人間使い捨て時代を問う  2007年3月12日

社員と派遣社員の確執を軸に職場の人間模様を描く、何とも今ふうのドラマが今週の水曜日に終了する。「ハケンの品格」(日本テレビ系列)。1月10日から始まり、3月14日が最終回である。「北の国から」など、倉本聰脚本のものを除けば、滅多にドラマはみないのだが、このドラマは例外だった。哲学者の鶴見俊輔氏も「はじめから全部見てる…」といい、主人公に、20歳の頃の自分を重ねていると語っている(『論座』2007年4月号)。「鶴見氏もみているとは!」で、「10へぇ」だった。
  番組関係のホームページによると、篠原涼子演ずる「大前春子」(34歳)。丸の内の食品会社に3カ月契約で、時給3000円で雇われている「スーパー派遣」。契約したこと以外はいっさいしない。外での付き合いから日常会話まで。これが小気味いいほどに徹底している。上記ホームページにある「春子の履歴書」にはこうある。「特技:教えません。趣味:絶対に教えません。資格:多くて書けませんが何か? 健康状態:余計なお世話です。自分の長所:雇えばわかります…」。上司もびびってしまう迫力だ。調理師、助産婦、ロシア語会話、犬訓練士、剣道4段等々、26種類の資格を持つ。正社員があっけにとられる見せ場が毎回出てきて、視聴者はそこで溜飲を下げてしまう。

  脇役では、「主任」役の小泉孝太郎がいい。小泉は、上司と部下の板挟みになる「悩める正社員」をよく演じている。大泉洋とのかけあいもコミカルで、シニカルで、時に泣かせる。もはや「前首相の息子」といわせない存在感が出てきた。「感動したぁ!」とか、思わず笑ってしまうセリフも仕込まれている。そもそも「構造改革」で雇用の規制緩和をやって、派遣社員を増やした張本人の息子が、その仕組みを悩ましく思う役を演ずる設定それ自体が「仕掛け」かもしれない。ともあれ、「派遣さん」にやさしい小泉と、厳しい大泉を対照的に扱い、最終的に二人の「主任」もまた、会社のなかでは単なるコマにすぎないことを描き、奥行きを与えている。
  「派遣社員」の差別、悲哀、不条理…と、ネガティヴに流れそうなテーマにもかかわらず、なかなか味のあるドラマに仕上がった。第9回で、加藤あい演ずる「ダメ派遣さん」が、「あと3週間で契約が終わりだと思うと、仕事に手がつかない」と語るところは、実感がこもっていた。せっかく職場になじみ、一緒にがんばってきたプロジェクトが成功に向かう。やりがいも感じはじめ、職場における人間的信頼もようやく築けたところで、ハイさようなら。このドラマでは、正社員も派遣もみんな同じ人間であるという目線がキープされているので、この一言は印象深く響く。情けは無用、3カ月で次の職場へ、という大前春子が、最終回、どのような心境を吐露するか。

  それにしても、この国の雇用環境は激変した。終身雇用、年功序列、企業内組合といった伝統的な形態が崩れ、契約社員、派遣社員、アルバイトなどの非正規雇用者が増加している。総務省が3月2日に発表した労働力調査結果(06年平均) によれば、雇用者(5088万人) に占める「非正規社員・職員」の割合は33.0%(1677万人) となり、02年の調査開始以来、最高を更新したという。 3人に 1人が非正規雇用である。年収は、男性の場合、正規は500〜699万が21.5%と最も多く、非正規は199万円以下が56.8%と過半数を占める(『読売新聞』3月3日付)。

  法的には、1986年に「労働者派遣事業法」が施行されたことに始まる(2004年3月1日改正法施行)。この制度発足の趣旨は、@不足人材の迅速な調達、A特定のスキルをもった即戦力人材の確保、Bコスト削減効果、の3点だった。@Aは一定の合理性があるように思える。実際、特定スキルと経験を活かし、専門的業務を担って、正社員より高い収入を得ている人々もいる。だが、単純業務に携わる派遣労働者を、単にBの観点から雇っている企業も多い。
  派遣労働者は、派遣事業主との雇用関係を維持したまま、他の使用者の指揮命令を受けて働く。だから、ドラマ「ハケンの品格」でも、派遣事業主が食品会社を訪れ、派遣労働者の契約を継続してもらえるよう頼むシーンが出てくる。
  雇用関係が複雑化するにつれて、職場の環境も変わり、矛盾のありようも複雑化していく。結局、雇われている者どうしが反目しあう仕組みは、企業の経営者にとっては矛盾の拡散効果が期待できるというわけだろう。

