2024年3月18日



ビフォア・アフター(before and after

311日、研究室の書籍や資料、そして「わが歴史グッズ」をすべて撤収した。2月から3月にかけて、段ボール詰めの作業を行った。「グッズ」を含めて約200箱になった。4トントラック3台に積み込み、都内某所に運んだ。自宅近くに保存してある書籍がさらに200箱近くあるので、4月下旬に第2陣の引越し便を出す。思えば、2019年正月から書籍・雑誌のバックナンバーなどの整理を始め(直言「雑談(119)「断捨離」と「終活」」)、旧宅の移動式書庫を撤去する際にも、かなりの書籍や資料を処分した。この4月でようやく、5年越しの書籍や資料の整理と移動が一段落する。冒頭2枚の写真は、「歴史グッズ」を展示したわが研究室の「ビフォア・アフター」(before and after)である。前者は、発行部数16万部の『早稲田学報』1239号(20202月)に掲載され、SNS上でも話題になった写真である。

 
「歴史グッズ」は28年間で増えた

札幌・広島時代で、自衛隊関係の部内資料やドイツ統一直後に入手した「ベルリンの壁」などの「歴史グッズ」をそれなりに持っていたが、早大時代の28年間で爆発的に増えた。19964月に着任した時は、早稲田通りに面したプレハブ研究棟(29-6号館)の2階を割り当てられ、そこに9年いた(9号館の研究室不足により、くじ引きで決まったもの)。法学部の8号館から距離はあるが、入試ロックアウトの影響も受けず、また駐車場付きだったので、本や資料を段ボールに入れて車で持ち込むこともできた(本部キャンパスは入構制限が厳しい)。昼食は、向かい側にある「紅梅」(直言「雑談(6)「食」のはなし(1)」 参照)でとった。この写真は、20038月に撮影したプレハブ研究室の風景である。手前の机の上に余裕をもって並ぶ程度で、背後には書籍が見えている(冒頭の写真では完全に隠れている! )。朝日新聞社の雑誌『論座』20051月号「ニッポンの論客」で、このプレハブ研究室の様子が紹介されている。ここから8号館11階の研究室に引っ越したのが20053月。その時のことを書いたのが、直言「雑談(32)引越しの効用」である。北海道・広島時代の本を大量に処分したとあるから、高い引越し費用をかけて運んでは捨てていたようで、家族には迷惑のかけっぱなしだった。

大量に増えた「歴史グッズ」への眼差しはさらに厳しい。一見して戦死した独軍兵士のものとわかるヘルメット手榴弾砲弾、人を刺殺するために用いられる銃剣(もちろん刃の部分は切断済)、5.56ミリで蜂の巣にされた人型の標的(左の写真)など、およそ自宅には持ち帰れない。

 なぜ「歴史グッズ」を集め始めたのか

 学生にも、講演の際に市民からも、このような「歴史グッズ」をいつ頃から蒐集し始めたのかという質問を受ける。実は何が最初だったのかは自分でもしっかり考えてこなかったのだが、119日の最終講義で、「最初のグッズ」として初めて演壇に持ち込み、披露したのが、陸軍燃料廠の防空鉄帽だった(教壇横の一番左に見える)。これは直言「わが歴史グッズの話(50)軍用ヘルメット(鉄帽・鉄兜)」でも書いた。幼稚園の時、この鉄兜をかぶって遊んでいると、友だちの母親に不快な顔をされ、また家に帰ってそれを母親に話すと、ひどく叱られたのを覚えている。戦後13年、戦争の記憶がまだ生々しく残っている頃だった(ちなみに、今年は東日本大震災13年)。私は「軍事おたく」のようにいわれるが、違う。「軍事を知らずして戦争は語れない」「戦争を知らずして平和は語れない」というのが基本スタンスである。そして何よりも、戦争の道具をおもちゃにしてはいけないという幼児期の記憶はしっかり残っている。

 「歴史グッズ」入手をめぐる裏話

学生の質問に、どうやって入手するのかという「方法論」もある。さまざまな立場の人からの「提供」が大きいといっておこう。私個人では入手できないものもけっこうある。専門古書店や古書展の目録で、レアな史料を入手して1本の「直言」ができることもある。特高警察関係の資料や、60年代の自衛隊の部内文書などは、特殊な古書店から入手した。一つひとつの「歴史グッズ」の入手経路や入手時の交渉など、思い出は尽きない。 

ナチス関係のグッズはいろいろあるが世界に1つしかない歴史的一回性の資料も少なくない。例えば、ナチスの親衛隊(SS)全国指導者のハインリヒ・ヒムラーが、処刑されたチェコの抵抗運動家の子どもたちの処置を委任した極秘文書もその一つだ。1999年のボン在外研究時、月に一度のライン川沿いのフリーマーケットにあらわれる怪しげな古物商から入手したものだ。違法性のあるものも大きな鞄のなかに忍ばせていて、私にパッ、パッと開いて見せては、顔色をうかがう。「やばいもの」は買わず、このヒムラー直筆の文書を入手した。

 三国同盟時の「ナチスちょうちん」はドイツの歴史専門の古書店(Antiquariat)のサイトで高額で落札したが、3.11」で研究室のグッズが崩落した際につぶれてしまった。愛媛県の業者に修理してもらい話題となった(『東京新聞』201363日付夕刊参照)。ちなみに、2021107日に首都圏直下型の震度5強の地震があった時は、グッズたちがかなり床に散らばったが、「ナチスちょうちん」は窓際に紐でぶら下げていたので無事だった。そのかわり、日光で色落ちしてナチスのマークが薄くなってしまった(;)

