

運転免許証を「返納」した
雑談シリーズをアップする。前回は直言「雑談(151)八ヶ岳南麓の仕事場を閉じる―19年の「時間」」だった。66歳になった時から「終活」を始めたが(直言「雑談(119)「断捨離」と「終活」」参照)、今回は、私のドライバーとしての終幕について書くことにしたい。73歳と6カ月になる今月で、運転免許証を自主返納した。法的には、「本人の申請による運転免許の取消し」を受けたことになる。
10月8日、府中運転免許試験場に赴き、道路交通法第104条の4第2項に基づく免許の取消しの手続を行った。同時に運転経歴証明書を申請し、運転免許証と番号も形状も同じカードを受け取った。ただし、その表面には赤字で「自動車等の運転はできません」と記されている。これで、私はもうハンドルを握ることができない。
一抹の寂しさはある。自分では、まだ十分に運転できると思っている。しかし、家族の強い勧めもあり、運転をやめる決断をした。判断力や反応速度が衰えても、人はその変化を必ずしも自覚できるとは限らない。「まだ運転できる」と思い込み、そのまま運転を続けてしまう。そして重大な事故を起こしてからでは取り返しがつかない。だからこそ、まだ運転できる今の自分が、将来の自分を先回りして縛ることにしたのである。
これは「プリコミットメント(precommitment)」の一例として理解することができるかもしれない。プリコミットメントとは、将来、自分の判断が変化したり、合理的な選択ができなくなったりする可能性を見越して、現在の自分があらかじめ将来の行動を制約しておくことをいう。古代ギリシャ神話で、オデュッセウスがセイレーンの誘惑の歌に惑わされて船を座礁させないよう、あらかじめ自らの身体を帆柱に縛り付けさせたというあれである(憲法学との関係では、愛敬浩二『改憲問題』(筑摩新書、2006年)第4章「憲法とプリコミットメント」など参照)。運転免許の自主返納も、それに似ている。将来、「まだ大丈夫だ」「もう少し運転できる」と思う日が来るかもしれない。しかし、そのときの判断が本当に信頼できるとは限らない。だから、より冷静に判断できる今日の自分が、未来の自分の自由をあえて制限しておくのである。こういった屁理屈を並べながら、他の高齢者から見れば必ずしも長いとはいえない44年というドライバー人生に区切りをつけた。
北海道就職の直前に免許をとる
私は運転免許証をとるのが少し遅かった。学生時代も大学院生時代も車は必要なかったからである。28歳になったとき、「そろそろ就職に必要かな」と思って、近所の自動車教習所に通い始めた。いまも忘れないが、仮免になって路上教習に入るという段になって、北海道の大学から就職の話がきた。
1983年に30歳で大学助教授になった。住んだのは札幌郡広島町(1996年の市制移行で北広島市)だった。車はスバル車で、初代「ジャスティ」4WDを運転した。通勤に使ったのは道道214号(江別・恵庭線、現在は道道46号)である。信号機のないまっすぐの道を走って大学に通った。非常勤講師をしていた岩見沢の駒澤大学北海道教養部(1999年に廃止)にも毎週通ったが、猛吹雪(ホワイトアウト)のなかで立ち往生したこともあった。36歳で広島大学に移ってからもスバル車を運転した。かなり危うい場面に遭遇しながらも、12年間、北海道と中四国の各地を車でまわった(直言「雑談(102) 焼き切れたタイヤキャップの思い出」参照)。
42歳で早稲田に教授として戻ってきた。生まれ育った府中の自宅から28年間、大学へは電車で通勤したが、2006年に八ヶ岳に仕事場をもってからは、中央自動車道を頻繁に使った。東京ではもっぱら日産車で、プリメーラやエクストレイル、デュアリスなどに乗り続けた。高齢になってからはジューク、そして最後はオーラだった。すんでのところで笹子トンネル事故(2012年12月)に巻き込まれずにすみ、ドライバー人生を終えることができた。
旧ソ連の車を運転する――ドイツ統一の半年後に
ここからはドイツでの運転について書くことにしよう。ドイツには通算で2年3カ月滞在した。
初めて車を運転したのは、ドイツ統一から間もない1991年2月から半年あまり滞在した旧東ベルリンだった。関係者がすでに亡くなっていることから、初めて明かす話である。