  「経営者は過労死するまで働けなんて言いませんからね。過労死を含めて、これは自己管理だと思います」(『週刊東洋経済』2006年1月13日号)。こういうことを堂々という経営者もあらわれた。人材派遣会社社長の奥谷禮子氏。「祝日もいっさいなくすべきです」「労働基準監督署も不要です」「『残業が多ぎる。不当だ』と思えば、労働者が訴えれば民法で済む」等々。まるで、労働法が誕生する前の、19世紀のあこぎな経営者のような物言いである。
  「ホワイトカラー・エグゼンプション」なんて、最近まではほとんど使われなかった言葉が一瞬浮上し、選挙が近いことを理由に一時潜行した。いずれまた出てくるだろうが、労働組合も野党も弱い国でこういうシステムを導入すれば、過労死と残業代削減の効果しか生まないことは容易に想像できる。
  非正規雇用関係の法律については、厚生労働省のサイトで読むことができる。また、「美しい国」や「希望の国」について語る政財界のトップの話にもううんざりしているのでコメントしない。とにもかくにも、やりがいのある仕事、やる気の出る、働きがいのある職場というものをどうやって生みだすか。世の中は、いま、やりがいを奪い、やる気をそぐような施策ばかりである。能率性、効率性、採算性が一人歩きして、職場では「人間」が働いているのだということが忘れられている。
  なお、このドラマについて、派遣社員をチェックする派遣社員をやっている知人の感想はちょっと違っていた。彼は、ハケンの「品格」と持ち上げることで派遣社員も捨てたもんじゃないと自尊心を錯覚させ、労働法制の規制緩和を助長させるのではないかという感想だった。
  「戦うスーパー派遣OL」。そのベクトルが、正社員や上司ではなく、もっと大きく、もっと構造的なものに向かうなら、また違った「ドラマ」になるかもしれない。というわけで、今回は、昨年末に発表した原稿を添付して、上記の議論に関連させて、先生から先生まで「使い捨て」にされる時代について考えてみよう。

 

使い捨てにされる「先生」たち

 ◆先生、先生、それは先生〜♪

  「先生と言われる程の馬鹿でなし」という川柳がある。世に先生と呼ばれる人々の何と多いことか。嬌声をあげ、狭い歩道を十数名の男女が歩いてくる。かなり酔っていることは、遠目にもわかる。一人の中年女性が「まあっ、先生ったらぁ」と、若い男性にしなだれかかると、「ちょっと先生、まずいですよぉ」と男性がたじろぐ。「一見極めて明白に」学校関係者の飲み会とわかる。お互いに「先生」「先生」と呼びあっている。傍目にみて、何ともおかしい。学校内で子どもたちに「先生」と呼ばれるのはいいとしても、同僚同士で外に出てきたときくらい、「○○さん」と呼びあえないものか。
  私の職場では、お互いを「さん」付けで呼ぶ場面が多い。ちなみに、私たちは自分では「学者」とはいわない。「研究者」という。「憲法学者です」と自分でいう人はいない。「憲法研究者です」が普通である。「さすがに学者ですね」というように、「学者」とは自分でいうものでなく、人にいわれるものである。同様に、自分で自分のことを「先生」とはいわない。「先生」もまた、人にいわれる敬称である。

