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今週の「直言」

2026年6月8日


ゲシュタポ本部跡を訪れる

クセンハウゼン強制収容所で強い衝撃を受けた孫・晃樹を連れて、翌日、ベルリンの旧プリンツ・アルブレヒト通り(現在のニーダーキルヒナー通り)8番地に向かった。そこにあるのが、「テロのトポグラフィー資料センター」である。到着すると、観光客や学校の研修で訪れた生徒たちの姿が見えた。ここは、秘密国家警察、ゲシュタポ(Geheime Staatspolizei)の本部跡にあたる。隣の9番地には、親衛隊全国指導部(Reichsführung‑SS)が置かれ、両者はSS関連関係の機関とともに、国家テロ装置の中枢を形成していた。屋外に残る遺構、ゲシュタポの地下留置場跡などは、いまなお生々しい。資料センターに入り、この場所のおぞましい歴史を語ると、晃樹はさらに黙ってしまった。
     この写真は、「ベルリンの壁」崩壊の1年半前の1988年5月、「日独平和フォーラム」(作家・小田実主催)に参加してこの場所を訪れた際、当時、まだ広い敷地内に散らばっていた建物の破片を、許可を得て持ち帰ったものだ。その経緯は、直言「わが歴史グッズの話(53)研究室の転進に寄せて」の中ほどを参照されたい。

ベルリン・フィルハーモニー近くの「T4作戦」の現場

    雨が降ってきたので、タクシーで日本大使館前の「ヒロシマ通り」に向かう。この通りの実現に奔走したハインツ・シュミットについても、晃樹にいろいろと話した

    そうこうしているうちに暗くなってきたので、そのままタクシーでフィルハーモニーホールに向かった。ここを本拠地とするベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はザルツブルク音楽祭だったので、ちょうど日程が合うベルリン・ドイツ交響楽団(DSO:旧・ベルリン放送交響楽団)のコンサートを日本で予約しておいたのだ。指揮ケント・ナガノ、ピアノ藤田真央でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番ハ短調、ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界」である。晃樹は外国のオーケストラは初めてなので、このプログラムが彼にはぴったりだと考えたからだ。だが、冒頭に、サミー・ムーサという若い作曲家の「管弦楽のための新作」(世界初演)が入っていたのには、予約時には気づいていなかった。一度聴いただけなので何ともいえないが、ベルリンでの世界初演に立ち会えたのはラッキーだった。客席にいた作曲者が舞台に招かれ、大きな拍手を受けていた。この写真は「新世界」終演後である

    コンサートが終わると,外は22時過ぎで真っ暗だった。雨はやんでいたが、晃樹には音楽の余韻を大事にしてほしかったので、ホールのすぐ右側にある「T4記念碑」には行かないことにした(写真はこのサイトから)。これとは逆方向に進み、ポツダム広場駅に向かった。

実はベルリン・フィルハーモニーの前はティアガルテン通り4番地である。ティアガルテンのTをとって、ナチ時代、ここに「T4中央事務所(Zentraldienststelle T4)」があって、「T4作戦(Aktion T4)」を実施していた。これは、障害者や精神病患者の組織的な大量安楽死(殺害)である。歪んだ優生思想に基づき、「生きるに値しない命」と見なされた障害者を抹殺する。少なくとも7万人が殺害された。ユダヤ人かどうかは問われなかった。同性愛者なども殺害された。詳しくは、直言「ナチスが迫害したのはユダヤ人だけではなかった」を参照のこと。


焚書記念碑とホロコースト記念碑

    話は前後するが、ベルリンに着いた翌日の3月26日、ちょうどベルリンに来ておられたラインハルト・ツェルナー教授(ボン大学)と再会した。ツェルナー教授には、2016年の在外研究の際に受入れ教授となっていただいた経緯があり、また、妻がバスの車内検札で無賃乗車を疑われるという「事件」に巻き込まれた際にも、大変お世話になった(直言「ドイツで「冤罪事件」に巻き込まれる―車内検札制度の盲点」参照)。

