雑談(47)政治家の本を読む  2006年1月30日

演に向かうとき、「積ん読」状態の本のうちから、学術書以外のすぐに読める本を何冊か鞄に入れていく。たまに、空港や東京駅の書店で買うときもある。昨年の秋、新幹線や飛行機のなかでそういう形で10冊ほどの本を読了した。そのなかに、政治家が自分との関わりで政治を「総括」した本も含まれていた。鈴木宗男『闇権力の執行人』(講談社、05年12月)、『後藤田正晴語り遺したいこと』(岩波書店、05年12月)、加藤紘一『新しき日本のかたち』(ダイヤモンド社、05年11月)、平野貞夫『亡国――民衆狂乱「小泉ええじゃないか」』(展望社、05年11月)、不破哲三『私の戦後六〇年――日本共産党議長の証言』(新潮社、05年8月)等々。政治家の書物というのは、演出や自慢話、自己正当化の傾向が強いのが一般的だし、この5人の本もそうした面を免れていない。特に不破の本はその傾向が著しい。帯に「反省も総括も清算も何もなかった、“頬かむりの60年”」とあるが、50年安保から60年安保へとスルリと移ってしまい、自らの党の都合の悪い時期や問題については「頬かむり」しているという印象が強い近年の国旗・国歌法をめぐる軽率な発言や、9条と自衛隊をめぐる評価のブレについても、未だに誠実な説明はなされていないとはいえ、これら政治家たちの本は、いまの小泉政権との距離を測定しながら読むと面白い。かつてなら政党と政党との違いに解消されたものが、いまは、政党や立場は違っても、小泉政権に対する批判や今後の日本の展望(特に米国との距離やアジアとの関係、市場原理主義からの離脱など)については意見が一致するところが少なくないのである。各人がそれぞれの立場でいまの日本の状況に危機感をもち、誠実にこれと向き合おうとしていることは感じ取れる。それだけ、小泉政権が「ぶっ壊した」ものが広範囲に渡っているということかもしれない。ここでは、最近政治を引退した平野貞夫の本についてコメントしよう。

  衆議院事務局職員33年、国会議員10年で政界を引退した平野は、最初は自民党に所属し、最後は民主党所属だった。参議院憲法調査会に参考人招致された際、平野議員は私にいろいろと質問してきたが、他党の議員と比べて、その内容がポイントをついていただけでなく、質問の仕方にも誠実さを感じたので印象に残っている。昨年11月、新幹線の車内でその平野の上掲『亡国――民衆狂乱「小泉ええじゃないか」』を一気に読了した。講演の帰り道、駅構内の書店で『公明党・創価学会の真実』(講談社)も買い求め、帰りの車内で読んだ。往復の新幹線で同じ著者の本を2冊も読んだのは初体験である。帰宅後、平野の『公明党・創価学会と日本』(講談社)も購入して、これまた電車のなかで読了した。政治の「裏」を知り尽くした凄味のある内容と文章である。政治学者やジャーナリスト、政治評論家の本と違って、政治の「現場」の「体感事実」の重みもあるだろう。13年前に自民党と公明党の推薦を受けて参院高知選挙区で初当選したという平野が、自らの政治遍歴を総括しつつ、「これだけはいっておきたい」という思いを書き綴っている。参議院憲法調査会で私に質問した際にも、「高知県人として」と前置きしたように、土佐の反骨精神を平野は誇りとしているようである。

  『亡国』は政治過程の検証の書というよりも、小泉政権下の日本への危機感を叩きつけた激白の書といえる。平野は、「飽く無き権力闘争と金権政治の腐臭に満ちた国会内で、謀略と嘘で固めた国対政治の裏方として私は働いてきた」と自らを規定し、その上で、本書は単なる追想ではなく、「たった今開いた亡国のドラマの戦慄の筋書きである」と書く。あの「9.11総選挙」について平野は、「メディアを通じ、魔術師小泉が全身で演じた狂気の催眠術によって国民は洗脳されたのではないか」と厳しく問いかける。
  
「日本人集団異常心理60年周期」説には、厳密な根拠は示されていないが、なるほどと思った。1706年「宝永のおかげ参り」から、明和(1770年)、文政(1820年)のおかげ参りを経て、「ええじゃないかの狂乱踊り」(1867年)、1941年の「一億玉砕」の政治体制、そして2005年頃の「小泉ええじゃないか現象」へ。大災害や社会の変化などを原因として、民衆の狂乱現象が起きているという。「9.11総選挙」も「小泉ええじゃないか」の狂乱現象と読み解く。厳密な資料や証言で裏付けられたものではないが、「永田町」の当事者としての体験と知見に裏打ちされた直観的な指摘は鋭い。

