裁判所が認めた「抵抗権」――台湾最高裁判決の問題性
2021年2月22日

「東京2020」の終わりのはじまり

型コロナウイルスのワクチン接種が始まった。「躊躇なく」「先手先手で」と言葉だけ前屈姿勢の安倍・菅政権のもと、ワクチン接種は主要各国のなかで最も遅れた。「東日本大震災」10周年を目前にして、2月13日、福島・宮城を最大震度6強の地震が襲った。そこに追い打ちをかけるように暴風雪である。世界中で人々の記憶がよみがえった。「フクイチ」(福島第一原発)は大丈夫か、と。東日本大震災からの復興を世界にアピールする五輪というが、そもそも「復興五輪」なるものがフェイクなのである(直言「「復興五輪」というフェイク」参照)。「フクシマ」の放射能汚染イメージは欧州では根強く、二度目の「幻の五輪」になりそうである(直言「「幻の東京五輪」再び」)。他方、「コロナからの復興の証」というのも、ワクチン接種の遅れにより絶望的となった。そもそも7月の猛暑時にマスクをして競技に集中することが可能なのか。熱中症の死者がたくさん出るような所に、各国は選手団を派遣してくるだろうか。「東京2020」は、理念的にも(憲章に反するトップの女性蔑視発言)、競技環境的にも(コロナ+熱中症+線状降水帯による豪雨等々)、何より競技内在的にも(コロナ禍により各国・各競技における代表選手の選考の困難さ)、強引な開催は、今後の五輪の存続にも影響を及ぼすだろう。秋晴れの10月開催の、受け入れ側にも希望と準備のあった57年前とは大違いである(直言「オリンピックと自衛隊―東部方面隊「東京1964」」)。ちなみに、私は北京五輪について、13年前に批判的見解を表明している(直言「ベルリンと北京の間」参照)。国内における尋常でない人権抑圧政策(特に新疆ウイグル自治区での強制不妊手術)と露骨な対外膨張政策をとるこの国に、「平和の祭典」を開催する資格が問われている。2022年の北京冬季五輪の開催も未知数である。

「ひまわり運動」についての最新判例

その中国は香港に対して傍若無人の対応を続けている。2019年6月、人権と民主主義と自治を求めて、人口700万の香港市民のうち100万人以上が街頭に出た(直言「軍が民衆に発砲するとき――旧東独「6月17日事件」、「5.18光州事件」、「6.4天安門事件」、そして、香港」)。これに対して中国は「香港国家安全維持法」(2020年6月施行)を制定して、香港の市民を力によってねじ伏せた。9人の弁護士・民主活動家が懲役刑に処せられようとしている。

そこで想起されるのは2014年「ひまわり運動」とそれをめぐる台湾の裁判例である。「ひまわり運動」については、7年前に日本でもかなり注目された(例えば、「揺れ動く台湾市民社会―「ヒマワリ運動」が浮上させた「多数」の意味」参照)。だが、その後の裁判の展開などについては、メディアでもあまり注目されることはなかった。香港の市民の動きに関心が向かったこともあろう。私自身、「ひまわり運動」のその後について自覚的に調べたり、考えたりする機会はなかった。

私の研究室に所属する博士後期課程院生の陳韋佑(チン・ウェイユー)君は、大学院のオンライン授業でつながりながら、しばしば台湾の情報を提供してくれている。彼は国立政治大学法学院法律学系学士班(法学部法律学科に相当)、同碩士班(大学院修士課程)を経て、2020年4月に早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程に入学してきたのだが、コロナ禍で現在も日本に入国できないでいる。その彼から先月の28日にメールが届いた。1月18日に出された台湾の最高裁にあたる最高法院が、「ひまわり運動」関係の判決のなかで抵抗権を認めているというのだ。添付ファイルには、『蘋果日報』紙のネット読者投稿欄に掲載された彼の批判的コメントの翻訳があった。