アレクサンダー広場からブランデンブルク門まで、ツェルナー教授と晃樹と3人で「歴史散歩」に出かけた。私の知らないさまざまな建物や、見過ごしてきた小さな記念碑などについても、晃樹に丁寧に説明していただき、大変ありがたかった。

フンボルト大学中央キャンパスに面したベーベル広場(Bebelplatz)に行く。そこの法学部(旧大学図書館)前の石畳に埋め込まれている記念碑である(左の写真)。1933年5月10日、この場所でナチスに同調する学生たちが、ユダヤ系の本、「非ドイツ的」とされた本など2万冊以上の書物を焼却した。「焚書」である。記念碑の右側にはその簡単な経緯が書かれ、左側には、ハインリヒ・ハイネの警句が彫り込まれている。「本を焼くところでは、やがて人間も焼かれるようになる」と。

 その後、ブランデンブルク門を左折して、旅行ガイドにも出ている「ホロコースト記念碑」に着いた。正確には、「ヨーロッパで殺害されたユダヤ人のための記念碑」という。学校の歴史授業の一環なのだろうか、教師に引率された生徒のグループが何組も見学していた。石の塊の間にある資料センターは、1月から4月末まで改装のため閉館していた。ツェルナー教授と3人で、記念碑のなかでいろいろと話し合った。晃樹の質問も受けていただいた。

     ここは実に悩ましい場所である。その悩ましさについて、私は21年前に直言「ベルリンの「壁」から「石碑」へ」で批判的に書いた。この記念碑を設置するにあたっては、意見の対立があったからである。

私がボンで在外研究中の1999年6月25日、連邦議会は5回にわたる記名投票を行い、最終的に党議拘束を外した投票の結果、この記念碑の慰霊対象を「欧州ユダヤ人」に限定することを決定した。賛成312、反対207、棄権13。4割の議員が賛成しなかったという事実を知っている人は少ないだろう。

なぜ、こんなにも反対が出たか。ナチスは、ロマやシンティといったいわゆるジプシーや、同性愛者、障害者も殺していたので、そうした犠牲者もすべて含めるべきだという意見も有力だったからである。だが、最終的に、ユダヤ人の虐殺(ホロコースト)は他のジェノサイドや虐殺とは別格なのだという主張が通ってしまった。

     このホロコースト記念碑への違和感を、私は1991年に東ベルリンに滞在していた頃からもっていた。当時、私は『ベルリン新聞』でそれをめぐる議論をずっと読んでいた。その内容は、ブランデンブルク門の横の巨大な米国大使館、その横の超一等地を統一後どのように活用するかであった。そして、前述のように、1999年のボン滞在中に、連邦議会で、ホロコースト記念碑とすることが最終決定されたわけである。

   ところで、1月27日は「アウシュヴィッツ解放の日」(ソ連軍による)である。ドイツでは1996年以降、この日を「国家的追悼の日」(ナチズム犠牲者追悼の日)としている。2000年1月27日、ボンからベルリンに移った連邦議会で、大統領や首相、両院議長などが参加して、ホロコースト記念碑の建設着手のための記念式典が開かれた。忘れもしない。翌日の各紙を読んでいると、その式典にベルリン市長(E.ディープゲン、CDU)が欠席したという記事が出ていたのである。彼は「ベルリンにはこれ以上、巨大な記念碑は必要ない」という意見だったので、新聞には欠席理由は「議会上の日程」とあったが、実際には、抗議のための欠席と私はみていた。ベルリン市(州)議会の本会議は1809年以来、隔週の木曜日が伝統とされ、2000年1月27日は木曜日だった。本会議が当日開かれたのかは確認できていない。いずれにしても、地元ベルリンのトップが、このホロコースト記念碑に否定的な態度をとっていたことはずっと記憶している。

