「私は立法府の長」――権力分立なき日本の「悪夢」
2019年3月4日

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週の火曜日、この20年になかったことをした。それは朝一番で映画館に行くことだった。9時半開場なのにすでに数名が並んでいる。多忙な日程のなかで、このタイミングでこの映画と出会えたことに感謝した。ロベルト・シュヴェンケ監督『ちいさな独裁者』(2017年、ドイツ=フランス=ポーランド)、原題は「大尉」(Der Hauptmann)である。残虐シーンは抑制的に描かれているのに、心の芯から寒々とするような怖さを感じる映画だった。ネタバレになるので、私の感想は省略するが(公式サイト参照)、「彼らは私たちだ。私たちは彼らだ。過去は現在なのだ」という監督の言葉は、いまの日本そのものであると感じた。ちょうど11年前の「直言」で「議員辞職すべし」とまで書いた人物が復活し、権力を私物化し、濫用している。なぜ、かくも長期にわたって権力を握り続けることができるのか。その秘密が、この映画のなかにあるように思う。私にこの映画をみるように促した若手研究者は、私が映画館に向かう前夜、「詐欺的統治話術、政治的官吏と忖度官吏と思考停止的官吏の問題など、まさに今の問題ですね」というメールを送っていた。上映館が少なく、私が朝から行った新宿武蔵野館でも今週で終演なので、DVDレンタルなどを待つほかはないが、読者の皆さんには機会をみて是非ご覧いただきたいと思う。

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さて、言い間違いや勘違いは誰にでもある。だが、首相ともあろうものが何度も自分のことを「立法府の長」と呼ぶのは異様である(YouTube)。このネット上の動画をよく診ていただきたい。編集されていて、「一部を切り取って真実を伝えていない」という反論が予想されるが、しゃべるトーンや表情をしっかり観察すれば、首相が、言葉の重大性をよく理解できていないことがわかるだろう。「行政府の長!」と委員長に注意されたときの表情に注目していただきたい。「あ、行政府ですか」とキョトンとする。背後の塩崎恭久大臣(当時)が委員長の方を向き、顔を一瞬しかめるのが分かる。別のところでは、「私は、立法府、立法府の長であります」と重ねて言った時、背後の石破茂大臣(当時)が「エッ」と顔を向けるのが一瞬映っている。昨年11月の段階で、「立法府の長」という「言い間違い」は2年間で4回にもなった(直言「首相の「改憲扇動」の違憲性―「憲法改正の歪曲」」)。

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安倍首相は「無知の無知の突破力」を強みとする。自分が無知であることを自覚していないからこそ、顔色一つ変えず、ときに笑顔さえ浮かべて相手を罵ることが可能となる。少しでも知識があれば、心の内と外に出る言葉との間の矛盾が生まれ、口調や表情にそれが反映するものである。安倍首相の「根拠のない自信と確信」はどこからくるのか。それは「無知の無知の突破力」のなせる技であると私は考えている。2年前の直言「第96代内閣総理大臣の「恥ずかしい」政治言語」でも、かなり執拗に安倍晋三という人物の問題性を明らかにした。小心で狭量な陣笠議員が、元首相の孫という「血筋」を唯一の強みとしてのしあがり、各省大臣を一つも経験することなく首相にのぼりつめたわけである。

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この国の「悪夢」の転換点は、6年前の2013年参議院選挙における「ねじれ解消」だったというのが私の認識である。この写真にあるように、「ねじれ解消」という間違った言説がメディアによって流布され、この国からまっとうな「ねじれ」が消え、「安倍一強」と呼ばれる「悪夢」が定着してしまった。安倍首相の際立った特徴は、憲法の軽視や無視ではなく、憲法を徹底して蔑視するところにある(直言「非立憲のツーショット」)。野党の臨時国会召集要求は公然と無視され(憲法53条違反)、役人の答弁に「記憶にございません」が常態化し、法案も予算もまともな審議なしに成立するなど、国会は機能不全に陥っている。「憲法違反常習首相」はますます増長し、2月28日の衆院予算委員会では、とうとう「私が国家です」と聞こえるような答弁までしてしまった。