陳君によれば、台湾でも、「ひまわり運動」に関連して「最高裁が抵抗権を認めた」というとポジティヴな見方が有力だという。しかし、陳君は、判決がドイツ基本法20条4項の抵抗権条項を引用している点に着目する。これは炯眼である。ドイツ憲法を専門にするものにとって、20条4項は見過ごすことのできない問題を含んでいる。「この秩序を排除することを企てる何人に対しても、すべてのドイツ人は、…抵抗する権利を有する」とあるように、ここでの抵抗の相手方は国家権力でなく、秩序を破壊しようとする私人を含む「何人」である。一般に理解されている抵抗権とはベクトルが逆になっている。緊急事態条項を大規模に導入した1968年の第17次基本法改正で導入されたことに留意する必要がある。だから、「ひまわり運動」について、ドイツ基本法20条4項をあえて引用してこれを「認めた」ということを軽く見るべきではない。陳君はその点を見抜き、この判決を手放しで礼賛する市民派に対して、的確な冷水を浴びせたわけである。この新聞投稿をもとに、「直言」のために原稿を執筆してくれた。以下、やや専門的ではあるが、陳韋佑君の論稿を掲載することにしたい。なお、冒頭の写真を含め、すべて2014年3月に陳君自身が撮影したものである(最高法院の写真はGoogleMap)。

抵抗権を認めた台湾最高裁判決について
陳韋佑(チン・ウェイユー)

2014年に起きた「ひまわり運動」について、最高裁判所(台湾では「最高法院」)の判決が先月、2021年1月18日に出された(破棄・差戻。最高法院109年台上字第3695號刑事判決、以下「本判決」とも呼ぶ)。本判決では、裁判所が初めて抵抗権を台湾憲法に存在する法概念として認め、抵抗権の行使は違法性を阻却し得ると判示している。

本判決は水に投じられた石の如く、法律関係者のみならず、一般市民にも賛否両論の波紋を呼んだ。本判決を「民主主義の勝利」として歓迎する声が少なくない一方、憲法典に明文で定められていない抵抗権を認めた本判決を「踰越」1と見なし「現政権に忖度して暴徒を合法化」と批判した意見も散見される。ただし、「民主主義の勝利」なのか「暴徒の合法化」なのかという議論設定は、将来に深く影響を与えるかもしれぬ本判決の評釈にはふさわしくはないと考える。台湾特有の政治状況に規定された「ひまわり運動」をめぐる議論は、二極化した政治的主張の対立の嵐に巻き込まれやすい。だが、本判決が台湾における抵抗権論に少なくない影響を与える可能性がある以上、これを冷静にかつ客観的に分析して、抵抗権を再考する契機とする必要があると考える。


事件の経緯

日本でもよく知られている「ひまわり運動」は2014年3月18日から4月10日にかけての立法院占拠事件として有名である。写真はその立法院占拠の様子と、立法院近くの道路に設置された、デモ隊進入を防ぐ拒馬である。今回法廷で争われたのは、3月23~24日に起こった行政院占拠事件の方である。

3月23日夜、すでに立法院議事堂を占拠していた「ひまわり運動」の参加者の一部が、同日昼に開かれた馬英九総統(当時)の記者会見に反対の意思表示するため、約300メートル離れた行政院に向かい、抗議活動を行った。最初は行政院の建物を包囲することにとどまっていたが、やがて建物に進入して占拠する事態に発展した。政府は行政院とその周辺の占拠者の排除にあたり、放水銃を装備する機動隊を動員して、後に猛烈な批判を招くほどの鎮圧を実行した。