私が滞在した中心部のアパートは、冷戦時代、日本のあるメディアの東ベルリン特派員の住宅だった。家主の女性(50代後半)は旧東ドイツ国家保安省(シュタージ)の正規職員(hauptamtliche Mitarbeiterin)で、そのメディアの東ベルリン支局の現地助手もしていた。週1度の部屋の掃除込みで家賃が決まっていたから、個人情報もその女性を通じてシュタージに筒抜けだったようである。「ベルリンの壁」崩壊後、この事実が判明して助手を解雇され、当然「社宅」の契約も解除された。収入を絶たれた彼女に、1988年5月に日独平和フォーラムで知り合った芦沢宏生氏(故人) が私との契約をもちかけ、快諾を得たものである。芦沢氏は冷戦時代にフンボルト大学に留学し、旧東の「裏通り」にも精通しておられた。シュタージの監視対象として記録されている日本人の一人とご自身でいっておられた。その芦沢氏から彼女に関する事情を聞いていたので、住み始めた当初は、週に一度、掃除にくる彼女への応対には気をつかった。そのあたりのリアルなやりとりを、『法学セミナー』1991年6月号「ベルリン発緊急レポート」①の70頁で書いている。
さて、ここからが本論である。家主の女性は上記の事情で「失業」したといっていたが、5月頃になるとコンピューターの研修を受け、どこかの事業所で仕事を始めたと笑顔で語るようになった。7月のある日、彼女がドライブをしないかと持ちかけてきた。よく知られているように、旧東ドイツでは、庶民は「トラバント」と、少し上のランクの「ヴァルトブルク」くらいしか運転できなかった。統一から間もない時期である。すでに通りにはベンツやBMW、フォルクスヴァーゲン(VW)などの西の車が走っていたが、彼女は「ヴァルトブルク」に乗ってくると思っていた。
カール・リープクネヒト通り9番地のアパート前の歩道(35年ぶりの2026年3月の私)で待っていると、彼女が車で颯爽と登場した。それが冒頭の写真の赤い車、旧ソ連製「ラーダ・サマーラ」(Lada Samara)VAZ-2108(1984年)だった。私の想定は大きく外れ、驚いていると、彼女は笑顔で、統一前はそれなりの収入をもらっていたのよと自慢げに語った。なるほど、西ドイツと違って、東はソ連と同様、住居も車も、買い物をするデパートまでも、「党」との関係で決まるのだということを改めて知った。
50キロほど郊外に走ると、森のなかの彼女の「ダーチャ」に着いた。これは旧ソ連圏で普及した「菜園付きのセカンドハウス(週末住宅)」で、660平米の広さがあるのに、賃料は年間100マルク(当時の西ドイツマルクでも6万5000円)程度だという。彼女は、外国メディアの情報を得るという実質的な「公務員」だったわけで、車を含め、さまざまな特権を享受していたわけである。「今年中[1991年]に統一による移行措置が終了して、来年にはすべて失う」と彼女は暗い顔になった。でも、すぐに「運転してみるか」と笑顔でいってきたので、私は喜んで「ラーダ・サマーラ」に乗り込み、ハンドルを握った。日本で国際免許証をとってきていたが、「外車」の運転は初めてだった。
ソ連の車の運転も、もちろん初体験である。クラッチの踏み込みが深すぎて、何度もエンストして笑われた。しかも、左ハンドルで、ギアの操作は右手でやる。慣れるまで大変だった。右左折のときにウィンカー(方向指示器)を動かしたつもりで、ワイパーを動かしてしまうミスは、「外車」を運転して誰もが最初にやるミスであるが、私は何度もやってさらに笑われた。
8月になって、10日間の予定で家族が広島からやってきた。この時は、列車で西のニュルンベルクまで行き、そこでレンタカーを借りて、ローテンブルクやノイシュヴァンシュタイン城、ヴュルツブルク、ミュンヘンなど、8歳と12歳の子どもたちが喜ぶ、「観光地としてのドイツ」をまわった。借りたのはフォルクスヴァーゲン(VW)ゴルフ。地図だけを頼りにバイエルン州を約500キロ走った。

ドイツで運転免許をとり、中古オペルを買う
1999年から2000年まで1年間、ボン大学で在外研究をしたときは、妻とともにドイツの運転免許証(Führerschein) を取得した(直言「番外編(4) ナンバープレートの話」)。EUマークや透かし模様が美しいカード型だった。