    今までここに何度も足を運んだが、今回、晃樹と訪れ、違和感はさらに大きくなっていった。理由は、ドイツ政府のイスラエルへの武器援助などと関係する。イスラエルのガザ地区に対する暴虐は目を覆うものがある。南アフリカは、イスラエルがジェノサイド行為を行っていると国際司法裁判所(ICJ)に提訴した(2023年12月)。ICJは、イスラエルに対しジェノサイド条約違反の防止と証拠保全の仮保全措置を命じた(2024年1月)。ドイツ政府はこの南アフリカの訴えを事実無根として非難し、イスラエルへの武器援助を続けている。2025年9月、国連人権理事会の独立調査委員会がイスラエルがガザ地区でジェノサイドをしてきたと認定する報告書を公表したが、ドイツ政府はこれに反対した。国際社会がガザ地区における暴虐を非難するなかで、ドイツ政府のイスラエル擁護は変わらない。背景には、ドイツがイスラエルの「存立権」をドイツの「国是」(「国家理性」)としていることがある。

    ユダヤ人虐殺をめぐっては論争が繰り広げられてきた。80年代後半の「歴史家論争」では、ユルゲン・ハーバーマスがホロコーストの「唯一性」と「比較不可能性」を主張した。スターリン主義と並べて論ずるのは、ホロコーストの相対化につながるという立場である。そして、21世紀の「歴史家論争2.0」は、植民地責任とポスト・コロニアリズムを絡めた議論で、フェイズは異なる。こうした歴史論争も背景に、慰霊と追悼の対象を「欧州ユダヤ人の犠牲者」に限局化する姿勢は変わっていない。

    また、ドイツのイスラエル擁護は、イスラエル批判の言論や運動などに対する激しい抑圧としてもあらわれている。「反・反ユダヤ主義」は、冷戦時代における「反共主義」と同じような役回りを果たしているといわれている(以上について、詳しくは、浅田進史他編著『岐路に立つドイツの「過去の克服」』(大月書店、2026年)参照)。

ところで、私のいう真正の「ならずもの国家」イスラエルをドイツが擁護・援助・支援し続けた結果は無残だった。先週の水曜日、6月3日の国連総会において、ドイツは国連の非常任理事国の選挙で落選した。トランプ政権への曖昧な態度やイスラエル支持が多くの国の反発をかったようだ。『ディ・ツァイト』5日付は、1976年以来最低の支持率をグラフにした(上の写真参照)。国際社会においてドイツを支持し、ドイツに投票する国は、かつては9割を超えていたが、先週、わずか5割台に凋落したのである。かなり強引に国連総会議長のポストを得た好戦主義者のベーアボック(緑の党、元ドイツ外相)は、オーストリア代表団が非常任理事国当選の喜びを爆発させているのを見ながら、ドイツ落選の投票結果を読み上げている。彼女の悔しそうな表情はこの画面からはうかがえない。なお、直言「イスラエル批判は「反ユダヤ主義」なのか―ドイツ政府の異様なイスラエル擁護の背景」参照のこと。


ベルリン五輪の現場へ――100年目の2036年はあるか?

     晃樹はサッカーが大好きで、部活もやっていた。今回のベルリン旅行では、彼の希望で、ベルリンを本拠地とするサッカーチーム「ヘルタ・ベルリン(Hertha BSC)」のホームスタジアムを訪れることを日程に含めていた。晃樹と違って、サッカーを含むスポーツ観戦一般に関心が薄い私としては、この日程は晃樹のためだけと思っていたら、あの歴史的なベルリン五輪のオリンピックスタジアム(Olympiastadion Berlin)であることに気づいた。1936年の五輪用に建設され、戦後、改築・改装を繰り返し、現在は約74000人以上を収容可能で、2006年W杯決勝やEURO 2024の会場にもなった(直言「W杯ドイツ大会と連邦軍」参照)。

     ここに入るには左側ゲートのセキュリティを通るのだが、たまたま小さなゲートに立っていた警備員に、正面に見えるヘルタ公式ファンショップで買い物するだけといって中に入れてもらった。晃樹は目を輝かせて、ショップに向かい、本人のお小遣いだけでは到底足りない買い物をしていた(汗)。運よくショップからスタジアムに入れるようになっていて、それで内部を撮影したのがこの写真である。正規の出口から外に向かった際に、セキュリティ担当者が「こいつらどこから入ったのか」というような怪訝な顔をしていたが、何も言ってこなかった。老人と孫の組み合わせは警戒感を下げてくれたようだ。

