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今週の「直言」

2026年5月25日

ベルリンSバーンのS-1系統(ヴァンゼー~オラニエンブルク)の暗示

ルリン訪問記を再開する。第1回はイラン戦争とドイツ、第2回は旧東ドイツのシュタージ(国家保安省)の問題について書いた。ベルリン滞在とは直接関係ないが、ドイツが掃海艇を派遣する動きが出てきたので、これについても触れた。今回は連載の第3回として、ドイツにおける「過去の克服」の現場を一緒に見て回った孫の晃樹の感想を紹介しつつ、この問題の最近の動きについて書くことにしよう。

 ベルリンの鉄道路線図は非常に細かく、充実している。Sバーン(都市近郊鉄道)とUバーン(地下鉄)を中心として、これにバスと旧東地区のトラム(路面電車)が加わる。これまでのベルリン滞在では、駅でもらう紙の路線図をすり切れるまで使った。しかし、今回はもっぱらベルリン市交通局のアプリのお世話になった。

  Berlin City Tour Cardはベルリン市(州)だけでなく、隣接するブランデンブルク州にもいけるABCタイプを購入した。ポツダム宣言で有名なポツダム市と、ザクセンハウゼン強制収容所のあるオラニエンブルク市を訪れる予定にしていたからである。

ヴァンゼー会議とは
  3月30日朝早く、SバーンのS-1系統に乗り、終点のオラニエンブルク駅まで行った。駅に着くと、乗ってきた電車が行く先表示板を変更した。思わず写真に撮っていた(冒頭の写真参照)。このS-1の南の始発駅はヴァンゼー(Wannsee)である。ポツダム駅の2つ手前の駅で、この名前を聞くと、歴史知識のある人ならすぐに顔を曇らせる。映画『ヒトラーのための虐殺会議』(ドイツ、2022年)で日本でも知られるようになった地名であるからだ(予告編はここから)。

 1942年1月20日、ベルリンの近郊、ヴァンゼー湖畔にある邸宅で、ナチ親衛隊(SS)幹部と各省事務次官計15人(8人が博士号をもつ)が集まり、ある会議が開かれた。議題は「ユダヤ人問題の最終的解決(Endlösung)」について。「最終的解決」とは、ヨーロッパにおいて、1100万ものユダヤ人を組織的、計画的に抹殺することを意味するコード名だった。

 ヴァンゼーは2016年6月10日に訪れ、直言「ヴァンゼー会議の75周年―トランプ政権発足の日に」で詳しく書いたので参照されたい。後に、直言「ドイツ憲法史における「つまずきの石」とヴァンゼー会議」)では、この映画についてもコメントしている。

 オラニエンブルクは、昨年アマゾンプライムでみた映画『関心領域』(米英、ポーランド、2023年)の後半に出てくる。この映画はアウシュビッツ強制収容所に隣接している所長ルドルフ・ヘス(副総統のHeßとは別人のHöß)の邸宅における家族の生活に焦点をあてた作品だ。塀の向こうで行われる凄惨な大量虐殺とは無縁の、豊かな生活の日常が淡々と描かれる。映画の後半、ヘスがオラニエンブルクに単身赴任する話になる。そこにある「強制収容所査察部(IKL)」の副責任者への栄転である。しかし、妻はアウシュビッツの所長邸宅の快適さから、そこに残ると言い張る。この映画では、妻の発想と言動が一番恐ろしい。また、残酷な映像はほとんど出ないが、塀の向こうから聞こえてくる「音」が不気味である(アカデミー賞の音響賞を受賞)。

    映画には雪のオラニエンブルクが出てくるが、今回訪れたのは、そこにあるザクセンハウゼン強制収容所である。SバーンのS-1系統「ヴァンゼー発オラニエンブルク行き」という行き先表示にこだわって写真に撮ったのは、まさに強制収容所システムの計画・立案、管理・統制の全過程を暗示する象徴的な地名だったからである。



