雑談(48)検索エンジンの功罪  2006年2月27日

がこの7年編集に関わっている三省堂『新六法』。その2005年版の別冊付録として、『インターネット・法律検索道場――ビギナーからエキスパートまで』を企画した。2006年版でそのヴァージョンアップ版も出した。その最初の企画会議の場で、筆者の一人のいしかわまりこさんから、Googleの検索エンジンの「I'm Feeling Lucky」の使い方を教えていただいた。試みにある言葉を入れて、ボタンを押してみることをおすすめしたい。あるページが一つだけ表示される。何が表示されるのかはGoogleの基準によるので、その中身は不明である。ただ、この機能をうまく使うと、探しているページに最短でたどり着けるので、実に便利である。なお、法情報の検索・調査についてより広く、より深く学びたい人は、この分野の草分け的存在である指宿信ほか監修『リーガル・リサーチ〔第2版〕』(日本評論社)を参照されたい。

  検索エンジンの発達によって、情報の収集や入手は格段に便利になった。同時に、便利さだけではすまない問題もいろいろと体験することになった。例えば、ここ2、3年、メディアから奇妙な取材依頼がくるようになった。
  
昨年、私の研究室にある第二次大戦中の陶器製手榴弾を貸してほしいとの依頼がきた。あるバラエティ番組でタレントたちに当てさせるという趣向である。「わが歴史グッズの話」の写真がプリントアウトされ、担当ディレクターの手元に届いたようである。私の「歴史グッズ」は、人の生死に関わるものが多く、研究室に行くたびにお香(京都の老舗のもの)をたいている。だから、バラエティ番組で笑いの対象にされるのは不本意である。

  「先生は世界の売春問題の専門家とうかがったのですが…」とか、「先生のご専門の同性婚についておたずねしたいのですが」といった電話もかかってきた。一瞬、何のことかわからずにいると、取材ディレクターはGoogleで検索して、ゼミのホームページのレジュメをヒットさせ、そこから指導教員の私を「その道の専門家」と誤認したらしいとわかる。私のホームページを見たのかと聞いてみると、まったく知らないというケースもあった。検索エンジンを使った安易で簡易な取材申し込みはこれからも増えるだろうが、何ともさみしい気がする。

  私のゼミナールは、テーマの選択、取材・調査、発表まですべて学生の自主性に委ねている。試しにYahoo!で「同性婚」と検索すると、水島ゼミの7、8期生のレジュメ(2002年)がヒットする。当時、この問題に関心のあるゼミ生が各期にいたので、ゼミの報告・討論もけっこう力が入っていたのを思い出す。
  
ゼミは180分連続でやり、前半を報告、後半を討論にあてる。ネットに出ているレジュメは、討論のための論点などを簡潔に書いたものが多い。だから、それ自体に資料的価値はないと思うが、その時代の焦点となるようなテーマはだいたい拾っている。同性婚問題も何年かごとに扱ったことがあるので、私が同性婚問題に詳しいと勘違いされたらしい。
  
一番驚いたのは、関東地方のある市議会で、議員が水島ゼミのレジュメを使って質問をしたことである。2004年のこと。その市の教育委員会事務局の方からメールが届いた。当時、その市で問題になっていた「学校選択制」について、市議会議員が、水島ゼミのレジュメを示しながら質問をしたというのだ。教育委員会の職員の方は、学校選択制に関する報告レジュメに出ている文献・資料の所在などについて質問してきた。2001年にそういうゼミをやった記憶はあるが、資料を含めて、すべて2001年度の発表班の4、5期生しか知らない。彼らは、当時、東京都内でこの制度を採用していた自治体に取材にいったりして報告を準備していたから、資料や文献は私の手元にはない。彼らも保存しているか不安だったが、すぐにゼミOBにメールで連絡をとってもらい、当時の発表班に属していた元ゼミ生からの情報を先方に伝えた。市会議員は、質問を準備する過程で検索エンジンを使い、わがゼミのホームページにたどり着き、それをプリントアウトして質問したようである。何とも安易で簡易な調査と質問ではある。

