「小さな親切」と「大きな害悪」の間  2005年3月14日

かれと思ってやった親切が裏目に出ることがある。相手にとっては「小さな親切、大きなお世話」ということだろう。地域社会などで「小さな親切」を奨励しても、結果的「大きなお世話」と反発をかう例もある。「小さなお節介、大きな迷惑」ということもある。世間では、さまざまな「改革」が行われている。大学でも、「学生のニーズ」や「社会のニーズ」に応えるためとして、種々の「改革」が行われている。だが、「ニーズ」needsというのは実に曖昧な言葉であり、注意を要する。誰が、どんなことを求めているのか。要求や必要性の中身についても、きちんと診ていくべきだろう。
  
近年、「ニーズ」に応えないと競争に負けるという強迫観念(オブセッション)からか、求められてもいないのに先回りして、「痒いところに手が届くような」サービスを提供する傾向がある。「ここが痒いでしょう」と教えてかいてあげる、「ニーズ先取り型」もある。さらには、「痒いところをわざわざ作ってかいてあげる」という「ニーズ創出型」もある。ここまでくると本末転倒である。自分で調べろ。もっと足を使え。自分で考えろ、と言いたくなるような、私たちが学生のころには考えられなかったような、過剰なサービスが大学にも横行している。それに伴い、教職員の側には、さまざまな仕事や負担が増えていく。
  そうしたなかで、「大学の自治」の歴史のなかで築いてきた伝統や慣習が、「世間の荒波」と「ニーズへの対応」にさらされて消え去ろうとしている。ここ数年、大学はどんどんせわしく、落ちつかず、息苦しくなっているか。学生による「授業評価」も定着したが、それは実にアンビバレントな側面をもっている。15分遅く始まり15分早く終わる授業や、ノート棒読みの授業などが駆逐されたとされる反面、大学の授業にしかない自由な雰囲気が失われ、画一化の傾向(勢い)が生まれているように思えてならない
   「一体、誰が幸せになるんだろう」というような「改革」も目につく。「小さな親切」が「大きな迷惑」になりかねない。そして、「親切」や「お節介」の連鎖が、長い間につくられてきたさまざまな仕組みを「壊す」という形で進み、「小さな思い込み」が「大きな害悪」の域にまで達しつつある。それが「小泉改革」だろう。その詳しい検討はここでの課題ではないが、この間に私が感じたことをとりあえず書いておこう。

  テレビのニュースを見ていて、一瞬「エッ」と思った瞬間があった。2004年11月26日の首相官邸の風景。カメラはスタスタ歩いていく小泉首相を追う。首相の大きな声。「すまんな、まあこらえてくれ」。握手をして左手で肩を抱くようにしたのは中山文部科学大臣だった。テロップは「すまんな」だったか「こらえてくれ」だったかは記憶が確かでないが、ぞんざいな口ぶりが印象に残った。翌日、このテレビの風景は、『朝日新聞』11月27日付「三位一体改革を検証」に写真付きで載っていた。見出しには、「すまんな、まあこらえてくれ。首相官邸で中山文部科学相と握手を交わす小泉首相」とあった。
  
「すまんな」と言った内容は、中山大臣が反対していた義務教育費国庫負担金の削減である。この横柄で傲慢な物言いと、その中身の冷たさはつりあっていた。担当大臣が反対を続けても、首相は大臣を「任意に」罷免できるから、最終的には従わざるを得ない。それだけ総理大臣の権限は大きい(憲法68条2項)。
  
年金、税金、雇用、医療、福祉などあらゆる分野で、80年代のレーガン(米)・サッチャー(英)・中曾根(日)の時代に始まった新自由主義政策(日本では国鉄分割民営化が「先駆」)が、ドイツでは、弱者保護と福祉などを看板にしてきた社民党・緑の党の連立政権のもとで、日本では「自民党をぶち壊す」といって総裁になった小泉首相のもとでドラスティックに展開されている。そして、強い自治をもつ大学をも内側から変えはじめている。上から下まで、中央から地方まで、この地球上で行われているこの種の「改革」を眺めてみると、そこには一本、「無神経」という柱が貫かれているように思う。

  「郵政民営化」もその一つだろう。小泉首相がまだ一議員だった頃から、憑かれたように「郵政民営化」を言いつづけてきたことはよく知られている。一桁代の支持率という危機的な状況をつくった「あの男の内閣」のあとを襲って最高権力を握ったとき、一議員の「小さな思い込み」が実現に向けて動きだした。だが、小泉首相がいくら「郵政民営化」が重要だと力説しても、国民の多くには、「いま、なぜ、郵政民営化が必要なのか」がまったく見えてこない。「郵政民営化の基本方針骨子」(2004年9月10日)によれば、2007年4月に民営化が計画されている。窓口ネットワーク・郵貯・簡保・郵便の4機能を株式会社として独立させるという。「いまどき、郵便事業だけが公務員なんです」という首相の言葉を聞いていると、徹底して「公共」分野を縮減していく狙いも透けてみえる。だったらいっそ、すべての国家機関を分割民営化して、例えば、陸自北部方面隊と北海道警と第一管区海上保安本部+海自大湊地方隊を統合して、「北日本総合警備保障株式会社」(北日本警備保障という会社がすでに弘前市にある)にしたらどうだろうか。2007年になれば、米国の外資が狙う郵貯300兆円という構図が見えてくるだろうし、「郵政民営化」をめぐるさまざまな力学や問題があることは承知しているが、あえてここでは立ち入らない。私がここで言いたいのは、素朴な問題ではあるが基本的な問題であるところの、普通の庶民にとっての郵便の存在意味である。

