「非正規」が歪めた社会――1995年財界報告書起草者の弁明
2023年8月21日



「京王線ジョーカー事件」から2

王線は70年間、私にとっての生活路線である。20013月のダイヤ改正では、わざわざ「直言」1本を使っているほどである(直言「あるダイヤ改正のこと」)。最寄り駅が府中競馬正門前駅にリンクしているため、競馬開催時には特急が停車する(直言「競馬法28条への疑問」)。

調布駅で特急に乗り換えて、大学に通勤している。20211031日、その車内でとんでもない事件が起きた。調布を出発してまもなく、次の布田駅と国領駅の中間あたりで、「ジョーカー」の格好をした24歳のH(犯行時24歳)が、目の前に座る72歳の男性の右胸を刃物で刺し、ペットボトル容器に入れてきたライター用オイルを撒いて着火して、12人の乗客を負傷させたのである。英国BBCは「京王線「ジョーカー」事件」として報じた。下の写真は、英国の大衆紙 The Sunのデジタル版、もう一つはインドの新聞 Hindustan Timesのデジタル版のそれぞれ10月31日付である。前者の見出しは激しい。

Hは殺人未遂罪や放火罪などで起訴された。特急は、調布を出ると明大前駅までの13分間は途中停車がなく、完全密室となる(事件後の2022年春のダイヤ改正で一駅増)。そのことは折り込み済みだったようだ。計画的な犯行で社会的影響も大きいことなどから、2023年731日、東京地裁立川支部は懲役23年の判決を言い渡した。

Hは福岡市内のコールセンターで働いていたが、「顧客トラブル」で退職。元交際相手の結婚や、職場から異動を命じられたことで自殺願望を抱いていた。「死刑になりたかった」として、202186日に小田急線の車内で起きた刺傷事件にヒントを得て、電車内での放火殺人を計画したという(81日付各紙)。

  

小田急線の事件では、元派遣社員のT(犯行時36歳)が乗客を包丁で襲った。女子学生は重傷。Tは殺人未遂罪等で起訴され、714日、東京地裁で懲役19年の判決を受けた。Tは大学を中退後、派遣社員として職を転々として、その間、「勝ち組の女性」への「恨み」を増大させていったという(各紙報道より)。ともに先月判決が出ているが、両者に共通しているのは非正規雇用で、自らの不遇を不特定の人々への殺意に転化している点とされる。だが、行為と動機の間には、あまりに飛躍がある。
    「希望は、戦争」 で知られるフリーター・赤木智弘「京王線事件に思う」(論座アーカイブ)は、「どうして仕事や人間関係に失敗した程度のことで、こんな無差別殺人を考えるまでになったのだろうか?」と問い、「「その程度のことで、人がここまで追い込まれる社会になってしまった…」と、僕は思う」と、社会のあり方を問題にする。「今の20代は自己責任論隆盛のなかで社会を学んできた世代…。それまで自分たちがバカにしていた状況に自分自身が落ち込みかねないという現実を直視しなければならない。だから、今の若者が貧困に陥る自身の姿を自覚することは、氷河期世代の僕たちよりもはるかに辛いはずである。…事件を起こした24歳の男は「仕事に失敗したくらいで」と言える社会を、一度も経験していないのである。仕事に失敗し、自分の目の前のレールから逸れてしまえばそれでおしまい。レールのスペアは存在しない。彼らが認識しているのはそんな社会なのである」。

こんな社会に誰がしたのか。思えば、15年前に同じような事件が起きていた。200868日の秋葉原無差別殺傷事件である。

 

秋葉原事件から15年――「こんな社会に誰がした?」

「報われない努力は、人の心を蝕みます」という言葉を書き込んで、Kは秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んでいった。7人殺害、10人重軽傷。犯行時25歳の派遣社員だった(直言「人間使い捨て時代を問う・パート2 )15年前のこの事件の背景として、労働者派遣法についてこう書いた。「不足人材の迅速調達や、特定のスキルをもった即戦力人材の確保、コスト削減効果を狙ったが、結局、コスト削減が一人歩きしていく。99年の法改正で派遣が原則自由化。03年改正では製造業にも拡大され、派遣は雇用の世界に無原則に広がっていった。」「雇用分野の規制緩和は、非正規雇用を37.6%(総務省2006年統計調査)にまで押し上げた。非正規雇用は、短期性(労働力の切り売り)、間接・補助性(やりがいを削ぐ)、有期性(明日が不安)などの特徴をもつ。先が見えないまま、ゆとりなく、追い立てられるように働かされる。…」

