暑くて熱い夏の「クールビズ」  2005年8月29日

田町の風景では、政治家や官僚の服装に目がいくことはあまりない。だが、この6月以降、彼らがテレビ画面に登場するたびに、妙に服装が気になるのは私だけではあるまい。「クールビズ」ということで、場面ごとに「いろいろ」だからである。本会議では全員がスーツ着用と決まっているが、委員会や党の会議だとまちまちだ。

  さて、真夏の総選挙ということで、例年になく暑い夏は、さらに熱い夏になってきた。郵政民営化法案の参議院否決から衆議院解散へ。連邦参議院の構成(主要な州議会での敗北)を理由にして連邦議会を解散したシュレーダー独首相と似ていて、国会での力関係を、国民に直接訴えかけることで転換しようという手法である。ともにマスコミをつかむのがうまい。ドイツでも野党の弱点(インパクトの薄い女性党首、周辺政治家たちの失言など)にのって、本来ならば敗北必至と見られていたシュレーダー首相が、退路を断って連邦議会選挙(9月18日投票)に向けて奮戦中である。小泉首相も、参議院での法案否決の段階では苦境に立ったが、その後、「刺客」「くの一」、ついには「ホリエモン」まで登場させて、一気にメディアをつかみ、攻勢転移をはかった。本来なら自民党の「分裂」は民主党にとってチャンスのはずなのだが、高い内閣支持率もあって、9月11日の選挙の行方はまったく見えない。

  「政治の劇場化」ということがいわれるが、最近では「同じリングで戦う」という言葉も出ているので、「政治のプロレス化」ということだろうか。「美人の女子プロレスラー」が殴り込みをかけて、政治ジャーナリズムはプロレス観戦のノリである。静岡7区や東京10区、岐阜1区、広島6区などが「注目させられてきた」のは、この流れだろう。若者たちが「面白そうだ」と投票所に足を向ければ投票率があがり、小選挙区の場合はドラステックに結果が変わる。どんなに強力な支持基盤を持っていても、それまで選挙に行かなかった若者などが投票所に向かえば結果は大きく変動する。「無党派」層ですらなく、「無投票」層だった人々の投票行動に影響を与えようと、プロレス解説のような政治解説もますますヒートアップしていくだろう。

  ところで、前回の衆院解散時、新聞には「改革絶叫解散」というコメントが載った。このとき解散詔書を読み上げた議長は、綿貫民輔氏だった。それにしても、「政治が面白くなってきた」と喜んでいるワイドショーの解説者たち。結局、十分な内容的議論なしに、「小泉さんの手法は悪いが、やっていることはいい」に並んでしまった。政治を面白がっているうちに、日本政治のかたちが変わっていく。おそらく小泉首相が直観的にいった「自民党をぶち壊す」という狙いは、この間、かなりの程度達成されたように思う。特に利益誘導型の旧田中派の解体は確実に進んだ。橋本元首相の寂しい引退は、それを象徴している。なお、派閥の解体は1994年の「政治改革」で小選挙区・比例代表並立制と政党助成の仕組みが導入されたときから始まったが、10年かけて完成水準に到達したといえるだろう。「毒饅頭10年目の効果」である。公認権、比例区順位決定権、政治資金配分権、人事権を軸にして、党幹事長・総務局長というラインが絶大なる権限をもったが、この間、自民党総裁が直接仕切っている。かつての自民党には見られなかった現象である。ロベルト・ミヘルスの「政党寡頭制」の議論を再読したくなってきた。
  
加えて、「無所属の悲哀」なんて、94年の選挙制度導入のときに何も考えずに賛成した人々が、いま、その不合理を味わっている。結局、旧態依然たる人々による「新党」は、理念も政策も二の次で、自分たちが作った仕組みからの「救済組織」でしかないだろう。 「小さな政府か、大きな政府か」と自信なげに繰り返す「小さな幹事長」を脇に置いて、「大きな総裁」が直接采配を振るって行われたことは、一種の党内粛清だろう。党紀委員会など、正規の党内手続は踏まれていない。実質的な「処分」が、総裁サイドから恣意的に繰り出されている。ドイツの高級週刊誌は、これを「反対派に対する党内粛清(innerparteiliche Säuberung) 」とはっきり書き、小泉首相の行動を、「上からの反乱」(Putsch von oben) と同じだとし、世界第二の工業国家を深刻な政治的不安定性に引き込んだと指摘している(Der Spiegel vom 15.8.05)。「粛清」という言葉は、「民主集中制」というスターリン型党組織構造をもつ政党の十八番だったはずである。「政党の内部秩序は、民主制の諸原則に合致していなければならない」(ドイツ基本法21条1項3文)という条項も、ナチス型「指導者原理」とスターリン型「民主集中制」という政党史における「負の体験」を踏まえてデッサンされており、いまの自民党で起きているような事態は、「政党内民主制」という観点からみれば、重大な問題を多々含んでいる。そうした意味もあって、ドイツ誌が「粛清」という言葉を選択したことは、実に象徴的である。