ザクセンハウゼン強制収容所へ

  入口にある鉄製の門には、「働けば自由になる」(Arbeit macht frei)という標語が刻まれている(冒頭の写真参照)。しかし、これは最も白々しい嘘の表示である。一度入れば、再び生きて出られる保証はない。右の写真は、監視塔A(Turm A)である。

 左の写真は収容所博物館で配られるパンフだが、この施設全体の形が三角形をしていて、正面の監視塔Aから全体が見渡せるようになっていることがわかる。『監獄の誕生』で有名なフランスの哲学者、ミシェル・フーコーのいう「パノプティコン」(一望監視装置)である。この三角形のなかにバラックを並べていくと、効果的に収容者を監視できる設計だ。各国の刑務所や拘置所の形にもこれが応用されているところが少なくない。

 ザクセンハウゼンは、アウシュヴィッツ=ビルケナウのような「絶滅収容所」ではなく、ナチ体制に都合の悪い人物を拘束し、強制労働をさせることを主眼としていたが、病気と栄養失調で死者は絶えず、虐殺も行われた。ダッハウブーヘンヴァルトノイエンガンメなども同様のタイプだった。マウトハウゼンのように「労働による絶滅(Vernichtung durch Arbeit)」を狙ったところもあった。

  ザクセンハウゼンでも大量虐殺が実行されていた。1941年秋、独ソ戦でのソ連軍捕虜、約1万3000人を、「効率的殺害」として、わずか2カ月半で「処理」し終えた。殺害は、左側上の方に見える「ステーションZ」で行われた。「後頭部への銃撃」(Genickschuss)と呼ばれる方法は、医師による健康診断を装って、捕虜を測定室に連れて行き、壁の測定器の前に立たせ、背後から銃で後頭部を撃ち抜くというもの。遺体を処理する焼却炉も建設された。この「ステーションZ」では、ナチ抵抗運動の活動家や、良心的兵役拒否者、また、特別裁判所で有罪判決を受けた者も殺された。実際に何人が殺されたのかは、史料の紛失・焼失などにより正確にはわからないとされている。

     収容所の左奥にあるおぞましい建物に入った。親衛隊(SS)の医師らによって残虐な人体実験が繰り返された場所だ。中毒症状の治療の名目で、意図的に毒ガスを浴びせたり、結核や肝炎などの病原菌を注入して経過観察をしたり、傷口を細菌に感染させて、抗生物質の効果をみたり…。この建物には白いタイル張りの解剖台が2つ並んでいた。実験や解剖の際に出る大量の血液を水で洗い流しやすくするためのもので、それを晃樹に説明すると顔色が変わった。彼はしばらく英語の説明を眺めていたが、体が硬直したように動かない。私が地下の遺体を重ねて置いていたところまで降りようとした時には、晃樹の体は無意識に外に向かっていた。


戦後5年間、ソ連が強制収容所を再利用

 あまり知られていないが、この収容所は戦後すぐにソ連の「第7特別収容所」として衣替えして使われた。ナチ親衛隊からソ連内務人民委員部(NKWD)に管理が移され、焼却炉と殺害施設以外のすべての施設が再利用された。1950年までの5年間で、「反ソ的な人物」や「政治犯」が6万人収容されていた。 ここで1万2000人が栄養失調と病気で命を落としたとされる。

   ドイツ統一後、この収容所の「もう一つの過去」について調査が始まった。当時、旧東ベルリンに滞在していた私は、地元新聞に「ソ連時代の集団埋葬地発見」のニュースを見つけ、ここを訪れた。まだ展示の準備も十分でなく、紙に「1945~1950年のザクセンハウゼン」と書いたものが貼られていた。そのことを、拙稿「ベルリン発・緊急レポート③ドイツ統一から半年、「二つの過去」の克服」(『法学セミナー』1991年8月号)で紹介した。35年も前のことである。

    今回、晃樹と2001年に建てられた展示棟と、当時のままの石造りの兵舎2棟を利用した博物館を見て回った(写真参照)。この特別収容所の歴史と収容者たちの運命を記録しており、手紙や日記などが中心だった。集団墓地と記念碑も博物館の先にある。 