2015年、行政院占拠事件のリーダーと見なされた魏揚(ウェイ・ヤン)らは刑法第153条第1項(犯罪煽動罪)違反などで起訴された。

「犯罪煽動罪」について、被告人は、ア)犯罪煽動罪は比例原則に反し憲法違反である、イ)抵抗権を行使であって違法性が阻却される、ウ)市民的不服従にあてはまるため違法性が阻却される、と主張した。2017年4月に台北地方裁判所が下した判決(臺灣臺北地方法院104年原矚訴字第1號刑事判決)では、「犯罪煽動罪」について被告人を無罪とした。台北地裁は、刑法第153条第1項の合憲性や、抵抗権・市民的不服従の論点には踏み込まず、被告人らの行為が「犯罪煽動罪」の構成要件に該当しないことを理由に無罪とした。なお、立法院占拠事件の一審判決(臺灣臺北地方法院104年矚訴字第1號刑事判決)も同年3月に出され、初めて「超法規的違法阻却事由」として市民的不服従を認めた裁判例となり、注目を集めていた。

2020年4月、行政院占拠事件の二審判決(臺灣高等法院106年矚上訴字第3號刑事判決)が出された。高等裁判所は一審の無罪判決を破棄。被告人らの行為は「犯罪煽動罪」に該当すると判断した。そして、台湾憲法と法律においては、市民的不服従と抵抗権は認められないと判示したのである。

最高裁はどう判断したか

だが、事態は再び転換した。先月18日、最高裁判所は二審判決を覆し、原審に差し戻したのである。本判決の要旨は、以下のようになっている。

ア) 刑法第153条第1項(犯罪煽動罪)は憲法に違反しない。
イ) 抵抗権と市民的不服従は我が国の法秩序においても存在しており、裁判所は緊急避難を類推適用し、違法性を阻却することができる。
ウ) 事実審裁判所は被告人の行為が抵抗権または市民的不服従にあてはまるかどうかを検討しなかったため原判決を破棄し、原審に差し戻す。

最高裁は市民的不服従と抵抗権を明確に区別したうえで、焦点となる抵抗権については以下のように述べている。

抵抗権の概念は、民主憲政秩序の保衛と回復のため、憲法によりその正当性と合法性が与えられたことに由来する。1968年の基本法改正で新設された第20条第4項では、「すべてのドイツ人は、この秩序を除去しようと企てる何人に対しても、他の救済手段が存在しないときは、抵抗権を有する」と規定されている。この秩序(憲政秩序)とは、ドイツは民主主義かつ社会福祉的な連邦国、主権在民と三権分立原則、立法が憲政秩序によって拘束されること、行政権と立法権の行使は法と基本的法律原則によることを指すものである。この抵抗権の行使には、違法手段が含まれている。しかし、「不法状況が極めて公然」な場合のみ行使し得る。かつ最後の手段であるべきである。我が国の憲法においては、抵抗権は明文で規定されていないが、国民主権の憲政原理によりこれを認めるべきである。市民が抵抗権を行使する行為は違法性を阻却し得る。〔翻訳にあたっては、原文の漢字をできるだけ残した。次の引用も同様。〕

さらに、違法性阻却事由として機能する抵抗権の射程については、以下のように判示している。

憲法の優越性により、裁判所の判決は基本的権利を保障する憲法の趣旨に従い、憲法価値理念の内実を充実すべきである。行為者が全体の法益を全うするために他の法益を犠牲にするにあたって、その避難手段が基本的権利の行使にかかわり、まっとうしようとする法益が危難にある自由民主憲政秩序(憲法が保障する基本的権利、権力の分立の原理、法治国家の原理、民主国家の原理、共和国の原理、民生福祉国家の原理)の場合、法律体系の一貫性、基本的権利を保障する憲法の趣旨および自由民主憲政秩序の維持の重要性に基づき、その実質的違法性、責任の認定については、個人の法益の緊急避難に倣って利益衡量をすべきである。急迫の危難事情が存在し、行為者が主観上の救助の意志を有し、避難行為がやむをえない(すなわち必要性と利益衡量)という要件に基づいた場合、行為者の利益にすることにより、緊急避難の規定が類推適用され違法性を阻却する。あるいは行為者が必要性を越える、または利益衡量ができない避難手段を行使した場合、過剰避難の規定を類推適用し刑責を軽減・免除する。それによって違法性、責任の法定阻却事由の不足を補う。

