憲法改正論議の「土俵」とは何か――安倍流「前提くずし」
2019年9月2日

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「無知の無知」と「厚顔無知」は、安倍晋三首相の最大の強みである。7月21日の参議院選挙の結果は、与党と日本維新の会を合わせた「改憲勢力」が81議席にとどまり、非改選を含めた参院全体で改憲発議ための3分の2の維持に必要な85議席を割り込んだ。にもかかわらず、安倍首相は22日、「少なくとも〔改憲の〕議論はすべきだというのが国民の審判だ。野党にはこの民意を正面から受け止めていただきたい」と、自信たっぷりに語った(22日付各紙)。典型的な我田引水である。沖縄や、東北6県の3分の2の1人区で負け、総議員の3分の2に届かなかったのに、ここまで言ってしまう傲慢さに、ただただ驚く。しかし、読売などは、「自民党の勝利を弾みに、憲法改正論議を加速させる算段に対し、野党の多くは「有権者が関心を持つテーマは憲法ではない」(立憲民主党の枝野代表)などとして、同じ土俵に乗らなかった。」(『読売新聞』7月26日付「政なび・改憲議論 弾む仕掛けを」)と、むしろ「土俵に乗らない野党」を非難する。

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自民党憲法改正推進本部長の下村博文氏は、憲法改正について、「国会議員が憲法についてどう考えているのかを国民に示すためにも、自由闊達な議論の土俵に乗ってもらいたい。」とつとに語っている(例えば、『読売新聞』5月3日付)。この「土俵に乗らない野党」という言い方に対して異論をはさむのは、朝日の高橋純子編集委員である(『朝日新聞』7月17日付オピニオン「多事奏論」)。

高橋氏は、「「議論すらしない」という批判は、野党が与党に向けても「負け犬の遠吠え」としてほぼスルーされるが、与党が放つと、野党を確実におとしめることができる。そのような非対称が生じるのは、この国の民主主義の土俵がすでにゆがんでいるからだと言わざるを得ない」として、「この6年半、議論を軽視し、採決を強行し、時に憲法をも無視して、土俵を使い物にならなくしてきたのは他ならぬ首相である。その当人に「議論しないのは責任放棄」と挑発されること自体情けないが、そんなものに易々と乗って、ゆがんだ土俵と知りつつ「上がらなきゃ」と腰を浮かせている人々は、よく言えばお人よし、悪く言えば間抜けである。まずは「議論」という言葉を奪い返し、熟議の土俵を作り直さなければ始まらない。それは選挙の勝ち負けを超え、この国の民主主義をかけた闘いである」と、なかなか鋭い。私もこの「土俵」という言葉にこだわってみたい。

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そもそも「土俵に乗る」という表現に問題はないのか。相撲で力士が土俵場に入ることを「土俵に乗る」とはいわない。「土俵に上(あ)がる」という。力士にとって土俵は相撲をとるための神聖な舞台である。「土俵に乗る」のは力士ではなく、賜杯や表彰状を渡す安倍首相やトランプのような人間だろう。

公明党の山口那津男代表は、安倍首相が目指す憲法改正論議の加速をめぐり、自民党内に「参院選勝利で民意を得た」との見方が出ていることについて、「何の民意を得られたのかさっぱりわからない」と疑問を呈した上で、「議論が進むような土俵をつくる与野党双方の努力がまず必要。何を議論するかは土俵を整えた上でのことだ」と述べた(『毎日新聞』8月7日付)。安倍首相らが、「土俵に乗れ」と急かすのに対して、山口代表は「土俵をつくる」「土俵を整える」という言葉を使っていることに注意したい。共同通信によれば、自民党の石破茂元幹事長は、参院選後の7月30日に開かれたパネル討論会に出席し、安倍政権下での憲法改正に前向きな「改憲勢力」の定義に疑問を呈したという。「自民、公明両党のスタンスは相当違う。3分の2はフィクション(虚構)だ」と。今回の参議院選挙で与党+維新が3分の2に届かなかったことで、「改憲勢力」にカウントされてきた公明党の側に警戒心を高める結果になったことは皮肉である。

改憲に前のめりの安倍首相の狙いが頓挫したことをおもんばかって、側近の萩生田光一幹事長代行(加計学園千葉科学大学名誉客員教授)は7月26日のインターネット番組で、「有力な方を議長に置いて、憲法改正シフトを国会が行っていくのが極めて大事だ」と述べ、大島理森衆議院議長を交代させる可能性にまで言及した。これについては、さすがの二階俊博幹事長も、「立場を考え、慎重に発言するように注意した」という(『産経新聞』7月31日付)。だが、官邸や側近の言葉は、すべて安倍首相の意向を代弁もしくは先取りしたものと考えるのが自然である。とうとう安倍首相は、自らが「立法府の長」であると本気で考え始めているのかもしれない。「無知の無知」の突破力はさらにパワーアップしているようである。

