雑談(26) 「食」のはなし(5) ラーメン 2003年8月11日

回から夏休み用のストック原稿を掲載する。雑談系が多くなることをご容赦頂きたい。 さて、どう食べたら美味しいか、という「食事におけるhow」は結構重要である。高級店でカニ料理が出てくると、食べやすく切れ目が入っている。でも、北海道で、ゆでたての大きなタラバガニをドーンと床に置いて、何人かで車座になって食べたことがある。豪快だった。やはりカニはこういう食べ方が美しい、と思う。

  私は、羊の肉が好きではない。北海道在住の6年間、わが家でジンギスカン鍋をやったことはほとんどなかった。近所の家では、自宅ガレージを使ってジンギスカンをやっていた。部屋に臭いが残らないから、これは実に合理的な食べ方だと思う。ジンギスカンは大勢の人と、野外でワイワイやりながら食べるのなら、私も好んで参加した。羊の生肉のジンギスカンは美味しいと思った。「松尾ジンギスカンのタレ」(おっ、ローカルな!)あたりがよくあう。これに、真狩産、あるいは美瑛産の男爵イモをふかして、十勝は音更のよつ葉乳業のバターをたっぷりのせて食べる。デザートには、鮮やかなオレンジ色の果肉をたたえた、糖度たっぷりの月形メロン(おっ、これもローカルな!)。夕張メロンに比べればマイナーだが、地元では好まれていた。トウキビ(決して「とうもろこし」とは言わない)の甘さとコクは北海道ならではである。

  ところで、北海道と言えば、ラーメンだろう。ラーメンの場合、「夜景の見える窓際の席で、上品な会話を楽しみながら…」という食べ方とは最も距離がある。ただ一人、カウンターに向かって、猫背になってフゥフゥ、ズルズルという世界が美しい。会話を楽しんだり、「先生、質問があります」なんていう人と一緒に食べるのには最もふさわしくない。それがラーメンの世界だ。ひたすら、一人で食べる。これがよろしい。北海道民だった6年間、さまざまなラーメンを堪能した。講演や校務などで道内をまわるとき、ご当地「名物ラーメン」をよく食べたものだ。時間がある時は、わざと国道を使わないで道道(北海道には県道がなく、道道がある)だけで行く。これが本当の道々巡り。こんな無意味なことを楽しめたのも、ゆったりとした時間の流れがあったからだ。そうした「ゆとり」のなかで食べるラーメンは格別だった。それと、寒い北海道だからこそ、こってりしたラーメンが美味しい。東京に戻ってきて、札幌ラーメン旭川ラーメン函館ラーメンなんてのを見かけると、思わずふりむく。今も講演で全国をまわるとき、主催者との事前打ち合わせ(昼食付き)を断って、その街の一番美味しいラーメン屋にこっそり行く。そしてフゥフゥ、ズルズルの世界を堪能してから講演会場へ向かう、なんてこともたまにする(主催者の皆さん、ごめんなさい)。それにしても、ラーメンほどシンプルにして話題性に富む食べ物はないだろう。私は、タイの首都バンコクで「札幌ラーメン」を食べ、西早稲田でタイラーメン(但し、トムヤンクンの好みで評価は分かれる)を食べる。たかがラーメン、されどラーメンである。
  2002年の大晦日。日本テレビは「全国民が選ぶ美味しいラーメン屋さん列島最新ベスト99」なんて番組を流した。ラーメンのネタだけで4時間45分。予告だけで中身が知れてしまう典型だが、年末ならではである。これが、カツ丼や牛ドンでは4時間45分はもたない。さすがラーメンである。ラーメンで検索(Google)をかけると 173万件もヒットする。平仮名で「らーめん」とやっても79200件も出てくる。さらに、「らあめん」でも6150件がヒットする(すべて2003年8月8月現在)。ラーメンは「国民的」人気である。

  ところで、昔、札幌の北京料理の店で、本州方面からやってきた旅行客が、「札幌ラーメンをくれ」と注文した。「お客さま。当店では札幌ラーメンはお出ししておりませんが」「何んだと。ここは札幌じゃろうが」と怒って席を立ったそうな。これは客が悪い。定義の問題だが、博多ラーメン、東京ラーメン、札幌ラーメンといった場合、その土地で食べるということよりも、麺やスープ、具の選択やコンセプトがそれぞれ違う。札幌のラーメンが札幌ラーメンなのではない。札幌で食べる博多ラーメンもあるし、その逆もある。
  札幌ラーメンと言えば「味噌」となるが、私の場合は、太めの縮れ麺(西山ラーメンあたりがいい)に、しょうゆ味をベースにした濃厚スープが好みである。チャーシューは、どんぶり全面を覆うように大きく、薄く切ったものもいい。豪快に分厚く切って重量感を出したのも味わい深い。ラーメンも千差万別、人の好きずきであるから、どんな味を好むかは本人に委ねるのがよい。ただ、一つだけ言えば、勘違いラーメン屋のことである。『るるぶ』誌に出ているため、観光客が列をなす、札幌(新)ラーメン横町のHなる店。まずい、高い、横柄の三拍子揃って、地元の人はほとんど行かない。私も札幌着任後、家族と一度だけ行ったことがある。その後は、いつも観光客が並んでいるのを横目に見ながら通り過ぎることにしている。
  それから、「こだわりのラーメン屋のおやじ」というのも困ったものである。しかめっつらで、威張っている。それをテレビがおもしろおかしく報道するものだから、ますます勘違いした「おやじ」は、スープを残した客をどなりつける。客も神妙な顔をして、スープを一滴残さず飲み干す。マンガである。健康のため、塩分を控えている人もいるだろうに。こういう漫画的人物や店を跋扈させるのも、テレビのせいである。

  テレビによく出るようになると人が変わるというのは研究者も同じ。最初は専門的なことを一生懸命語っているが、そのうち、テレビ局の要請と論理に沿って、くだらないコメントを言わされ、いつの間にか喜んでそういうコメントをするようになる。そうすると、顔つきまで変わってくるから不思議だ。オウム問題で「有名」になった弁護士や元検事も同じ。彼らを本当に久しぶりにワイドショーでみたとき、「えっ、こんな顔してたっけ」というほどにシマリがない表情になっていた。毎日見ている人は気づかないのだろうが、何年ぶりくらいに見るとその変化に驚かされる。湾岸戦争時にひっぱりだこになった「にわか軍事評論家」たちが、最近のイラク戦争の開戦前後にテレビに登場した時も笑えた。10年余りでだいぶ老けていたが。なお、わが大学にもテレビCMにまで出てしまう著名な方がいらっしゃる。彼の場合、最初から研究費捻出のためのタレント活動と位置づけて出ておられる。本人はいたってまじめ。全学の多人数講義担当者の会議で初めてお会いしたとき、授業に対する真剣な姿勢に感服した。教員組合の職場委員もやっておられる。要は、本業をきちんとこなせばよいのである。おっと、話がずれた。それでは、どこかの美味しいラーメンでも食べにいくとしよう。

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