 独ソ戦の開戦75周年(20166月)にヴォルゴグラード(旧スターリングラード)に行って、郊外の戦場跡を取材した墓地の管理人から何でも持っていけといわれたので、ソ連兵の水筒をもらうことにした。それが直言「わが歴史グッズの話(38)最高「責任」者とスターリングラードの水筒」となった。

私の「歴史グッズ」で最も重要で、ここにしかないというのが、ナチスの暴力装置の「かけら」である。19885月に、作家の故・小田実氏が主宰する「日独平和フォーラム」に参加した際、ベルリンの旧プリンツ・アルブレヒト通り(現・ヴィルヘルム通り)にあるゲシュタポと親衛隊(SS)、親衛隊保安情報部(SD)の本部跡を訪れた。親衛隊本部などの瓦礫を山にして、これを「悪魔の山」と名づけ、見晴台まであった。「テロのトポグラフィー(地形学)」(Topographie des Terrors)という名の野外記念館になっていた。そこにあったレンガの一片を、管理者の許可を得て一つ入手したのがこの写真である。ドイツ統一後、この施設は大きく変貌し、周囲に散らばっていたレンガなどの「ナチスの残滓」は一つ残らず地中に埋められ、その上に立派な「テロのトポグラフィー・ドキュメントセンター」が建設された。もはやレンガの断片はどこにもなく、きれいに地下におさまっている。ナチスの「痕跡」はどこも、現代アートを使った「美しい」形に変容している。ここから徒歩15分ほどのT4(「安楽死」)作戦」の現場も同様である。

 

入手のための交渉と工夫

私自身が現場で交渉して入手したものも多い。例えば、ソ連製棒地雷米国製のボール爆弾(現代のクラスター弾)をどうやって入手したか。これは23年前の「直言」に経緯が書いてある。国外への持ち出しが禁止されているので、プノンペン大学教授の年収(当時)の3倍の輸送費をかけて何とか日本に向けて発送することができた。 

ドイツ国旗とワイヤーがついている「ベルリンの壁」の断片は、「わが歴史グッズ」のなかでも最重要のものである。ドイツ統一の5カ月後の19913、ベルリンのポツダム広場近くで、Bosch製ハンマードリルで「壁」を削っている黒ジャンパーの男と交渉して入手したものだ。私が「証拠写真」を撮影する際、ノミで削るポーズまでしてもらったので、その分の「演技料」をかなり上乗せさせられた。私が住んでいた旧東ベルリンはあまり治安がよくなかったので、この頃入手した旧東ドイツ・ソ連関係の「グッズ」のなかには、現場での際どい「交渉」で入手したものも少なくない。

 

   これは「ベルリンの壁」や旧東西ドイツ国境を警備していた東ドイツ国境警備隊の勤務マニュアルである。1991827日にウンター・デン・リンデン大通りを散歩中に、カール・リープクネヒト橋近くに出店を出していた男が、話してみると、実は失業中の国境警備兵だった。日本人とわかるといろいろ吹っかけてきた。トカレフの拳銃ケースを買うと、「実物もあるよ」と不気味な笑みを浮かべた。東の本や規程集のなかに、このマニュアルがあった。けっこうな値段だったが、私が注目したのは手書きの日付だ。加除式になっていて、新規程が施行されるとその日付に加えて、サインを入れるのだが、よく見ると、「1989111日」とある。「壁」崩壊の8日前である。彼はこれにサインした時、1週間あまりたって自分の仕事が消えることを想像しただろうか。
   歴史的遺物である「民主集中制」を憲法で定めて国民に強制する国家(旧東ドイツ憲法472項)のことを、私は「外見的立憲主義」ですらない「外皮的立憲主義」と呼んだが、それを支えたのが、そこから逃げる自国民を「少なくとも136 人」射殺した国境警備兵だった(「壁」の論理と結果については、現代の歴史展「壁―ドイツを貫く国境」参照)。
    なお、政党の組織原理を国家・社会に広げることを立憲主義の関係で論じた16年前の直言「立憲主義と民主集中制」も参照のこと。ドイツの左派党(Die Linke)がこの原理を放棄したことについては、直言「シュレーダー元首相は除名されなかった―ドイツ政党法と党員除名手続」を、リンクした40年前の拙稿とともにお読みいただきたい。


「歴史グッズ」、早稲田から転進

ある問題を論ずる際、そこにどんな「歴史グッズ」や写真が添えられるかで、文章を超える「想像の翼」を読者に提供できる。それが「直言」を書く際に私が重視することである。だから、どんなに高価でも、その「直言」にドンピシャの「グッズ」を入手しようと努力してきたわけである。

 そんな「歴史グッズ」が、一つ残らず早稲田の地を去った。私の「歴史グッズ」は、28年間、この地で私の講義を受けた学生たちの心のなかに生きている、と信じたい。同僚や教員室の歴代の職員の皆さん、私の研究室を訪れたすべての方々の心のなかにも。

 いま、段ボールのなかの「歴史グッズ」は、新たな公開の形を模索中である。整理や体系化もしなければならない。どのような形になるかわからないが、読者の皆さまのご提言やアイデアもいただきながら、旧日本軍の「転進」とは異なる、真の転進をめざしたいと思う。

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「アシアナから」:カブールの職業訓練施設の一少年

Dieses Spielzeug wurde aus der Aschiana-Schule,
Kabul geschickt.

――「アシアナから」――

2002年のカブールの職業訓練施設で一少年が作った木製玩具。
肉挽器の上から兵器を入れると鉛筆やシャベルなどに変わる。
「武具を文具へ」。
平和的転換への思いは、いつの時代も同じです。

「直言」2002年6月10日