ボンでは、バート・ゴーデスベルク の研究者用住宅(フンボルト財団)で1年間を過ごしたので、オペル「ベクトラA」(1990年製)の中古車を購入した。冒頭の写真は、ライン川の前で撮影したもので、川向こうの小高い丘にある白い建物はケーニスヴィンターのペータースベルク城(当時、政府迎賓館) である。コソボ紛争の最終和平案もここで決められた。
1999年6月に講演のためデュッセルドルフを訪れた奥島孝康早大総長(当時) と現地で会ったが、フランス留学中に免許をとったことや、ヨーロッパ各地を走り回った際の「武勇伝」をたくさん聞かされた。ボンにあった早稲田大学ヨーロッパセンター長をやった西原春夫元総長も、ボン滞在時、紺色のアウディ(Audi)で10万キロは走ったと語っておられた。
レンタカーが便利――チェコ車やアメ車も
2016年の早稲田大学での二度目の在外研究(半年) の際には、1999年の時の住宅から通り2つ隔てたところに住んだ。半年なので、電車とバスを中心にして、必要に応じてレンタカーを使うことにした。ネットの発達で予約から返却まで実に便利になっていた。
7月にはフランスのヴェルダンやルクセンブルクなどをVW「ゴルフ」で700キロ走った。ベルギーへは気分を変えて電車でいったが。
8月には国内便を使い、ドレスデン空港からレンタカーでライプツィヒ、ヴァイマル、ハルツ山麓のヴェルニゲローデなど、1175キロをまわった。この時はVWを予約したのに、空港で待っていたのはチェコ製の「シュコダ」という車だった。もともとチェコを代表する自動車メーカーだったが、社会主義体制崩壊後の1991年にVWの傘下に入った。けっこうよく走ったが、アウトバーンでの加速がいま一つだった。

なお、2020年に南西ドイツの旅行を計画したが、コロナ禍に入ってしまい、中止した。

ドイツで4万1607キロを走る――ドイツの運転免許証のこと
というわけで、2018年の北ドイツの旅が私の人生にとって、車を使った外国の旅としては最後のものとなった。1991年から2018年まで、合計4万1607キロを走ったことになる。地球一周は、赤道上で4万75キロなので、地球を一周以上したことになる。長く外国に滞在されている方から見れば短い距離かもしれないが、まわった場所の記憶をからめると、わが人生に悔いなし、である。
ここで日本の免許証の更新の制度について述べる。44年間に何度も更新に通い、長い列に並んできた。先週8日に府中運転免許試験場に「免許返納」に出向き、前回まで私も並んだ更新者の列を眺めていた。金髪の若い女性から私より高齢の人まで、映画スターだろうと大会社の社長だろうと、ここだけはみんな平等である。そして会話がほとんどない。みんな黙って並んでいる。こんな平等な行列は他にあまりないだろう。返納者は「みどりの窓口」で、椅子に座って順番を待つ。ここで考えたのは、ドイツの免許証に更新がなかったことがこの26年間(実際は18年間)、実にありがたかったということである。私は、ドイツやポーランドで、警察官にも「堂々と」この免許証を提示してきた。
ドイツの運転免許関連の法令では、免許取得時の居住地が重要な要件とされている。1999年に実際にドイツで生活し、ボン市に住民登録もして、正式な運転免許証の切替手続を経て取得したわけである。では、私が2000年に帰国した時点でドイツの免許証は失効したのだろうかといえば、そうではない。ドイツでは、運転免許の資格(Fahrerlaubnis)と、その資格を証明する免許証(Führerschein)とが区別されている。したがって、日本に帰国してドイツの住民登録が抹消されただけで、取得済みの運転資格が自動的に失効するわけではない。ドイツの運転免許証は、ドイツ国内に住み続けることを有効要件としているわけではないからである。ただ、ドイツでも「免許証更新」のような制度が新たに始まり、1999年交付のカード型免許証は、今年、2026年1月19日までに、新しいEU様式の免許証へ交換する必要があることを知った(運転免許規則FeV BGBl 2019, 222)。私は日本の免許証の「返納」を考えていたし、家族からドイツでは絶対に運転しないでといわれていたので、ドイツの免許証は「わが歴史グッズ」の一部となった。
ドイツでの交通違反のこと