  特に、小渕内閣末期の異常事態に関する認識と評価にはまったく同感である。この「直言」では、小泉首相就任のきっかけを作った「史上最低の内閣支持率」をはじきだした男のことを一度も「首相」と呼ばずに、その正当性を問い続けてきた。平野は、「憲法違反でつくられた森亡国政権」という節で、これは「一種のクーデターだ」と指摘しつつ、「こんなことが許されるなら、例えば、元気な首相を拉致して病院に連れ込み、監禁したあげく『重病』と発表し、首相の意向で臨時に首相代理をつとめることになったと宣言することもできる。…小渕首相の場合も医師の診断書すらないままに、それが実行されたのだからまことに恐ろしい」と書いている。実際、平野は、この論点について参議院予算委員会で質問しているが、その発言は議事録から削除されてしまったという。
  平野のような骨のある政治家は、「軽くなった国会」では貴重な存在だった。自民・公明与党連合の「内側」を知り尽くした人物だけに、両者が微妙に絡み合ったマンション耐震強度偽装問題での証人喚問などでは、平野の鋭い質問が聞きたかった。

  なお、平野の体験的小泉批判とともに、高瀬淳一『武器としての《言葉政治》――不利益分配時代の政治手法』(講談社)を読んだ。高瀬は、小泉的政治手法の本質的問題性を「政治のパーソナル化」に求める。この概念は、政治の「個人化」にとどまらず、「個性的」、語源(ペルソナ)から「仮面的」あるいは「演劇的」になることもあるという。その中身は「個性を演劇的にアピールする個人」によるリーダーシップということに帰着する。だからこそ、「小泉劇場」という表現をメディアが使うことに、私は違和感を持ち続けてきた。小泉は「殺されてもいい」などと、およそ政治家がかつて口にしいなような言動が目立つ。その点、小泉と同級生だったという栗本慎一郎(元・明治大学教授、現・東京農業大教授)の発言は興味深い。
  栗本によれば、小泉の特徴は非情や無情のレヴェルではなく、感情がない、まさに「欠情」と言い切る(『週刊現代』2005年12月24日号)。栗本いわく。小泉は学生時代、「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるような存在でした。…その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇嬌な政治行動の原点だと思います。彼は一対一では誰とも話ができない。“コミュニケーション不能症”です。人間と普通に話すことができないのです。彼が人と付き合うには、立場が必要なんです。言葉を知らないから、友人としての話というのは成立しない。だから、『立場』しかない。…ですから、彼は自分の性格上、権力は絶対に欲しい」。どの世界にも、まともにコミュニケーションがとれない人間はいるが、そういう人は、「立場」で語り続けるために、いつまでも「権力」に執着する傾向にある。何とも困ったものである。
  
栗本はさらにいう。「小泉は通常の意味で、とにかく頭が悪かった。…前首相の森喜朗さんも頭が悪そうですが、彼は、自分がわかっていないことがわかるようだ。だから、森のほうが少し上です」「小泉は頭が悪いが性格も悪い。でも、一般的に言う性格の悪さとはちょっと違います。…彼はよく『非情』だと言われますが、それは正確じゃない。…本当は情そのものがわからないという『欠情』です」「小泉の発言は明確だと言われますが、真相は長いことを喋れないから、話が短くて明確そうに聞こえるだけです。話がもたないから、すぐに結論を言ってしまうわけです。…」
   同窓生ではなく、言葉の真の意味での同級生(同じドイツ語クラス)であり、かつ小泉に経済学のレクチャーをしたという経験からも、その観察は鋭い。私は、栗本が、小泉の「創価学会アレルギー」について指摘した部分に注目した。小泉は貪欲な権力欲、地位欲から創価学会と組んだが、「逆を言えば地位のためなら何でもできるのが小泉という男なのです」という指摘は、平野の小泉・公明党の関係についての指摘と響きあう。今後、民主党など野党のなかでの政治変動、自民党の再編など、政治の転換が起こるなかで、自民・公明の推薦で政治家になり、それを自ら否定する方向に進んだ平野の指摘は、いろいろと意味を持ってくるように思う。

(文中・敬称略)