  日本政治史という観点から位置づけなおしてみても、いま起きていることは異様である。派閥の支えもなしに、国民世論に直接依拠して国会の構成に影響力を及ぼす首相。従来の自民党政治を「壊した」ことは確かだろう。小泉政治は、実質的には、首相公選型、あるいは高橋和之東京大学教授のいう「国民内閣制」に近い形になりつつある。郵政民営化一本に単純化されて、「国民投票」的効果をもてば、「憲法改正」まで一気にいける。それが国民生活にどのような影響を及ぼすかははかりしれない。「新党」などの動きについて、「自民党の小さなコップのなかの嵐」(志位共産党委員長、8月17日)といった呑気な評価もあるが、共産党や社民党などが「コップの外の小さな水滴」のような存在になろうとしているのがわかっていない。いろいろな意味で、今回の総選挙は、この国の政治の仕組みを大規模に変える契機になるだろう。

  とここまで書いてきて、総選挙の真っ只中ではあるが、まだ夏休みモードということもあって、今回の直言には、既発表の原稿を使うことにしたい。冒頭で触れた「クールビズ」の問題である。
  ところで、この夏は九州での仕事が多かった。今月初旬、鹿児島と長崎で、中旬には福岡で講演した。この3回の講演は、初めてノーネクタイでやった。鹿児島では、すごい暑さだったこともあり、男性の聴衆(高校の先生たち)にはスーツ姿はいなかった。高教組の委員長がただ一人スーツ姿で冒頭の挨拶を行った。「皆さんは政府の方針をそのまま守っていますね」と参加者に皮肉をいった。私は、下記に出てくる辛淑玉さんの話を紹介しながら、「変な意地をはらないで、よいことは自主的かつ率先してやるべきではないか」と語った。会場から笑いがもれた。
  
九州弁護士会連合会のシンポジウムの基調講演もノーネクタイでやった。弁護士は全員スーツ姿だったが、打ち合わせ段階では、私を含めて4人のパネラー全員がノーネクタイだった。ところが、ジャーナリストの斎藤貴男氏だけは、シンポ開始直前にネクタイをつけて登場した。今まではネクタイをしてこなかったが、政府の押しつけ「クールビズ」との関係で、この夏はあえてネクタイをしていると参加者に説明していた。議会の傍聴規則に帽子の着用を禁ずる規定があることを批判して、公的な場ではずっと帽子をかぶり続けている高良鉄美琉球大学教授もいることだし、こればかりは本人の好みやこだわりの問題が大きい。「クールビズ」(秋冬版の「ウォームビズ」)についてもさまざまな議論の仕方が可能だが、とりあえず、私の意見については、7月中旬に書いた下記をお読みいただきたい。

 

「クールビズ」考

 ◆「クールビズ」という造語

  夏だというのに、背広とネクタイをつけて、汗だくで仕事をする人が少なくない。自分だけ涼しい恰好をすると目立つ。このあたりの微妙な心理を逆手にとって、小泉首相が「トップダウン」でやってくれた。6月初日から、首相と閣僚が一斉にノーネクタイ、ノー上着になったのだ。「上からのクールビズ」のスタートである。中央、地方、民間ともに対応はまちまち。上司が開襟シャツで出勤したので、部下が慌ててネクタイだけ外すという混乱も。
  
そもそも「クールビズ」(Coolbiz) とは何か。「ビズ」はビジネスを意味する造語。4月27日に環境省が発表した、「省エネルック」にかわる、夏のノーネクタイ、ノー上着ファッションの新表現である。温室効果ガス削減のため、夏のエアコンの設定温度を26.2度から1.8度上げるだけで、一夏で160万から290万トンの二酸化炭素を削減できるという。
理屈ではわかっていても、長年にわたる職場慣行をやめて、ノーネクタイ、ノー上着を敢行するのはそう簡単ではないだろう。結局、「上から、一斉に」は、明治初期に「ちょんまげ」をやめたときと同様、「この国のかたち」なのだろうか。議員たちは、国会でも地方議会でも、本会議はスーツ着用と決まっているらしい。
  今回の「クールビズ」に関して、都道府県議会レベルで一番対応が早かったのは、栃木県議会である。6月8日の議会運営委員会で、本会議ではスーツ、委員会などではノーネクタイ、ノー上着も可という申し合わせを全会一致で行った(『朝日新聞』6月9日栃木県版)。これに他県や市町村の議会が続く。
  
