たかが憲法、されど憲法 2004年5月3日

57回目の憲法記念日である。この20年間、5月3日前後は全国各地で講演してきたから、思えば「大型連休」中に休んだのは、5年前のドイツ滞在時だけである昨年は特にハードで、和歌山と札幌の連続講演だった。今年は、2日午後に岐阜市内で講演した。「例年の5倍の参加者で大成功」(近藤真・岐阜大教授)とのことだった。本日3日の午後、全国憲法研究会主催の憲法記念講演会(早稲田大学大隈講堂)で話す。学会主催の伝統ある講演会であり、これは大変名誉な場である。実はちょうど10年前にも、この記念講演会で話をしたことがある(東京・なかのZERO)。この時は、奥平康弘先生(東大教授)と福島瑞穂さん(弁護士)、そして私(広島大助教授)の3人が講師をつとめた(肩書はいずれも当時)。羽田内閣成立直後の講演会だった。私は、陸上幕僚長を務めた永野茂門元陸将の法務大臣就任を、憲法66条(文民条項)との関係で問題にした。翌4日付『朝日新聞』(東京本社)は4段見出しで比較的大きくこれを報じた。南京虐殺に関する「問題発言」もあって、永野氏は就任後わずか10日で大臣を辞任した。私は「大型連休中だけの法務大臣」と皮肉った(拙稿「10日間だけの軍人大臣」『法学セミナー』1994年7月号。拙著『武力なき平和』〔岩波書店〕に収録)。なお、10年前の講演タイトルは、「憲法でシュミュレートする日本の国際協力」であった(全国憲『憲法問題』6号・三省堂所収)。「国際貢献」という言葉が巷でも知られるようになってから4年ほどたった頃のことである。私は一貫して、自衛隊による「国際貢献」ではなく、憲法の理念に基づく、非軍事的な国際協力の重要性について強調してきた。
  あれから10年。日本国憲法をめぐる状況は劇的に変化した。国会が、派遣部隊が「一丁の機関銃」を携行するか否かでもめたのも今は昔。「武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海に派遣すること」という海外派兵の定義(1980年10月28日政府答弁書)にまさにあてはまる事態が生まれている。政府は、「復興支援であって、武力行使の目的はない」と反論するだろうが、ここでは実質を問題にしたい。「自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されない」としてきた「海外派兵」を堂々と行うところまで、小泉政権は憲法9条の存在意味を最小化してきたわけである。

  先週、「憲法改正」をめぐって私のゼミで3時間討論した。意外に思われるかもしれないが、私のゼミで9条や改憲問題を正面からとりあげるのは、年に一度あるかないかという程度である。今回、久しぶりにやってみて、学生のなかに「現実主義者」が予想以上に多いことがわかった。同じテーマで議論しても数年前であれば、これとかなり異なる意見分布になっただろう。討論のなかで、いまや9条規範と現実のズレは絶望的な状況にあること、これを解消するためにも憲法改正国民投票をやって、「日本人のなし崩しマインドからの脱却をはかるべきだ」と主張する学生も出てきた。指導教員が「護憲派」だからといっても、ゼミ生は遠慮することなく、自由に発言することができる。もっとも、どんな意見を述べようとも、その根拠と論理運びの明確さは厳しく要求する。憲法ゼミなので、立憲主義との関係や、憲法改正の限界などへの自覚は当然の前提になっている。ただ、先日の討論のなかでは、明確な根拠をもって改憲の必要性を弁証するというよりは、規範に反する現実があって、そのズレを放置することの方がよくないと考える者が増えているようだ。これは、一般的な国民の感覚を反映している面がある。ただ、「とにかく一度、国民投票をやって憲法を選びなおそう」といった、昨今の「国民投票」をめぐる諸議論に影響された軽い発言も出てきて、ある種の感慨を覚えた。自民党の安倍幹事長が、改憲は自分たちの手で新しい憲法をつくり、「溌剌とした気分を醸成していく」などと語っているから、若者のなかにも、「とにかく変えてみよう」という気分が生まれるのも無理からぬところかもしれない。いずれにしても、「現実」の中身の丁寧な検証、「規範」と「現実」の緊張関係に対する自覚が求められる所以である。
  ところで、安倍氏は連休中に米国に行って、「集団的自衛権の行使を認める憲法改正が必要だ」と主張したという(『朝日新聞』4月30日付夕刊)。結局、集団的自衛権の行使を可能にするのが「憲法改正」の最大の眼目であることが見えてきたように思う。なお、安倍氏は、「敗戦の呪縛からか、指一本触れてはいけないという風潮が支配的で、一種のマインドコントロールのようなもの」とも語ったという。「敗戦の呪縛」「マインドコントロール」といった粗雑な言葉によって、憲法9条の改定に批判的言説が戯画化され、議論が極度に単純化されている。いま、ブッシュ政権が「先制的自衛」を振りかざし、「どこでも、いつでも軍事介入」という方向に迷走しているとき、あえて米国との軍事的同盟関係(集団的自衛権行使)を突出させることは、アジア・太平洋地域、さらには世界の平和という観点からみれば、「明治時代になって刀を帯びはじめる」類のアナクロニズムとしか思えない。これこそが、非現実的な方向ではないだろうか。
  そもそも近年の憲法論議で感じるのは、議論の「作法」が崩れてきていることである。憲法の原理や原則を重視する者に対して、「現実無視の夢想家」のように揶揄したり、「憲法をタブー視している」とか「無益な神学論争」といったレッテル貼りが横行している。「規範」と「現実」のズレそれ自体はいつでも、どこでも生じうる。問題は、そのズレないし乖離、矛盾というものをどのように評価するか、さらにそれをどのように解決していくかである
  憲法といっても「たかが紙切れ」である。だが、厳粛な言葉でつづられた条文の背後には、長年にわたる人々の歴史的営みが息づいている。そうした歴史への眼差しを失ってはならないだろう。また憲法は、国家権力担当者から見れば「うるさい存在」である。「たかが紙切れ」ではあるが、「違憲でない」ことを説明する時間とロスは、権力担当者にとっては「結構うざい」と感じられるだろう。例えば、集団的自衛権を行使するためには、憲法9条は依然として邪魔な存在なわけである。国家権力担当者にとって、憲法の「無害化」は重要な課題となる。今も憲法をまともに守ろうとしない権力担当者にとって、「権力にやさしい憲法」に改定したならば、それを守るという保証があるだろうか。また、そうやって「無害化」された憲法に誰が注目するだろうか。集団的自衛権の「行使」のために憲法改定を押し進めるべきだということは、逆に、憲法9条の規範力がまだ、かろうじて存在していることを意味する。その意味でも、「されど憲法」なのである。これからが正念場である。