フランス人権宣言16条は、「権利の保障が確かでなく、権力分立も定められていないような社会はすべて、憲法をもつものではない。」と定め、憲法に基づく政治のあり方(立憲主義)の不可欠の要素に権力分立を挙げている。権力分立については、小学校の社会科では「三権分立」という言葉で習う。つまり、これについては小学生でも知っているということになる。しかし、安倍首相は自分が「立法府の長」であると考えはじめているのではないか。ここで、改めて権力分立とは何かについて確認しておこう。

大学院法学研究科の昨年の授業(憲法研究T[博士前期課程])で、台湾からの留学生と中国のポスドクの研究者もいたので、春学期は清宮四郎『国家作用の理論』(有斐閣、1968年)を分担して検討した。院生たちと再読してみて、学生時代に読んだ時は気づかなかった指摘や新鮮な発見があった。その清宮が1950年の日本公法学会で「権力分立制序説」という報告を行っている(『公法研究』3号(1950年)1〜5頁)。日本国憲法施行後最初の、最もまとまった権力分立についての研究報告である。権力分立の4つの特性について、清宮は実にわかりやすい説明の仕方をしている。

「権力分立論は立法、司法、行政など、国家権力の種別を前提としてはいるが、たんに国家権力の理論的分類または制度的種別を説くものではない。また、国家権力の組織・技術上の分離を提唱するにとどまるものでもない。分立論の重点は、もっぱら、自由主義的な政治的要請として、その実現を求めるところにあり、その真価も主としてそこにみられる。すなわち、国家の権力から国民の自由を守るために考えられた原理であって、それには、国家の権力が誰かの一手に集中し、あまりに強大になるのを防ぎ、各権力を分離・独立せしめて、それを抑制し、緩和する必要があるとなすものである。国家の各権力が、分離・独立しながら、互いに他を抑制し、均衡を保つように権力を分立せしめること、これが分立論の要旨である。」

このように、権力分立原理の第1の特性は、自由主義的な政治組織原理ということにある。この点は重要である。権力から国民の自由を守るためのものである以上、この仕組みが空洞化し、首相が「立法府の長」を名乗ってはばからなくなれば、国民の自由が危うくなる。

第2の特性は何か。「権力分立論は、もともと積極的に能率を増進せしめるための原理ではなくて、消極的に権力の濫用または権力の恣意的な行使を防止するための原理」という点にある。権力の濫用と恣意的行使を防止する原理。実に明快である。

第3の特性は、「国家の権力及びそれを行使する人間に対する懐疑的または悲観的な態度にある。すなわち、権力分離論は、国家の権力に対する不信任・・・、したがって、権力を行使する人間に対する不信任から出発している。」

権力分立原理の第4の特性は、「その政治的中立性または中和性にある。権力分立原理本来の性格は、自由主義的であって、それは、どのような権力にも対抗するものである。」「極端な専主制と極端な民主制との間の中和を求める傾向から生じている。」

清宮が挙げた権力分立原理の4つの特性はリアルである。権力分立原理は民主主義の暴走に対する歯止めの機能もある。その意味で、いま、この国を覆う「スピード感あふれる政治」への志向は、ヴァイマル期のドイツと似ている。民衆のなかにあるねたみ、そねみ、ひがみ、やっかみを巧みに操縦して、対外的な排斥へと向かい、独裁国家としての完成水準に到達したことが想起される。いまの日本は非常に危ういところにきている。権力分立が無意味化して、「スピード感をもって」が口癖の首相のもとで、党内手続も国会での審議も軽やかにはぶいて、首相官邸主導(手動)で、国民の大切な税金が高額兵器の爆買いに使われている。いまこそ、権力分立の4つの特性を再確認する必要があるだろう(なお、権力分立原理については、麻生多聞「権力分立原理の受容と展開」『鳴門教育大学研究紀要』21巻〔2006年〕参照)。

『ちいさな独裁者』のラストは衝撃的である。映画『帰ってきたヒトラー』のラストとも響き合う。

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