   こんな問い合わせもあった。昨年9月。ある地方国立大学の教育学部のゼミで、課題レポートの参考文献欄に、『検定制度に違法あり!』をあげた学生がいた。検索エンジンで調べると、水島ゼミのサイトから引いてきたことがわかったとして、担当教員から私にメールが届いた。「文献引用の仕方について、確認したいことがありますので、上記文献の入手方法について教えていただけないでしょうか」とあった。4年も前にゼミ生が図書館あたりでみつけたものだろうと思った。私の研究室にも現物はあるが、学生に貸した記憶も痕跡もない。早大図書館のサイトで所在を調べてみると、その本は中央図書館と法学部学生読書室の2箇所に所蔵されていた。当時のゼミ生はそのいずれかで借り出し、報告に使ったものと推測される。Googleで「検定制度に違法あり!」と検索すると、二つのサイトがヒットした。最初にヒットした「れんだいこ」氏のサイトをみると、2001年当時のゼミ生のレジュメを無断でコピーしたものが貼り付けてあった。リンクを消し忘れているので、すぐにそれとわかる。しかも、当時のゼミ生がレジュメを書くときに、文献名を間違って書いたことも今回わかった。彼らが参考にした文献は、教科書検定制度を支援する全国連絡会編『検定に違法あり!』(青木書店、1997年)だが、レジュメは「『検定制度に違法あり!』」になっていた。「れんだいこ」氏がそのままコピーしてネットに出しているので、間違ったタイトルが2箇所に存在することになり、たまたま某国立大の学生がそれをコピーして使ったわけである。検索エンジンによって、間違いの連鎖が生まれていたことがわかる。担当教員は、学生に対して、きちんと現物にあたったのかを問いただしたいということだろう。間違った検索をして、タイトルを間違えた2箇所がヒットし、そのうちの一つは無断引用だったこともわかった。ネットで起こる「奇妙な世界」である。後日、その担当教員の方には、正確なタイトルを検索すれば、当該文献の入手に必要な情報がきちんと出ていることを知らせた。

  インターネットの普及によって、またパソコンで原稿を書くことが一般化することによって、面白みのない、画一的な文章が多くなったように思う。パソコンで原稿を書かない私としては、手書きの感触は大事にしたいと思っている。だから、近年の答案やレポートを見ていると、よく似た文面が多く、「平均的」なものが目立つのが何ともさみしい。コピー機能を使って、安易に「増文」していくのだろう。文献の引用も厳密さを欠くものも出てきた。ネット時代の影響は、学問の進歩にプラスと同時にマイナスももたらしているように思う。
  ちょうど30年前、頼まれ仕事のために図書館でほこりにまみれた古い法令集の山にいどみ、ゲラ(校正刷り)の法令番号を原本で確認する作業をやったことがある。夕方に書庫から出てから、くしゃみがとまらず難渋したことを覚えている。いまは、図書館のデータベースにアクセスして数秒で見つけることができるし、その周辺情報も昔ならば何週間もかかったようなものまで、ついでにゲットすることも可能だ。本当に便利になったと思う反面、古い法令集の「匂い」が懐かしい気もする。

  人と人とのコミュニケーションについても同様である。かつて私は携帯メールの効用について書いたことがある。しかし、この元旦の新聞に出ていた投書を見て違和感を覚えた。『朝日新聞』2006年1月1日の「声」欄(オピニオン面)の特集は「私の宝」だった(東京本社版)。恩師の言葉やら、母の手製足袋といった「小さなドラマ」を含んだ投書が並ぶ。そのトップには、「父のメールで授業中に号泣」という見出しの投書が載っていた。筆者は新潟・長岡の実家から離れて千葉の大学に通う女子大学生(19歳)。父親が近況をメールで伝えてくるのだが、娘は返事をしない。6月の授業中、パソコンでメモをとろうとしたら、「新潟で震度5」というニュースがウェブサイトに飛び込んできた。「授業中だったので、通話はできず、急いで父にメールした。すると父からすぐにメールが返ってきた。『大丈夫だ。地震が多いから、今後何かあった時のために遺言を残す。お前の好きなように生きな。たとえ何を言われても。お前は人に気を使いすぎる』。私は大泣きしてしまい、周囲の友人を驚かせた。それからは、父の駄じゃれ交じりのくだらないメールでも、愛着を感じて大切に保存するようになった」。
  
これを投書欄のトップにもってきた企画報道部記者とそれを承認したデスクは、ともに「お父さん」の視点からこの投書にウルウルしたのかもしれない。私にも娘がいるから、気持ちはよぉーーくわかる。しかし、である。その学生が受講する講義の担当教員の立場からすれば、この学生のやっていることは「とんでもないこと」ではないだろうか。同じ教員の目から見れば、このメールを「美談」にするのには抵抗がある。学生が静かなのでよくみると、全員が携帯メールに集中していたというような話もあるが、これは授業崩壊の新たな形態だろう。授業中に学生が突然「号泣」とか「大泣き」したら、授業担当者としては困るわけで、何事かと思うだろう。「父のメールで授業中に号泣」という見出しをつけた整理(校閲)部門の記者もまた、「授業中に号泣」という見出しのもつ意味について考えなかったのだろうか。

  インターネットの普及によって、今後、検索エンジンはもっと多機能化するだろう。額に汗して働くことを軽視して、ネットを使って、ワンクリックで何億も動かす連中の頭目が刑事訴追を受けることになった。手と足を使って、額に汗して図書館で調べ物をする。辞書をひく。新聞を切り抜く。手書きのメモの山をつくる。勉強というのは地味なものである。こうしたことを着実に、確実に積み重ねていくことが大切だろう。ネットはそうした態度や努力の上に初めて有効であり、また有益なのではないか。電子辞書の完全普及で、「辞書をひく」という言葉が死語になり、また新聞紙が消えて「新聞の切り抜き」という言葉がなくなるのは何ともさみしい、という「旧人類」にやがて私もなるのだろう。

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