最後に、ドイツでの交通違反について述べておこう。1999-2000年の滞在時は駐車違反3回と追い越し禁止違反1回、2016年滞在時のスピード違反1回である。駐車違反2回については30ドイツマルク(約2000円)の過料をボン市に支払ったが、ポツダム市の場合はちょっと「思い出」がある。
1995年6月から7月にかけて、広島県中小企業家同友会の経営者の方々を案内してベルリン・ポツダムを訪れたが、その際、1945年7月のポツダム会談で トルーマン米大統領が滞在していた邸宅(Truman-Villa(Haus))も訪れた。その時の写真がこれである。1999年にここを再び訪れたのだが、様子がおかしい。工事中で立ち入り禁止だった。事情を聞こうと車を門の斜め前に停め、敷地に入った。その時の写真がこれである。現在の所有者は、自由民主党(FDP)系のフリードリヒ・ナウマン財団と書かれていた。1998年にこの建物を取得して、財団本部にするためリニュアル中という説明書きがあった。中を見たいというと、工事中と断られた。その間、5、6分。車に戻ると、駐車禁止の紙がワイパーにはさんであった。周囲を見回しても誰もいない。というわけで、ボンに戻ってからポツダム市に30マルクを振り込んだ。駐車違反はこの「思い出」を含めて3回だけである。
もう一つは「はみ出し通行禁止違反」。1999年8月19日、アウシュヴィッツ強制収容所からの帰途、片側1車線のポーランドの田舎町の道路で、オポーレ警察のパトカーに検挙され、その場で100ズローチ(約3200円)を支払わされた。その経緯は、直言「ポーランド危行」をお読みいただきたい。まったく不当な取り締まりだった。
スピード違反は1回だけ。2016年7月14日夜、忘れもしない。フランスのヴェルダンに行った帰り、近くに泊まろうとホテルに入ったところ、テレビのニュースが大騒ぎになっていた。南部のニースでテロ事件があり、65人が死亡したという。直言「ヴェルダンで考える」の付記で書いてあるように、オランド大統領は「緊急事態」を延長して、国境地帯の警備を厳重にするという。国境が閉鎖になるかもしれないという情報も流れ、今夜のうちにルクセンブルクに抜けようと決め、急いで車を走らせた。田舎道でクネクネしていたが、けっこうなスピードを出してしまった。国境を越えようと気が急いたからだろう。ルクセンブルク側に入ってホッとしたのも束の間、突然、ピカッと赤い閃光がした。「やられた」と思った。ボンに戻ってしばらくして、ルクセンブルク警察当局から違反金の納付書類が届いた。49ユーロ。クレジットカード決済でルクセンブルクに5644円(当時のレートで)を納めた、と手帳にある。11月末になって、今度はレンタカー会社からの封書が、ボンから東京の自宅に転送されてきた。貸した車が違反をしたので、私の情報を当局に教えたりした手数料として14.5ユーロを払えというものだった。これはドイツの知人に頼んで処理したが、交通違反へのペナルティはどこまでも追いかけてくる。改めて手帳や過去のメールをみて、対応をしたときの気持ちなどを思い出していた。
免許証を「返納」して車をもはや運転できなくなった寂しさから、過去の思い出をたくさん書いて、今回は自分を納得させる「雑談」にしました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
《付記》 7年前に、1年ゼミ(導入演習)で学生が選んだテーマは興味深かった。下記の「直言」で書いていたので付記する。この時、私は、それでも80歳までは運転するぞ、という気持ちで議論に参加していたのを思い出す。
「…たまたま7月4日の1年ゼミ(導入演習)で学生が報告・討論したのが、「高齢者運転免許返納」問題だった。1年ゼミ生たちは、高齢者に運転免許返納義務を課すことに賛成か、反対かについて、それぞれの理由と根拠を示して議論していた。最終的に意見は割れたが、返納義務化に賛成がわずかに上回った。66歳の「前期高齢者」の私としては、高齢者に一律の返納義務を課すことには批判的だったが、学生たちの議論にはもっともなところもあり、自分の問題としてかなり考えさせられた。…」(直言「逆走をいかに止めるか―憲法政治の「幽霊ドライバー」(その2)」より)。




