扱っていることか。3年前に私はこれを安倍政権の「媚態外交」として批判し、「その壮大なる負債」について指摘したが、下手をすると、「0島マイナスα」にまで落ち込む可能性がある。官邸機関紙『産経新聞』でさえ、1月24日付「主張」で「正攻法で領土返還目指せ」と「苦渋の」安倍政権批判を行っている。

もう「安倍外交」は終わっている、というよりも、最初から「アベノミクス」同様、「外交の安倍」も「地球儀を俯瞰する外交」も虚構だったと考える方が正確だろう。イスラエルの「ダビデの星」の前で演説するというのは、外交センス・ゼロである(直言「地球儀を弄ぶ外交―安倍流「積極的平和主義」の破綻」)。「テロとのたたかい」での日本の立場を圧倒的に悪化させたのは安倍首相の重大な責任である。トランプとの関係でも、米朝首脳会談の流れから完全に外された「安倍外交」の惨めさについては、すでに書いた(直言「「地球儀を俯瞰する外交」の終わり―トランプと「100%一致」の末に」)。それに対するやつあたりが、韓国海軍と海上自衛隊との間に起きた「火器管制レーダー照射問題」や「哨戒機威嚇飛行問題」ではないか。現場におけるトラブルに火をつけて、国民の関心と怒りを外に向けることくらい、この政権は朝飯前である。

7年前、「この国は「全周トラブル状況」にある」として、こう書いた。「ロシアとの北方領土問題、米国との「沖縄基地問題」、韓国との竹島(韓国名「独島」)問題、北朝鮮との拉致問題、中国・台湾との尖閣諸島問題である。さらに、太平洋諸国・地域とは、震災瓦礫や原発放射能漏れによる海洋汚染問題もある。」と。安倍政権はこのすべてを悪化させている。

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安倍首相は憲法改正に熱心であり、勢いあまって不見識な言葉を連発している。首相はとりわけ、憲法前文の「平和を愛する諸国民」がお嫌いである。冒頭の動画をご覧いただきたい。「みっともない憲法」、「いんちきの憲法」、「いじましい憲法」等々、もう言いたい放題である。日本国憲法を毛嫌いし、忌み嫌い、むかつく気持ち、日本国憲法に対する嫌悪と憎悪と極度の不快感は、この首相の場合、表情や口調にも投影して、「口が腐る」という表現が妥当するほどに極端な表現になる。冒頭の動画を見て、これが与党の総裁の言葉なのかと驚くのが普通であろう。政治家の政治家たる所以は、心のなかにどんなに「反憲」の気持ちや本音があっても、それをグッと抑えて、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を果たす姿勢を維持することである。安倍首相はそれができない。それもこれも、「お友だち」しか信用しない、そのメンタリティに起因する。その最たるものが、安倍側近になっている「お友だち」の憲法認識の凄まじさだろう。この動画をご覧いただきたい。国民主権、基本的人権、平和主義、「この三つをなくさないと本当の自主憲法にはならない。」(長勢甚遠元法務大臣)。ここに居並ぶ面々こそ、まさに「憲法なき戦前」を求める人々である。

安倍首相の憲法無理解からくる、壮大なる勘違い。口をきわめて罵る「平和を愛する諸国民」という憲法前文について、憲法学上、どのように考えられているか。以下、解説しておこう。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という前文第2段第1文。ここにいう「決意」については、「他者依存的な、うけ身の平和主義を意味するのではない。」 前文第2段第2文にいう、「国際社会において、名誉ある地位を占め」るための努力、および、第3文の「全世界の国民」の「平和のうちに生存する権利」の確認、さらに、第3段の、「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする」責務の自覚、そして、第4段の、「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という誓約と関連させてとらえるならば、「きわめて積極的な、国際社会へのはたらきかけのなかで追求されるべき平和主義こそが、憲法の掲げるところのものだというべきである。」(樋口陽一「前文」同ほか『注解法律学全集1 憲法I』(青林書院、1994年)35頁)。

国際社会の現実からリアリティを欠くという批判や、独立国である以上、他国民の善意に信頼して自らの安全と生存を保持しようとするのは不当であり無責任であるという議論もあるが、逆に、「他国の善意」は信用できないといった議論を否定的にとらえ、この一文の積極的意義を強調する議論が「有力」として紹介されている(宮澤俊義(芦部信喜補訂)『全訂 日本国憲法』(日本評論社、1978年)39-40頁)。自衛のための戦争・軍備はもちろんのこと、(軍事)同盟関係をも否認する見解もある(佐藤功『ポケット注釈全書・憲法(上) 新版』(有斐閣、1983年)24頁)。

2年ほど前、憲法学に対する誤解、曲解、無理解に基づく難癖を執拗に行っている論者が、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」についてもケチをつけてきた。ここでいう「公正」はjusticeだから「正義」と訳すべきところ、内閣法制局が「公正」と書き換えたと、この論者はいう。そして、この論者は、憲法学者がそれを「中立の立場からの平和外交」を求める規定だなどと講釈することで、法制局と憲法学者との「陰謀めいた連携プレーを見せてきた」といった妄想的議論を展開している。この主張については徹底した批判を加えておいたので、こちらを参照されたい(直言「憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その3)――憲法前文とその意義」)。

日本国憲法の平和主義の積極的性格について、私は「日本国憲法の安全保障設計は、武力の系統的な整備によらず、「平和を愛する諸国民(peoples)」のネットワークの形成などを通じた総合的な形態をとっている。」と考えている(拙著『平和の憲法政策論』(日本評論社、2017年)300頁)。「平和を愛する諸国民」を安倍首相はもっぱら国家や政府と考えているようだが、諸国民とは政府そのものよりも、例えば、戦争を仕掛けようとする政府に対して、戦争反対の運動を展開するその国のpeoplesも含まれる。一国の安全や生存を他国の善意に依存するものというのは、ためにする批判であり、ここでいう「平和を愛する諸国民」と連携・連動した平和の守り方と創り方は豊かな広がりをもつ(「平和のエンジンブレーキ」拙著『武力なき平和――日本国憲法の構想力』(岩波書店、1997年)234-238頁参照)。「平和を愛する諸国民・・・」についての前文のコンセプトは、安倍首相がいうような陳腐なものではないのである。

冒頭の動画から見えてくるのは、安倍首相の改憲論の薄っぺらさと際立った「曲解力」である。「八方塞がり外交」は、安倍政権の失態である。そして、今回は触れられなかった基幹統計の改ざんの可能性の問題など、安倍政権の末期は近づいていると言えよう。

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