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ドイツからの「直言」コーナー

連載「憲法研究者に対する執拗な論難に答える」はこちら
第一回第二回第三回第四回補遺(参考:立花隆『論駁』より))。


2019年11月11日

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月27日、ドイツ中部の旧東独地域のテューリンゲン州の州議会選挙が行われた(選挙結果を報ずる10月28日のZDFの“heute”)。州都はエアフルト。今年100周年を迎えたヴァイマル(ワイマール)憲法で有名な古都ヴァイマルや、ルターが新約聖書を翻訳したアイゼナハ、マルクス『ゴータ綱領批判』のゴータ、光学機器のカール・ツァイス社のあるイェーナなど、歴史と文化の州である。今年3つ目の州議会選挙で、他の2つ(ザクセンとブランデンブルク)と同様に、極右の「ドイツのための選択肢」(AfD)の躍進が注目された(パスカ(Paska)という村では得票率62.7%で圧勝した(選挙区の地図の右下のブルーの小さな枠をクリック!))。

選挙結果は、『南ドイツ新聞』によれば、左派党(Die Linke)が第1党で得票率31.0%、AfDは23.4%と得票を2倍にして第2党に躍進した。常に第1党の地位を占めてきた政権与党のキリスト教民主同盟(CDU)は21.7%と、州議会で初めて第3党に後退した。驚くべきは、CDUと連立を組む社会民主党(SPD)が8.2%と、一桁台に転落したことである。緑の党も後退して5.2%、自由民主党(FDP)は「5%条項」(足切り)スレスレの5.0005%の得票でかろうじて議席を確保した(「5%条項」自体の問題性についてはここから)。中央の連立政権の与党がCDU11.8%、SPD4.2%と票を減らした分がAfDに入ったとみられる。この州の政権の組み合わせが困難となり、現在の「赤・赤・緑」(左派党、SPD、緑の党)連立では過半数をとれず、他方で、すべての党がAfDとの連立を排除している。黒・黄・緑の国旗の「ジャマイカ連立」(CDU、FDP、緑の党)も過半数に及ばす、CDUとAfDの連立まで検討対象になっているようである。下手をすると、黒・赤・黄・緑の国旗の「ジンバブエ連立」(CDU、SPD、FDP、緑の党)になるかもしれない(11月9日現在)。

州政府の連立の組み合わせもままならないほどに、いま、ドイツの政治は混迷を深めている。とりわけ注目すべきは、連立与党のドイツ社会民主党(SPD)の得票率の激減である。ピーク時は42.7%を得票して政権を2度とり、最大野党として3割台をキープしてきた。ところが、このところの州議会選挙では緑の党とAfDにも抜かれて、第4党に転落している。

いったい、SPDはどうなってしまったのか。そこで想起されるのが、今からちょうど60年前の1959年11月15日、ライン河畔のボン、バート・ゴーデスベルク(Bad-Godesberg)で開かれたSPD臨時党大会で採択された原則綱領のことである。「バート・ゴーデスベルク綱領」(Godesberger Programm)として知られる。この綱領によって、SPDはマルクス主義と一線を画して、「階級政党」から「国民政党」への脱皮をはかった。その2年後の1961年総選挙では、綱領採択前の選挙の31.8%から36.2%へと得票を増大させた。1969年には42.7%を獲得して、FDPとの連立政権をつくった(1969年〜1974年ブラント政権)。1972年は45.8%で得票率はピークとなった(1974年〜1982年シュミット政権)。以後、3割台が続くが、1998年に40.5%を獲得して「緑の党」との連立政権をつくる(1998年〜2005年シュレーダー政権)。しかし、その後低迷を続ける。2005年からのメルケル政権に大連立の形で参加するなかで、SPDは独自性を失い、国民の支持を失っていった。ここで、少し歴史をさかのぼってみよう。

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1949年5月にドイツ連邦共和国(旧西独)が成立して、ドイツ基本法は今年制定70周年を迎えた。この写真は、基本法制定時、「SPD本部(Bad-Honnef)まで1キロ」という標識だが、その向こうには牛が放牧されている。首都となったボンはこういう田舎町であるというのを象徴する写真である。その「ボン基本法」制定からずっと、SPDは野党であり続けた。東西ドイツの統一を重視する立場をとり、北大西洋条約機構(NATO)などへの加入にも反対した。だが、現実には冷戦の進行により、リアリティを失っていった。コンラート・アデナウアー首相(CDU)の西ヨーロッパ統合外交への支持が強く、SPDの方針への支持は増えなかった。1953年の連邦議会選挙、1957年の連邦議会選挙でも連敗した。党員数も減り続け、1947年の87万人超から1950年代で58万人へと低下する一方だった。そこで、SPD内部において、新しい基本綱領の制定と党組織の改革への動きが生まれる。「バート・ゴーデスベルク綱領」に結実する戦後SPD内の思想的潮流として、「倫理的社会主義」と「自由な社会主義」が動き出す。