憲法論議の「土俵」といっても、自分で改正内容を限定し、改正期日まで勝手に設定して(「私の(2021年9月までの自民党総裁の)任期中に何とか実現したい」日本テレビ7月21日インタビュー)、憲法論議の土俵に乗れと迫るのは、最高法規である憲法というものに対する「傲慢無知」でしかないだろう。憲法改正の議論に「対案」は必須ではない。なぜなら、法律改正や政策上の問題と違って、憲法の場合だけは、その改正を求める側が、法律の改正や新法律の制定などではどうしても足らず、憲法条文そのものを改めない限り、問題の本質的解決にならないという理由と根拠を示して、議論を呼びかける必要があるからである。もし、憲法改正の必要なし、法律改正で十分ということになれば、その段階で改憲論議は終了となる。規範と現実にズレが生じているからとか、70年以上昔の制定過程に問題があるからとか(「押しつけ憲法」論)、いわんや「違憲論争に終止符をうつため」とかいったことは、憲法改正の理由にならない。この種の主張で改憲をすすめることを、私は「フェイク改憲」と呼んでいる(直言「「フェイク改憲」に対案は不要―「改憲論戯」からの離脱を」参照)。

繰り返しになるが、私は安倍流「5つの統治手法」を、@ 情報隠し、A 争点ぼかし、B 論点ずらし、C 友だち重視、D 異論つぶしと特徴づけている。そして、これらすべてを貫く特徴的傾向を「前提くずし」と呼んでいる(「「アベランド」―「神風」と「魔法」の王国」参照)。憲法論議の前提を壊してきたのは安倍政権である(直言「安倍政権の「影と闇」―「悪業と悪行」の6年」参照)。憲法論議の前提、すなわち土俵を破壊してきた人に、「土俵に乗れ」といわれる筋合いはない。そもそも「憲法違反常習首相」の安倍首相に、憲法論議の土俵に上がる資格はない。いな、むしろ、首相としての立場では、積極的に「憲法論議の土俵に乗れ」と野党に迫ることはできない。樋口陽一教授は、「適法な憲法改正を主張し、また行うことと憲法尊重擁護義務との関係は、その公務員が憲法改正権(の一部)を行使できる立場にあるかどうかによって決まる」として、「内閣総理大臣その他の国務大臣については、憲法改正を国会が発議する前提としての発案権を国会議員だけが持つという解釈をとった場合には、大臣としての資格において憲法改正を主張することはできない、と解すべきである」としている(樋口『憲法(第3版)』(創文社、2007年)93頁、同『憲法Ι』(青林書院、1998年)399頁)が、私もこの解釈に同意する(直言「首相の「改憲扇動」の違憲性―「憲法改正の歪曲」」)。

それにしても、安倍首相は石破茂元幹事長だけは苦手のようである。昨年9月の自民党総裁選の際、安倍首相は外交日程をことさらに(と見える)立て込ませ、総裁選の実質的選挙期間を減少させて、石破氏との直接論戦の機会を少なくした。9月7日告示の総裁選は、20日の投開票日を除くと選挙期間は13日間だったが、ロシア極東での3日間の国際会議を理由に前後1日を討論会や演説会なしの設定にした。この時、「議論の土俵に乗る必要はない」としたのは安倍首相の側だった。これを報ずる『朝日新聞』2018年8月29日付の見出しは、「「土俵乗る必要ない」論戦求める石破氏を突き放す首相側」であった。総裁選投票日の2日前、民放の番組に出演した安倍首相の顔に注目いただきたい。淡々と論点を指摘する石破氏の声が流れるなか、安倍首相の目が泳ぎ、小刻みに揺れている(テレビ朝日「報道ステーション」2018年9月18日)。安倍首相のいう「憲法論議の土俵」も、自分に不利に働くとわかれば、すぐに別の「土俵」に乗りかえて「逃亡」してしまうのだろうか。

なお、野党内からも、「野党は改憲論議から逃げるな」というような議論が出ている。「野党は憲法論議から逃げずに、きちんと応じるべきです」「立憲主義の観点、政府を監視する側からの改憲案を提示すべきです」等々。憲法論議から「逃げる」とはどういうことなのか、意味不明である。何か威勢のいい言葉を使って、「たたかってる感」を出しても、安倍政権は痛くもかゆくも、くすぐったくもない。安易で不用意な「対案」をひねりだす時間があれば、安倍改憲の本質をしっかり市民に説くことに力を注ぐべきだろう。

ごく最近では、「れいわ新選組」の山本太郎代表も、「専守防衛徹底に9条改正は必要」といいだしたようである(『東京新聞』2019年8月8日付)。安全保障関連法の成立により、「憲法を超えた立法がされた」ことが理由だとして、自衛隊の海外派遣禁止などを条文に盛り込む考えを示した。安倍政権下での改憲に対しては反対を明言したようだが、憲法の条文に「海外派遣は禁止する」などと書き込んで、「専守防衛」に限定できると考えるのはあまりにも甘い。「れいわ」には、安易な改憲論議にコミットすることなく、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の悲惨な状況に、もっともしっかり、もっと鋭く立ち向かう政党として、憲法上の権利実現のためがんばってほしいと願う。

『世界』(岩波書店)2018年1月号に書いた拙稿「安倍「九条加憲」に対案は必要ない―憲法改正の「作法」」をこの機会にお読みいただければ幸いである。図書館に行かなくても、直言「「フェイク改憲」に対案は不要」をクリックして、下の方にスクロールすれば読むことができる。

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