      帰国後、5月21日にベルリン市(州)議会(Abgeordnetenhaus)は、オリンピック招致計画を承認した。これにより、ベルリン市は正式に国内選考に臨むことになった。議会が承認した目標年は2036年、2040年、2044年で、これから開催時期と開催都市が決まる。2036年は、ヒトラー政権下のベルリン五輪から100年という象徴的な意味を持つ年になるため、どうなるかは未定である。前述のように、国連総会でドイツの信頼度が下がっている状況では、「2036年ベルリン五輪」というのは生々しすぎるので、まず無理ではないかと私は見ている。ハンブルクが住民の反対が強くて脱落したので、二度目のミュンヘンか、ケルン(ライン=ルール地域)になるか。連邦大統領がここへきてベルリン2036年開催に前向きに転じたという報道(『ベルリン新聞』6月7日)もあり、今後の展開は微妙である。




ネットでナチ党員検索ができるようになった――狙いは何か

    ベルリンから帰国した4日後、高級週刊紙『ディ・ツァイト』が、ナチ党(NSDAP)の党員名簿をデジタル化して公開した。中央名簿(姓名順)の450万件に加え、大管区別党員名簿(地方(Gau)ごとに整理された名簿)の820万件の記録も直接検索できるようにデータベースが拡張された。

    ナチ党員であるかどうかは、それまでは連邦公文書館への照会によるのがもっぱらだった。米国立公文書館は、ナチ党員名簿のマイクロフィルム複写をオンラインで公開しているものの、そこで個々の⼈物を⾒つけることは困難だった。『ディ・ツァイト』紙のチームは、操作が簡単で検索精度の高い調査ツールの開発に取り組み、米国国立公文書館が公開した党員名簿のデータを用いて、この仕組みを実現した。

読者の反響はすさまじく、公開から数日で、検索ツールへのアクセス数は数百万回に達したという。また、このデータベースで初めて親族の名前を見つけたという読者から、数千通ものメッセージが届いた。多くが驚き、先祖が党員だったという事実に衝撃を受けていたという。戦後80年が経過した今も、多くの読者がこの検索エンジンを使って、家族の歴史を調べようとしていることに驚かされたと書いている。

このデータベースに名前が見つからなかったからといって、ナチ党員でなかったということにはならない。約100万人の党員に関する情報が失われているからである。中央ファイルでは、特に「Fa」から「G」までのアルファベット区分間、および「Ka」から「O」までの間に大きな空白が生じている。また、地域別では、ウィーンやザルツブルクなどに欠落がある。

  検索の窓をご覧いただきたい。何と誘導的なことか。例としてすでに書き込まれているのは、「カール・シュミット」(Karl Schmidt)である。これで検索すると、画家や音楽教師など50人がヒットした。しかし、私が入れたのは「カール・シュミット」(Carl Schmitt)である。著名な国法学者で、政治の本質を「友と敵の区別」に求め、「例外状態では主権者が決断する」と主張した。自由主義や議会制民主主義を批判し、ナチ政権に協力した点でも知られる。同姓同名が19人いる。建築技師や測量技師などが並ぶ。生年で絞り込み、大学教授という肩書と、1888年7月11日という生年月日で確定した。彼は、1933年5月1日に入党していた。ヒトラーの政権獲得後すぐである。党員番号は2098860番。顔写真もある。

    もう一人、ナチ党員として知られる指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン。「帝王」を名乗らせてきた、私が嫌いなこの「大指揮者」を早速検索してみた。何と、KaからOまでは資料の欠損、またウィーンやザルツブルクのファイルは破棄されていた。カラヤンはこの2つに該当するので、彼の党員記録はヒットしなかった。偶然とはいえ、その運のよさに驚くばかりである。

  他方、まさかという思いで、私の知り合いの名前も入力してみた。例えば、尊敬するヘルムート・リッダー教授。左派的な論客と見られていた彼もナチ党員だった。1919年7月18日生まれ。入党は1938年9月1日。党員番号は7005084。19歳の学生のときである。

 15年間、私にベルリンから新聞切り抜きを送り続けてくれたハインツ・シュミットも検索してみた。50人も同姓同名がいたが、生年で検索してみると、ヒットした。入党は1940年9月1日。党員番号は7845272。年齢は18歳、彼が学生の時だった。生前彼はこのことを一切私にいわなかった。