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安野正明『戦後ドイツ社会民主党史研究序説―組織改革とゴーデスベルク綱領への道』(ミネルヴァ書房、2004年)は、「バート・ゴーデスベルク綱領」に至るSPDの党内改革のダイナミズムを克明に描いていく。1950年代に落ち目のSPDの内部で、特に連邦議会議員団の間で、現実的な政策をとるべきとの意見が広まっていった。シュトゥットガルト党大会(1958年5月)以降、「西ドイツ基本法と民主主義国家としての西ドイツを肯定し、西ドイツは自分たちの国家であり、その形成と発展にSPDは責任を持つ」という立場が有力になっていく(安野305頁)。

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「シュトゥットガルト草案」のなかに「社会主義の基本価値」が入るのだが、当初は「自由」「公正」「連帯」「平和」「福祉」が記されていたが、「平和」と「福祉」が削られ、「自由」「公正」「連帯」の三価値のみが残り、社会主義の価値はヒューマニズムと古典哲学とキリスト教倫理に根ざすという方向が出てくる。これが「バート・ゴーデスベルク綱領」への基本思潮となっていく。1958年の核兵器反対運動に対して、SPD指導部は距離をとる。対ソ連、対東独の反共主義が背後にあった(安野297-298頁)。また、ヴァイマル期のSPDのように社会政策は重んずるが経済政策は二の次にするという方針はとらず、経済政策を重視する方向も打ち出された。

1959年11月15日、ボンのバート・ゴーデスベルクのシュタットハレ(会議場)において行われた党大会で、324対16の圧倒的多数で採択された(安野315頁、冒頭の大会の写真は安野314頁)。この綱領によって、SPDは1925年のハイデルベルク綱領を破棄して、階級闘争を正式に放棄した。これにより、SPDは階級政党から民主社会主義の国民政党への転換が図られ、やがて1969年のヴィリー・ブラントによる政権獲得にもつながっていく(なお、この写真は、ライン右岸のウンケル(Unkel)にあるブラント元首相の記念館である)。

かねてより「バート・ゴーデスベルク綱領」に注目しているのが憲法学者の樋口陽一である。樋口は『憲法と国家』(岩波新書、1999年)のなかで、「ゴーデスベルク綱領をどう読むか」という節を立てて、次のように書いている(22頁)。

・・・「国民政党への転換」としてとらえられた社会民主党のバート・ゴーデスベルク綱領(1959年)である。これを「社民の堕落」と非難する方も、反対に、「現実主義への転換」として持ち上げる方も、それを、もっぱら、パンと政権のための方策としてしかとらえなかったのではなかったか。つぎの文章を読みかえしてみれば、「パイの分け前の取り方」と「政権の取り方」という次元をこえた意味を、見てとらねばならなかったのではないか。

民主主義的社会主義は、ヨーロッパでのキリスト教倫理、人文主義と古典哲学に根ざしているが、窮極的真理を宣言しようとするものではない。それは、世界観や宗教的真理に対して無理解、無関心だからではなく、各人の信条上の決定に敬意を持つからであり、どんな政党も国家も、その内容には関与できないからである。ドイツ社会民主党は、精神の自由の政党である。それは、さまざまな思想信条を持つ人びとの共同体である。

樋口はこの綱領の理念に着目している。別の本で次のようにいう。「・・・日本の進歩派は当時、これを「労働者が資本に屈服した、けしからんことだ」と罵倒し、資本の側は「おまえたちも堅いことを言わないで、西ドイツを見習え」とほくそ笑んだ。両者とも労働運動の体制内化という一点に目を奪われて、自由と人権、人間の尊厳といういちばん肝心な部分を読み取れなかったということです。」(井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(岩波現代文庫、2014年)152-153頁。1993年5月6日の対談)。

さらに、樋口は上掲綱領を再び引用しつつ理論的な展開をする。

ソルボンヌの哲学講座の担当アラン・ルノーは、・・・今やsocial democracyではなくて、social liberalでなくてはならないと強調する。おそらく、social democracyからsocialという言葉をきちんと握ったうえで、liberalと結びつける、ということであろう。彼自身は、ふつうの常識的な意味で言うと、社会民主主義者なのである。

socialという言葉は手離さないが、それならいかなるsocialなのか。ここであらためて、かの西ドイツのバート・ゴーデスベルク綱領を読み返すことは無駄でないのではないか。「民主主義的社会主義は、ヨーロッパでのキリスト教倫理、フマニスムス〔ヒューマニズム〕と古典哲学に根ざしているが、究極的真理を宣言しようとするものではない。それは、だからといって世界観や宗教的真理に対する無理解や無関心によるのではなく、人間の信条上の決定への敬意によるのであるが、どんな政党、どんな国も、その内容には関与し得ないと考えるからである。ドイツ社会民主主義は、精神の自由の政党である。それは、様々な思想信条を持つ人々のゲマインシャフトである」。

・・・ドイツ社会民主党ないしドイツの政治が、その後、ここに書いてあるとおりのことを行ってきたか、それはまた別問題である。しかし、このような理念を掲げたそのことが、まさにsocial liberalの中身だったはずであろう。