  ベルリンに戻って、親衛隊やゲシュタポの本部跡に行こうと思っていたが、晃樹は相当打ちのめされたようだったので、早めにホテルにもどることにした。この続きは、次回に書くことにしよう。

 なお、晃樹がスマホに書き留めていたメモを使って、この収容所についての感想を書いてくれたので紹介する。


                   祖父と歩いた強制収容所

渡邉晃樹(16歳)

    中3の最後の春休み、祖父とドイツのベルリンに行った。この夏、ボン近郊に住む祖父の友人の家に1カ月ホームステイをさせてもらうことになっていたので、事前にドイツの歴史などを学ぶのはどうかと提案してくれたのだ。私は、6歳のときに訪れたボンが頭にあり、穏やかなドイツを想像していた。しかし、ベルリンは違った。 

 空港からタクシーに乗ったが、運転手はクルド難民で2016年にドイツに来たという女性だった。シリアから大変な思いをしてドイツにきたと、車内で話してくれた。着く早々に、難民・移民をドイツが受け入れて、働いている現状を勉強することになった。

 ベルリンの東の中心部にあるホテルに着いた。そこで目にしたのは、ボンとはまるで違う。ビルが多く、色彩も単調で、壁には落書きも多い。いかにも都会で、いろいろな人種の人たちが集まっている。正直私は穏やかなドイツを想像していたので少し驚いた。ホテルには8泊したが、同じメニューの朝食をたっぷり食べて、夜はスーパーマーケットで買い物をして、部屋で食べた。スーパーには毎日行ったので、いろいろ発見があった。魚は塩漬けされたものが多かった。寒かったので、一人でウィンドブレーカーを選んで買った。だんだん慣れてきたが、とにかく祖父がいろいろと怖いところに連れていってくれるのだ。

 一番印象的だったのは、ザクセンハウゼン強制収容所だった。とにかく広い。そこでは人間がやったとは思えない、残酷で許され難いことが行われていた。私はある程度歴史の授業で強制収容所のことは学んでいたが、実際に訪れてみるとより現実味が増し、ショックを受けた。収容所で私が感じたのは、人間の残酷さと、人間を差別する愚かさだ。

 祖父が黙って小さな建物に入っていく。白い色の部屋が何に使われていたのか分からなかったが、英語の説明を見て、段々とこの部屋に居たくないという気持ちになった。そこでは、人間が生体解剖されていたのだ。同じ人間が行ったとは思えない愚行に衝撃を受けた。わたしはその頃、ゾンビゲームにハマっていたが、これと重ねることはよくないとは思うが、この生体解剖の部屋を見てしまったので、プレイすることに抵抗を感じた。

 また、死体を燃やす焼却炉のところでは、祖父が、「この煙突から人間を燃やした煙が出ていたんだ。そしてその煙のことを収容所の外の人たちは知らないふりをしながら過ごしていた」というのを聞いて、どれだけ人間の悪い部分が出てくるのかと怒りを覚えた。その愚行を行う人たちは一番罪深いが、それを見て見ぬふりをする人たちも罪深いと思った。でも、私がその時代、この場所の近くに住んでいたら、自分の身を守るため私も見て見ぬふりをしてしまうと思う。これが人間であり、自分もその1人であることに少し嫌気がさしてきた。

    国際情勢がすごく不安だ。今私が思うのは、どんな社会になっても、心の中では今行われていることに疑問を持つことが大切だということだ。この旅で知ったことを、これからもいろいろと調べて、考えていきたいと思っている。

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「アシアナから」:カブールの職業訓練施設の一少年

Dieses Spielzeug wurde aus der Aschiana-Schule,
Kabul geschickt.

――「アシアナから」――

2002年のカブールの職業訓練施設で一少年が作った木製玩具。
肉挽器の上から兵器を入れると鉛筆やシャベルなどに変わる。
「武具を文具へ」。
平和的転換への思いは、いつの時代も同じです。
詳しくは、直言「わが歴史グッズのはなし(6)アフガニスタン」参照

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