 グラフを見れば明らかなように、1937年頃から党員数は急増しており、「根こそぎ動員」ならぬ「根こそぎ党員」の方針が実施されていたことがわかる。ナチ党の学生組織(NS学生同盟)が大学内を支配し、学生の思想教育・統制を担った。党員にならないと周囲から孤立・圧力を受けることもあった。そのため、この時期には大学にいる者のほとんどが入党した。私の知る方々も、学生を続けるために入党したと推測される。まだ党員数が少なかった1933年5月の初期段階で入党したカール・シュミットとは明らかに異なるだろう。

  「おじいちゃんはナチ党に入ったの」という質問を孫から受けるおそれがある人は、今年で100歳を超えている。家族の「過去の克服」という点で、このサイトはいま、どのように活用されているのだろうか。編集部が反響を分析したページには、たくさんの感想メールが寄せられている。以下はその一例である。

    「父方の祖母が、強い反ユダヤ主義の傾向を持っていたことは、以前から知っていました。ついに、カードへの記載という形でその確認も見つかりました。さて、名簿に見つかった人物たちについて論じる前に、当時、同じ状況に置かれたら、自分たちはどう行動したでしょうか。いいえ、誰にも分かりません。大切なのは、そこから学び、決して忘れないことです。残念ながら、現状ではこれがうまくいかなくなっているようです」(フランク・ヴェルナー、2026年4月)

    「祖父が29年に入党した。彼が党員だったことは知っていた。…中略…「AfDこそが救世主だ」と主張する人にも、私はいつもこう言っている。今日は友でも、明日には敵になるかもしれない。単に隣人が何かの理由であなたを糾弾したり、あなたが間違ったことを口にしたり、あるいは「国民にとって無価値」あるいは「害虫」扱いされたりするだけで、そうなってしまうかもしれない。これはすでに米国でも見受けられる現象だ。だからこそ、今こそ「二度と繰り返さない」時なのです!!」(Hase、同) 

   「タイミングは最高だったけど、見つけたものは私にとっては目新しいものではありませんでした。今この瞬間においては、誰に投票するか、あるいはしないかをよく見極めることが大切です。絶対にAfDには投票しません」(同、kara)

     「東ドイツ国家保安省(シュタージ)の内部情報提供者の特定についても、同様の対応が望ましい。ここにも公共の利益が存在します」(knut82、同)。

     感想メールのなかには、シュタージの非公式協力者(IM)の情報をネット公開することを求める声も見られるが、それはあり得ないと私は考える。なぜなら、彼らはいま60代、70代だからである。もし公開されるとしても、2065年以降になるだろう(関係者が100歳を超えている)。それよりも注目されるのは、「ドイツのための選択肢」(AfD)の躍進に対する危機感を示す感想が多かったことである。編集部の問題意識も、まさにそこにあったのではないか。


AfD単独政権か――9月6日のザクセン=アンハルト州議会選挙に注目

    西ドイツの人たちの間で、「マグデブルクはマヨルカよりも遠い」という言葉がある。西ドイツ人はスペインのマヨルカ島には旅行しても、東ドイツのザクセン=アンハルト州の州都マグデブルクに行く人はほとんどいないという意味である。私はこの東の州に、軍事演習場の問題や、「もう一つの壁開放」問題など、何度も取材で訪れている。ボン滞在中、ザクセン=アンハルト州に行ってきたというと、隣人に不思議がられた。西と東の生活水準の格差は小さくなく、東西の人々にとっての心理的距離がいまだに存在するのである。

   実はそのザクセン=アンハルト州で9月6日に州議会議員選挙が行われる。現在、どの世論調査でも、AfDの支持率が第一位である。世論調査によると、この州でのAfDの支持率は直近で41%に達し、過半数に迫っている。選挙の結果次第では、この州にAfDの単独政権が誕生するかもしれない。10年前は初挑戦で得票率24%だった。8年前にドイツに行ったときには、さらなる伸長に驚いていたが、それどころではなくなった。選挙という合法的な手段を使い、有権者の支持を得て、権力を獲得するところまできたのである。