台湾の最高裁判所はめったに自為判決〔自判のこと〕をしない。本判決でも、被告人の行為が抵抗権の行使に該当するか否かについては判断しなかった。

2014年「ひまわり運動」のさなかでも抵抗権や市民的不服従をめぐる議論が行われていた。抵抗権を認めた本判決は、司法府の判断としては初めてである。本判決は画期的な裁判例とはいえる一方、判決理由のなかで、ドイツ基本法の抵抗権論を引き合いに出している点については、後述のように、台湾における抵抗権理論の展開に影を落とす一面もあるとい言わざるをえない。

本稿では市民的不服従についての検討を割愛するが、本題の抵抗権論に入る前に簡単に述べておく。台湾では、市民的不服従という概念はもともと政治哲学のカテゴリーに属する概念であったため、法学的あるいは訴訟上用いることには反対する意見がある。市民的不服従は直接に訴訟で用いることはできず、違法性の阻却は表現の自由といった基本権条項に依拠せねばならないという学説もある2。私見では、市民的不服従がいまだ法学的概念として位置づけられるほどの精緻な法理論になっていないとしても、必ずしも将来法的概念になることを妨げられるわけではない。今日の基本権・基本的人権も、最初はいわゆる政治哲学の概念にすぎなかったはずである。

二つの抵抗権

台湾では、商法など少数の分野の除き、法学分野の全体にわたってドイツ法の影響力がかなり強い。筆者が学部生であった頃、講義でドイツ法の理論や判例を学ぶことは珍しくなかった。しかし、「ドイツ法はこうだ、台湾法はこうだ」というような比較法の視点よりも、むしろ「ドイツ法はこうだ、だから法はこうあるべし」という傾向があるといえよう。

ドイツ法の影響力が強い反面、台湾法学の全体の傾向として、ドイツの通説や実定法―厳密にいえば、選択された部分のみ3―を再検討する可能性を欠いていることも否定しがたい。抵抗権に関する認識は、その明確な例といえる。

抵抗権を認めた2021年1月18日台湾最高裁判決では、裁判所は抵抗権の根拠を「国民主権の原理」に求め、抵抗権の目的を「民主憲政秩序の保衛と回復のため」としている。利益衡量論に基づいた違法性阻却事由として機能する抵抗権論を位置づけている。いうまでもなく、このような抵抗権論は極めてドイツ法的なものとなっている。裁判所も直接にドイツ基本法第20条第4項を抵抗権のモデルとして援用している。さらに、本判決では護るべき「自由民主憲政秩序」が法治国家の原理、民主国家の原理、福祉国家4の原理、権力の分立の原理、共和国の原理とされているが、連邦国家の原理を除きドイツ基本法を前提としたドイツ戦後憲法学における立憲国家(Verfassungsstaat)の基本原理と一致している。台湾では、こうしたドイツ流の立憲主義の諸原理を以前から継受している。

今回の最高裁判決のように、台湾における抵抗権に関する議論はドイツ基本法第20条第4項で定められた抵抗権を抵抗権論の内容とする傾向が強い。しかし、近代法的な意義を有する抵抗権には二つの種類がある。ひとつは「実定法上の抵抗権」であり、もうひとつは前者の根源となった「自然法上の抵抗権」である。両者を区別する必要がある。

両者とも「立憲主義の擁護」という旗を掲げるが、本質的な差があることを見落としてはならない。「自然法上の抵抗権」は現有体制への打倒ないし対抗のために用いられる法概念であり、その現有体制打倒の性質に鑑み実定憲法上の権利になりにくいとはいえ、市民から公権力に対して行使されることが想定されており、公権力、国家主権を相対化する法概念という意味で「人権」らしいものがある。

他方、ドイツ基本法上の抵抗権では「抵抗される」対象の範囲が拡大されている。基本法第20条第4項では、公権力か私人かを問わず、基本法秩序を覆えそうとする「すべて」の人に対し行使する抵抗権と規定されている。従来の国家権力のみならず私人も「抵抗され」得る対象にした結果、「すべての人」が「現在」の憲法秩序と体制を擁護する義務を負うことになる。すなわち、「自然法上の抵抗権」を「ドイツ基本法上の抵抗権」に意味転換した結果、抵抗権の核心が転倒され、抵抗権が市民に憲法への忠誠を要求する正当性の法的基礎としての意味を帯びるに至ったのである5