6月9日の山形市議会では、本会議も脱スーツにするかで「珍問答」が展開された。一応、「議長の判断で本会議も例外を認める」と決まったのだが、ある市議が「本当は脱ぎたかった。感覚には個人差があるのに、議長が許さなければ脱げないのか」というと、別の市議は「毎回議長が許可すればいいじゃないか」と応ずる。さらに別の市議は、「原則スーツといっているのに、何をいうか」。結局、すべて議長に一任ということで話がまとまると、ある市議は議長に一言。「目で合図しますから、よろしくお願いします」。この審議が行われた議会運営委員会室の温度は29度にまであがり、議員たちは汗だくだったという(『朝日新聞』6月10日付山形県版)。

 ◆夏のファッションは

  大学ではどうか。「アカデミック・ファッション」といって、教授は学生の前でだらしない恰好をしてはならないという「哲学」をもつ教授がいた。私自身は、毎年、7月中旬までの授業期間中は、上着とネクタイで通してきた。もちろん、授業がなければ、会議などにはラフな恰好で参加する。今年から大学が冷房を弱めたため、半袖、開襟が確かに楽である。ただ、小泉首相の真似をするのもどうかと思って、しばらくスーツで頑張ってみた。
  
そんななか、辛淑玉さんの連載エッセー「山椒のひとつぶ」でこんな文章を見つけた。 「労組の講演会に行ったら、会場はネクタイ姿の男性で埋め尽くされていた。『古いわねぇ』と言うと、『いえいえ、シンさん。政府が推進することをそのまま鵜呑みにしてはいけないですよ』とマジに対抗姿勢を強調。アホかいな。これだから負けるんだわ。政府より先にやるという発想もなく、化石のままでいきたいとのたもうのだ」(『マスコミ市民』2005年7月号)と。なかなか痛烈である。
  
涼しい恰好といっても、「背広を脱いだ日本人男性」というのはあまりサマにならない。それは、サミットのときに歴然となる。ラフな恰好で談笑する首脳たちのなかで、日本の首相の着こなしがどうもしっくりしない。紺のスーツに白ワイシャツ、ネクタイなしの恰好は、逮捕され、連行されるときの姿を彷彿とさせる。せっかく開襟にするなら、明るい色のブレザーに、柄物で決めたい。
  かつて大平首相や羽田首相が「省エネルック」の半袖背広を着たが、あれはいただけなかった。あの「悪夢」があるので、慎重になる人もいるだろう。そこへいくと、小泉首相は臨機応変で、ブレザーに開襟シャツという組み合わせなど、適当にやっている。ただ、周囲の閣僚や党役員はひどい。
   ズボンのなかに入れると無様なのが、沖縄の「かりゆし」ウェアである。あれはゆったり「外出し」にするから涼しいし、絵になる。逆に、「中入れ」のシャツを「外出し」にすると、目もあてられない。一時、某総務大臣がそんな恰好をしていた。もうやめたみたいだが。

 ◆服装と「人の柄(カラー)」

  いま、インドで大学キャンパスが学生運動で大荒れだそうだ。政府が、「性犯罪防止」を名目に、女子学生の露出ぎみの服装に規制を加えはじめたからだという。女子学生たちは、一部男性の邪悪な行為を、女性の服装の規制根拠するのは責任転嫁だと怒る。正論だろう。
  「温暖化防止」という目的が正当でも、そのための手段が、「クールビズ」の一律、一斉、強制の形をとれば話は別である。上から押しつけられた「涼しげな制服」というのではいただけない。「クールビズ国民運動」という形で、社会的に押しつけられるのも愉快ではない。
  どんな服装をしようとも、個人の自由のはずである。服装や着こなしは、まさに個人の自己実現の一環ともいえる。それは幸福追求権から導かれる「ライフスタイルを選びとる権利」の一つとされている。
  関連して、憲法13条後段が保障する幸福追求権の性格や内容をめぐっては、「一般的行為自由説」と「人格的利益説」とが「対立」している。一般的行為自由説は、幸福追求権が、あらゆる生活領域に関する行為の自由、つまり一般的行為の自由をその内容とするというもの。服装の自由、喫煙の自由、長髪の自由などが含まれる。これに対して通説である「人格的利益説」は、幸福追求権の内容を限定して、「人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要な権利・自由」と位置づける。服装や髪形の自由は、「人格的自律」との関連で判断される。例えば、民族衣装とか、自己のアイデンティティから特別の意味をもつ髪形とか、その個人がその服装や髪形にこだわった場合には、服装や髪形は13条で保障されることになろう。もっとも、「人格」との距離をはかる基準が一義的でないのが問題である。
  
服装は人の「柄」(カラー)をあらわす。暑い季節だから仕方なしに上着を脱ぎ、ネクタイを外したという消極的な態度ではなく、より積極的に、その季節やTPO、その人の「柄」(カラー)にあった服装に気を配るべきだろう。実は、背広・ネクタイという「制服」がない女性は、1年、365日、そのことに気をつかっているのである。

2005年7月18日稿〕
国公労連「調査時報」513号(2005年9月号)所収