  危機感をもった旧東のテューリンゲン州のゲオルク・マイヤー内務大臣(SPD)は、隣接する同州での「クーデター」を警告した(『ディ・ツァイト』5月17日 )。マイヤーが注目したのは、AfD首相候補のウルリッヒ・ジークムントが、選挙で勝利した場合、州行政機関の150から200のポストを新たに補充したいと発表したことである。憲法を否定する公務員を大量に採用して、州を乗っ取るというのだ。マイヤーは「公務員には憲法順守の義務がある」と指摘した。

また、ブランデンブルク州内務大臣のヤン・レッドマン(CDU)は、州の警察・公安機関をAfDが乗っ取れば、ドイツの対外・対内安全保障に対する脅威になるともいう。ドイツの機密情報が、ロシアや極右勢力に流出する可能性が出てくるからである。また、AfDはトランプ政権とも緊密な関係をもっていることも、ここで想起したい。

   もしAfD政権が誕生すれば、「ドイツ的思考を!」というスローガンが掲げられることになろう。これはトランプの「アメリカ・ファースト」と同じ機能をもってくる。特に危惧されるのは大学である。ドイツの大学は州立大学が主で、この州の大学の研究・教育に対する権力的介入の可能性がある( 『ディ・ツァイト』5月14日)。

    AfDは、「ドイツの大学は、再びドイツの大学であるべきだ」「ドイツの教育課程と学位」が存在し、「ドイツの科学がかつての栄光を取り戻す」ような場所であるべきだ。そして、「ジェンダー主義、ポスト・コロニアル主義、その他のポスト構造主義的な空虚な言葉遊び」は排除されるべきだ、等々。こうした大学政策を起草しているのが、AfDのイデオロギー的指導者であるハンス=トーマス・ティルシュナイダーである。党綱領も彼の手になり、例えば文化(「ドイツ的に考えよ!」)や学校(「学校法に祖国愛を盛り込め!」)等々が書き込まれている。ザクセン=アンハルト州は人口210万人、高等教育機関(大学2校、応用科学大学など8校)の数からすれば、小さな州である。しかし、これは「過去」が繰り返される前兆となるだろうと懸念されている。教員人事や大学予算にもAfDは介入してくる可能性が高い。

ドイツにおいて政権の連立合意で、「あらゆる政治レベルにおける反憲法的、反民主主義的な右翼過激派政党とのいかなる協力も排除する」という「防火壁」(ファイアウォール)が確認されてきた(直言「ドイツ新政権の「防火壁」―トランプ政権の政治介入の「効果」」参照)。しかし、それがいま、風前の灯火になっている。市民の危機感と関心も薄れ始めているのだろうか。


    ここまで2回にわたり、ドイツの「過去の克服」の現場をレポートしてきた。今回でそれを終える。だが、最後に到達したのは、「過去」の現代化であった。何度も指摘しているが、10年前にモスクワのグラーク(強制収容所)博物館を訪れたとき、その出口近くにあったモニュメントの言葉を再度、ここに掲げておこう。「過去の再来を明日防ぐために、我々は今日何をなすべきか?」(What should we do today in order to prevent the return of the past tomorrow?)。

   孫の晃樹とベルリンを歩きながら考え、語り、書いてきたことは、ドイツだけでなく、日本の私たちにとっても、「今日」の問題としても迫ってきている。次回は、「6月17日事件」のきっかけを作った現場を訪ねて考えたことを、来週、6月17日にアップして、5回にわたるベルリン訪問記を終えることにしたい。

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「アシアナから」:カブールの職業訓練施設の一少年

Dieses Spielzeug wurde aus der Aschiana-Schule,
Kabul geschickt.

――「アシアナから」――

2002年のカブールの職業訓練施設で一少年が作った木製玩具。
肉挽器の上から兵器を入れると鉛筆やシャベルなどに変わる。
「武具を文具へ」。
平和的転換への思いは、いつの時代も同じです。
詳しくは、直言「わが歴史グッズのはなし(6)アフガニスタン」参照

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