ドイツ基本法の抵抗権条項は、1968年の基本法改正によって導入された条項である。1968年の第17次基本法改正では国家緊急権条項の導入が主要な目的となっており、最初抵抗権条項の改正案は国家緊急権に対抗する意義を有していた6。しかし、「抵抗される」対象が私人にまで拡大され、「他の救済方法が存在しない限り」という厳格な要件も課され、結局、抵抗権は「現存体制を護持」する法概念となってしまい、樋口陽一教授の表現を借りれば、「緊急権と抵抗権の対照性がうすれて、両者の性格が接近」7することになってしまったのである。

抵抗できぬ「抵抗権」への道?

憲法典に明文で定められていないにもかかわらず、裁判所の公権的判断によって実定法上の抵抗権を導入した今回の台湾最高裁判決は、1956年8月のドイツ連邦憲法裁判所のドイツ共産党(KPD)違憲判決を想起させる。政党違憲判決として有名なこの判決は、基本法第20条第4項に先駆けて抵抗権を認めた裁判例でもあった。「人民抵抗」を主張したドイツ共産党に対し、連邦憲法裁判所は抵抗権の存在を前提とし、「真正の抵抗権」という言葉を使い、「人民抵抗」は「真正の抵抗権」ではないと判示している。かくして、「抵抗権の存在の否定」ではなく、「抵抗権に対する解釈の独占」によって「抵抗権を認めた真の民主主義国家」の美名を維持しながらも実存した「抵抗」を無力化するイデオロギー性がここに明らかとなる。今回の台湾最高裁判決については被告らに有利な判決とよく言われているが、「ドイツ基本法上の抵抗権」論を採用したうえでむしろ1956年ドイツ共産党違憲判決の結論への架け橋となる可能性が高いのではないか。

このように、「自然法上の抵抗権」と「ドイツ基本法上の抵抗権」の差異は、ドイツと日本の憲法学ではよく認識されていると思われる。しかし、管見の限り、台湾ではドイツ基本法流の抵抗権の特徴たる「すべての人」に対する抵抗権であるところを問題視した議論は見当たらない。憲法忠誠義務への転化を問題とする視点を欠いたままの継受は、自覚なくして抵抗権の核心を転倒することにつながるのではないだろうか。

初めて抵抗権を認めた最高裁判所の1月18日の判決は、抵抗権を裁判的法概念として認めた同時に、抵抗権論の土俵を作り将来の抵抗権論の行方を設定する機能を発揮するといえよう。すなわち、今我々は台湾法における抵抗権論展開の分岐点に立っているといっても過言ではなかろう。ドイツ基本法流の抵抗権論を無批判に導入しつつあるとすれば、抵抗権の本来の意義を知らず知らずに薄れさせ、基本権を仮装した「憲法忠誠義務」のニュースピークと化した「抵抗権」になる可能性があるといわざるをえない。ドイツ公法学の影響力が強い台湾では、それは単なる杞憂ではないであろう。

むろん、「立憲主義からの逃走」が加速する世界のなかで、リベラル・デモクラシーの憲法に対する忠誠を要求することの何が悪いのかと言えるかもしれない。しかし、「護憲」と「憲法忠誠義務」とは異なる。市民が個人として自発的に立憲主義を擁護する「護憲」に対し、上から下への「憲法忠誠義務」論は立憲主義の核心にある「国家への懐疑」を見失わせるおそれがある。さらに、台湾では、反共主義と民主主義、国家主権護持と基本権保障が意図的に混在させられているので、安易に憲法忠誠義務を導入すると、逆にリベラル・デモクラシー擁護という大義名分のもとに「立憲主義からの逃走」を加速させるおそれなしとしないのである。