その前年、篠原涼子主演のドラマ『ハケンの品格』(日本テレビ系列、2007年)が話題となった(直言「人間使い捨て時代を問う」参照)。当時はまだ「スーパー・ハケン」の主人公に溜飲を下げる空気があったかもしれないが、今は映画『ジョーカー』の理不尽さである。冒頭のグラフを見れば明らかなように、いま、非正規雇用は4割に近づいている。そのような雇用のあり方は、結婚できない人々を増やしている。非正規雇用の拡大と年収、未婚率との間には、明らかな相関関係がある。少子化の根っこにある問題である。

 

非正規拡大を提言した財界報告書――「1100万人」

冒頭の記事は『東京新聞』2023227日付の1面である。非正規雇用の拡大を提言した報告書「新時代の日本的経営」(1995)をまとめた日経連(現経団連)元常務理事・成瀬健生氏(89歳)に同紙が独自にインタビューしたものである。
 報告書は、終身雇用や年功賃金を中心とする日本的雇用の見直しを提言し、急激な円高や不況を受け、人件費を抑えるのを目的に3種類の雇用を組み合わせる「雇用ポートフォリオ」の導入を企業に促した。(1)正社員に当たる「長期蓄積能力活用型」、(2)専門能力を生かす「高度専門能力活用型」、(3)現在の非正規労働者に当たる「雇用柔軟型」である。結局、契約社員や派遣ら非正規を「雇用柔軟型」という名称で位置づけることで、企業が人件費抑制の方向に活用することを「柔軟」にしたといえるだろう。

報告書の公表後、非正規雇用が増え続けているのがわかるだろう。1995年は1001万人と雇用者の20.9%だったのが、2022年には2101万人と36.9%になった。同期間に正規雇用は191万人減り、非正規は1100万人増えた。報告書作成時の非正規は高齢者や主婦などが中心で、「増えても雇用者の2025%」と考えていたが、今のように非正規が家計の柱となる働き方を想定しておらず、「今ほど増えるとは思わなかった」と成瀬氏は振り返る。
  報告書はもともと、正規の賃金を23割下げることを意図していたが、「はっきりとは書けなかった」という。2021年実績でみると、非正規の賃金は正規より3割以上低い。景気が好転すれば、経営者が非正規を正規として雇用する「復元」が起きるとも思っていたが、実際にはそうはならず、非正規の一層の拡大につながった。
   成瀬氏は、「私が日経連でお付き合いした経営者はもっと人間を大事にしていた。今はお金だけためて人間を育てることを忘れてしまった」「人間が大事、従業員が大事だという感覚を思い出してほしい」といっている。

   この報告書を書いた成瀬氏の弁明を見ていると、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」という言葉を想起してしまう。成瀬氏は、正規賃金を23割下げるという狙いから雇用形態に踏み込んだ。景気が好転すれば正規雇用が「復元」するというが、働く人々の生活を景気の調整弁として「活用」したわけで、ご自身が本当に「人間が大事、従業員が大事」と思っていたのか疑わしい。1100万人のユダヤ人を抹殺するための輸送計画と、1100万人も非正規雇用を増やしてしまった結果責任とを比較するというわけではないが、働く人々の正規の職場を「抹殺」することに寄与したことは間違いない。まさに「職の安全」を脅かしたのである(直言「「職の安全」も問われている」 )。ともあれ、非正規雇用の途方もない拡大の責任の一端を担ってしまったという忸怩たる思いから、30年近くたったいま、新聞のインタビューに応じたと信じたい。

秋葉原事件のKは昨年726日に死刑が執行され、「京王線ジョーカー」は懲役23年の一審判決に対して控訴せず、814日に判決は確定した


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