(樋口陽一「憲法にとっての経済秩序─規範形式と規範内容からみて」『企業と法創造』6巻4号(2010年)19頁)。

「バート・ゴーデスベルク綱領」から60年。SPDは各級選挙で敗退を続け、冒頭で紹介した直近の選挙で、一桁台の得票率という惨状も生まれている。ここからいかに抜け出すか。まずは、大連立政権にとどまるという惰性によって、独自性と存在理由を失っていった事実を直視すべきだろう。「バート・ゴーデスベルク綱領」によって現実路線に転換したとされるが、それは60年もの間に思考の惰性に陥ってきたのではないか。かつては二大政党制に近かったドイツも、いまでは「多党制」が進んでいる。そうしたなかで、樋口陽一が紹介するルノーの「social democracyではなくて、social liberal」という切り口をどう活かし、具体化するかが課題だろう。日本に引きつけていえば、末期症状を呈してはじめた安倍政権に変わる「対抗軸」をいかにして打ち出すか。私は60年前の「バート・ゴーデスベルク綱領」の原点の確認に意味があるように思う。

冒頭左の写真は、ライン右岸ケーニヒスヴィンター上のドラヘンブルク城から見たバート・ゴーデスベルク(左側)である。思えば、私が20年前の1999年3月に、ここに住み始めた時の「直言」では、到着早々に始まったNATO軍によるユーゴスラヴィア爆撃について次のように指摘している。

「・・・ここはドイツ社会民主党(SPD)の歴史を知る者には、歴史的な意味をもつ場所だ。「バート・ゴーデスベルク綱領」。1959年にこの地で開かれた党大会で、SPDは現実路線に転換。NATOや連邦軍を認め、政権参加への道に踏み出した。あれから40年。そのSPDと「緑の党」の連立政権のもとで、ドイツが「ヨーロッパの戦争」に参加することになるとは。・・・」

その17年後の2016年3月に再びバート・ゴーデスベルクに住み始めた時の直言「17年で変わったこと、変わらないこと―ドイツからの「直言」(1)」では、難民問題をめぐる複雑な状況について触れている。

さて、新入生・学生に配布される法学部報『Themis(テミス)』38号(2019年4月1日)に原稿を依頼された。同僚3人とともに、「記憶に残る街への思い」を綴った(『テミス』にリンク)。私はバート・ゴーデスベルクについて書いた。今回の「直言」のおまけとして、それを下記に転載する。

「あの街の記」――バート・ゴーデスベルク(ドイツ・ボン近郊)
水島朝穂

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二度の在外研究(1999〜2000年、2016年半期)で1年6カ月生活し、その後も渡独のたびに訪れている。帝政時代の別荘地で、19世紀末からの古い建物が並ぶ。かつては政府機関や大使館として使われた。ベルリンへの首都移転(1999年)後も、リビア大使館の一部などが残っている。庭のすぐ前に小川(Godesberger Bach)が流れていて、そのせせらぎと鳥のさえずり、マグノリアの大木には、たまにリスも登っていく。ライン川沿いの道を散歩するのが日課で、季節の花々の変化が楽しい。当時16歳だった娘を、ボン・インターナショナルスクールに通わせた。私は車で送り迎えする「アッシー君」(もはや死語か)をやった。その娘も、いまや2人の子どもの親となり、PTAの役員もやっている。妻と二度目の滞在をした時は、娘が孫を連れて2週間ここに滞在。ドイツの子どもたちとも遊んだ。

この街は、ドイツ社会民主党(SPD)の歴史を知る者には、重要な意味をもつ。「バート・ゴーデスベルク綱領」である。1959年11月にここで開かれた党大会で、SPDはマルクス主義と決別。国民政党として「現実路線」に転換し、NATOや連邦軍を認め、政権参加への道に踏み出した。あれから今年で60年。そのSPDも、政党支持率で極右「ドイツのための選択肢」(AfD)の後塵を拝するという迷走ぶりである。かつて外交官の家族が買い物をしていた街の中心部はアラブ系が多く、全身をブルカで覆った女性も見かける。かつて首都の面影はなく、難民問題で苦悶するドイツを象徴する街になっていた。でも、私と家族にとって、ここでのトラブルを含めて、すべてが人生を豊かにしてくれた。なお、詳しくは、http://www.asaho.com/の「ドイツからの直言」(2016年4月4日)を参照されたい。

《付記》本文中の安野正明氏は、私が広島大学総合科学部在職中の同僚であり、研究室も同じ階にあった。個人的には彼の結婚式の司会をしたこともある。2012年に急逝された。56歳だった。広島大時代、私はベルリンに在外研究したが、早稲田にきてボンとの縁が深くなるなかで、ボンにこだわる安野氏ともっと語りたかった。今回、彼の単著を研究室で見つけて再読した。改めて哀悼の意を表したい。
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「アシアナから」:カブールの職業訓練施設の一少年

Dieses Spielzeug wurde aus der Aschiana-Schule,
Kabul geschickt.

――「アシアナから」――

2002年のカブールの職業訓練施設で一少年が作った木製玩具。
肉挽器の上から兵器を入れると鉛筆やシャベルなどに変わる。
「武具を文具へ」。
平和的転換への思いは、いつの時代も同じです。

「直言」2002年6月10日