 ◆大学の「先生」もいろいろ

  ところで、大学の「先生」の世界も複雑である。私の職場には、さまざまな「早稲田の先生」がいる。伝統的には、専任教員と非常勤講師の2種類だった。専任教員は教授、助教授、専任講師、教諭(高等学院)の4種類である。いまは、この4つに非常勤講師を加え、特任教授、専任扱いの客員教員(教授、助教授、講師)、非常勤扱いの客員教員(教授、助教授、講師)、助手(1項、2項)、客員研究助手、客員講師(インストラクター)というように、賃金形態の違いで16種類にもなった。
  数年前から、教授会の議を経ない、理事会任命の「特命教授」というのが新設され、有名映画監督とか某国の元大統領なんて人たちがなっている。彼らは大学教員ではないが、英語名はUniversity Professorである。マスコミや審議会などで「早大教授」の肩書を使っている人のなかには、厳密にいうと大学教員ではない「早稲田の先生」もいるわけである。なお、07年4月から助教授は准教授になり、「助教」(任期制の講師)が加わる。何がなんだか、である。
  大学教員の雇用形態がなぜ、かくも複雑化したか。一方で、学問の多様化や大学の多機能化がいわれている。他方、官民どこでも共通だが、人件費削減、経費削減の動きが背後にある。
  私は2001年度の早大教員組合書記長を務め、春闘団交や教育研究団交などを仕切った経験があるので、そのあたりの事情は理解している。5年前までは、「教員諸制度問題」というのがあって、独自に団体交渉をもっていた。例えば、定年(70歳)までの5年間、いろいろなタイプの勤務形態を選択して、その分、賃金を減らすという提案があった。「老教授」1人で、若い講師を何人も雇えるという発想である。経営者的な観点からすれば、そういう選択肢もあるだろう。だが、学生と向き合う大学教員は機械ではない。教授1人分で講師3人を雇ったからといって、教育効果が3倍になるわけではない。
  教員の任期制というのも、競争力を高め、怠惰な教員を駆逐する効果があるといわれるが、研究や教育の現場というものはそう簡単ではない。「士気」(モラール)の低下は、研究や教育の中身にも確実に反映する。
  いま、労働法制の規制緩和で、派遣社員や契約社員などの非正規雇用者が増大している。「働くこと、生きること」という言葉の向こうには、生活の糧を得るということだけでなく、「働きがい」「働く喜び」が人間に「生き甲斐」を与えるということがある。「労働のダンピング」という表現もあるように、「働くこと」の本質があまりに過小評価される傾きはないか。働くことへの士気(モラール)を下げる施策があまりにも多い。大学でも「先生の使い捨て」はすでに始まっている。

 ◆使い捨ての政治家「先生」

  政治家も「先生」と呼ばれる。半ば皮肉も込めて。この「先生」たちは、選挙の洗礼を受けて「先生」になるのだが、落選すれば「ただの人」といわれる。憲法は、国会の「先生」たちについて、「全国民の代表」としている(43条)。小選挙区だろうが、比例区だろうが、トップ当選だろうが最下位だろうが、「復活当選」だろうが、政党所属だろうと無所属だろうと、「地元のために」といって、「どぶ板」的公約しか訴えなかったとしても、当選さえすれば、全員がまったく等しく、「全国民の代表」となるのである。そのため、「先生」たちには、「法律の定める場合〔注・現行犯の場合(国会法33条)〕を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない」という不逮捕特権がある(憲法50条)。また、院外における「発言・表決の無責任」を保障した「免責特権」もある(51条)。
  小泉前首相は、11月7日、「小泉チルドレン」と呼ばれた1年生議員を前にして、「政治家は常に、使い捨てにされることを覚悟しなければならない」と吠えたという(『朝日新聞』2006年11月8日付)。「人生いろいろ」など、人を脱力させる発言を繰り返してきた「小泉節、健在なり」と笑ってはいられない。
  昨年〔2005年〕の「9.11」総選挙とは一体、何だったのか。参議院が特定法案を否決したので、衆議院を解散する。そして、法案に反対した議員の選挙区に「刺客」を立てる。総選挙に圧勝して、参議院を法案賛成に変えさせる。まさに参院への強要である。「使い捨て」にされたのは議員だけではなかった。私は「憲法政治への『刺客』」と書いた(本誌2005年11月号)
  昨年〔2005年〕の「9.11」総選挙以来、国会の風景は一変した。郵政民営化に反対した議員たちは処分され、無所属席に追いやられた。国会正面に陣取った「小泉チルドレン」は、小泉首相の演説に過度に反応し、野党議員の発言に激しい野次をとばす。公認権や政党助成金配分権をもつ自民党執行部の権限はますます強くなり、「物言えば唇寒し」の状況が与党内に生まれた。
  安倍内閣が成立して、経済問題はそっちのけで、憲法改正、教育基本法、集団的自衛権、核保有、防衛「省」昇格など、きな臭いテーマばかりが先行している。本来ならば、自民党内でもさまざまに議論のあり得る政治問題でも、シャンシャンと決まっていく。そして、参院選挙を前に、復党問題である。「使い捨て先生たち」は、必死に復党を阻止しようとするが、足元を見られたものである。「全国民の代表」「選良」といった言葉が泣く。国会議員は全員が任期制だが、非常勤議員、派遣議員、契約議員などの形ができるかもしれない。これは冗談。そうしたなか、小泉氏に便乗する武部勤自民党前幹事長が、またもやってくれた。彼は小泉発言を受けてこういった。「自民党も安倍新首相もあっという間に使い捨てにされる」(『朝日新聞』11月15日付)。使い捨て首相。使い捨て幹事長か。責任ある地位にある人々の言葉の荒れが目立つ。

(2006年11月23日脱稿)

〔「水島朝穂の同時代を診る」連載第25回
国公労連「調査時報」529号(2007年1月号)所収〕

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