ドイツ基本法的な抵抗権論を持ち出した台湾最高裁判決を通じ、もうひとつの問いに迫る。ニュースピーク化する「実定法上の抵抗権」は不可避か、という問いである。「実定法上の抵抗権」はやがてドイツ基本法的な抵抗権論をとるしかないであろう。

久田栄正教授によれば、個人の尊厳を根本的に脅かす国家の戦争および軍事権力を否定する平和的生存権は抵抗権である8。日本国憲法上の平和的生存権は憲法が保障する権利である以上、平和的生存権も「実定法上の抵抗権」と呼べるであろう。言い換えれば、日本国憲法上の平和的生存権には、ドイツ基本法第20条第4項と異なった「実定法上の抵抗権」を示す可能性が含まれている。さらに、個人の尊厳を徹底したゆえに国家主権の核心にある国家の戦争および軍事権力を否定する「政府に対する自衛権」(ダグラス・ラミス教授の言い方9)という意味で、日本国憲法上の平和的生存権は、ドイツ基本法上の「抵抗権」よりも、本来の抵抗権に近いものではないだろうか。

だが、日本の平和的生存権もニュースピーク化の危機―2014年「7.1.閣議決定」では「国民の平和的生存権」をもって軍事力の保有と行使を正当化しようとしている―にさらされているように思う。抵抗権が実定法上の権利になるためには調整が必要となるが、その調整には権利の核心を失わせる可能を伴う。実定法上の権利にならない限り、裁判規範性を有する具体的権利として機能することはできない。生成途上の権利の裁判的展開のジレンマは、ここにある。このジレンマとその前提となった「自然法上の抵抗権」と「ドイツ基本法上の抵抗権」との区別を自覚しなければ、気づかぬうちに「抵抗できぬ抵抗権」への道を歩み始めるおそれがあることを忘れてはならない。

最後に樋口教授の顰みに倣い綴る。「事実の無知のうえに立った勇敢さではなくて、『合法性に挑戦する正当性』のために決断しうる抵抗のエートス」10としての人間の尊厳を貫くことこそが、抵抗権の問いへの回答であるべきであろう。

(早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程)

1 台湾は集中型の抽象的違憲審査制をとり、違憲審査権は来年憲法法廷に発展的改編される司法院大法官会議にある。日本の最高裁判所と異なり、台湾の最高裁判所は単なる民刑事の裁判機関である。司法行政は司法院が担う。

2 たとえば、廖元豪『以憲法之表現自由處理「公民不服從」爭議──評薛智仁教授「刑法觀點下的公民不服從」一文』(中研院法學期刊第19期、2016年)。

3 たとえば、エホバの証人の兵役拒否がきっかけになった大法官解釈釈字第490号解釈では多数意見は見事にドイツ基本法第12a条も保障する良心的兵役拒否権を無視した。

4 ドイツの文脈では「福祉国家(Wohlfahrtsstaat)」という言葉には反立憲主義・反法治主義のニュアンスがあるため「社会国家」を用いるが、台湾では「福祉国家」と「社会国家」を同義語として使う。

5 樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』(勁草書房、1973年)304頁以下を参照。

6 1968年基本法改正の「緊急事態憲法」については水島朝穂『現代軍事法制の研究』(日本評論社、1995年)225頁以下を参照。ドイツ基本法第20条第4項の成立経緯については、山内敏弘「西ドイツ非常事態憲法における抵抗権」(一橋論叢第65巻第1号、1971年)92頁以下を参照。

7 樋口陽一『現代法律学全集2 憲法Ⅰ』(青林書院、1998年)406頁。

8 久田栄正「平和的生存権」(ジュリスト第606号、1976年)を参照(深瀬忠一編『文献選集日本国憲法3 戦争の放棄』(三省堂、1977年)312-314頁に収録)。

9 ダグラス・ラミス『ラディカルな日本国憲法』(晶文社、1987年)172-173頁。

10 樋口・前掲注5)317頁。

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