  そこで、ふと思い出した光景がある。私は1999年3月から1年間、ドイツのボン大学で在外研究したとき、Bad-Godesberg(Plittersdorf)に住んだ。その時、よく利用したUbier通り沿いの小さな郵便局がある。当時の電話帳を見ると、第203出張所(Postfiliale 203)とある。隣がKaisersというスーパーマーケットで、買い物ついでに小包を出したり、切手を買ったりしていた。三つある窓口のうち、いつも一つしか開いていない。そこに列が出来る。書留かなんかで時間のかかる人がいても、奥にいる郵便局員はニコニコ雑談していて、窓口をもう一つ開けることはない。5人も並んでいても、みんな黙って待っている。実に行儀がいい。私は思わず、窓口の奥に向かって「ちゃんと働け!」なんて日本語で呟いたことも。前に立っていた老人がニッコリ微笑んで、「同感」というサインを送ってきたので苦笑した。それと、バリアフリーなんていっても、どこの建物もドアはけっこう重い。この小さな郵便局の出張所もドアは重い。小包を出しおわってドアをあけたら、10メートル以上離れたところから老女がこちらに向かってくる。ドアを開けて待っていてあげると、杖をついたその老女はまっすぐ前を向いたまま、ゆったりと、そして無言のまま私の前を通りすぎていった。えっ、私はドアボーイかと思ったが、次回、重い小包を抱えていくと、壮観な男性がニッコリ微笑んで、かなりの距離があるのに、ずっとドアをあけて待っていてくれた。これはありがたかった。
   夏を過ぎたころ、この出張所が閉鎖されることになった。それを告知する張り紙が出た日の光景をよく覚えている。窓口に黙って列を作る老人たちは、その日は妙に饒舌だった。「遠くになるので不便だ」「駅前までバスで行かなくては」とか言っている。年金生活者が多い地域なので、この出張所の廃止は地域の人にとってはかなり痛いだろう。

   ドイツでは、郵政民営化が世界に先駆けて1995年に行われた。郵便局(Postamt)という言葉のAmtというのは公法上の概念だが、民営化後もこの言葉は残った。ドイツでは、ドイツ・ポスト(Deutsche Post) 、ポスト・バンク(Postbank)、それとドイツ・テレコム(Deutsche Telekom)の三つに分割民営化されたが、民営化後は、不採算の地方局の60%が閉鎖された(3万局から1万2000局へ縮減)。私の滞在中(1999年) に、ドイツ・ポストがポスト・バンクを子会社化した。それで、窓口ネットワークと金融サービスが一体で行われるようになった。近所の第203出張所は廃止され、Bad-Godesberg駅前の大きな第2出張所(Postfiliale 2) に統合された。この出張所は夏明けまでにリニュアルされて、すごくきれいになった。入口に重い扉はなく、透明な自動ドアである。両手に荷物を抱えて入ることもできる。フロアは広く、銀行部門から郵便グッズまで、さまざまなサービスが行われるようになった。職員が外に出てきて、いろいろとサービスしてくれる。列はできるが、いくつも窓口が開くので苦にならない。民営化がサービス向上につながるという一面は否定できない。しかし、駅周辺の住民はいいが、私のようにそこから離れた地域の人にとっては不便になる。私は車か自転車でいくようになったが、あの老人たちはどうしていたのだろうか。

  そんな風景を頭に呼び起こしながら、小泉首相の「郵政民営化」について思う。これはやはり「公」あるいは「公共性」とは何かという大きな問題が背後に控えている。郵便は「全国均一料金」が売り物だが、民営化すれば、遠方の料金は値上げになる。山奥に住む人に送るたった一枚のダイレクトメールでも、その一枚分の料金以上のガゾリンを消費して届けにいく。これが全国一律料金である。民営化を徹底すれば、これはあり得ない。だが、民営化を実現するために、当面は「ユニバーサル・サービス」を維持するという方針のようだ。だが、この言葉は曲者である。民営化で収益を追求すれば、「ユニバーサル・サービス」とは整合しない。いずれ、「ユニバーサル」からの漸進的な撤退がはかられ、結局は地方の切り捨てにつながりかねない。ドイツでは、2002年に「ユニバーサル・サービス」に関する政令を施行して、全国に最低12000の郵便局の設置を義務づけ、2000人を超える市町村(Gemeinde)には最低一つの郵便局を設置することになったという。だが、私が住んでいた比較的便利で豊かな地域(元首都)でさえ、老人などには相当不便になったように、細かく見ていけば、矛盾はさまざまなところに生じているのではないか。サービスは決して「ユニバーサル」とはいかないだろう。「郵便局のコンビニ化」に至っては、何もかも「コンビニ化」してどうするの、という世界である。料金値上げや郵便局の統廃合という基本的な問題から目を逸らさせる「アメ」の役回りを果たすのではないか。大学も郵便もコンビニ化が進めば、何か大切なものが失われていくような気がしてならない。「郵政民営化」の中身と段取りを見ていると、まさに「小さな親切」が次第に「大きな害悪」になりつつあるように思う。
  
なお、なお、この原稿は、メンデルスゾーンの交響曲第5番ニ短調「宗教改革」(演奏は クラウディオ・アッバード指揮ロンドン交響楽団)をバックに書き上げた。ちなみに、改革はReformだが、宗教改革はReformationである。

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