雑談(58)「土」を考える  2007年2月5日

ヶ岳山麓を歩く。NHK大河ドラマ「風林火山」の影響もあって、この地が再び注目を浴びている。甲府から各地に通ずる基幹街道は、信濃方面への逸見路、駿河方面に向かう河内路、鎌倉方面への御坂路の3本である。武田信玄は、信濃攻略の戦略的必要性から、甲府と東北信濃を結ぶ最短距離の軍用道路を新たに必要とした。そこで信玄は、直線の軍用道路「棒道」を開拓したわけである。

  この棒道は、現在の山梨県長坂町の大井ケ森関所跡から、長野県富士見町の立沢までの約12キロ。棒道というだけあって、ほぼ直線に延びる道である。四季を通じて散策に適しており、八ヶ岳を間近に見ながら、はるかに甲斐駒ヶ岳をはじめとする南アルプスをのぞめる場所もある。信玄が村上義清を撃退した小荒間古戦場跡や、治水を行った「三分一湧水」などにも立ち寄る。
  「三分一湧水」には大いに感心した。流れてきた水が落差で勢いづいたところに正三角形の分厚い石が置かれているため、その石に当たった水が自然に右折、左折、直進して三方向に分流していく。見事なアイデアである。信玄の治水事業はここだけでなく、県内各所にみられる(高橋義夫他『風林火山の古道をゆく』集英社、2006年参照)。

  冬の棒道は道幅が広い。夏に歩いたときは、うっそうとした木立に覆われていたせいもあるだろう。冬は木々が落葉してしまっているので、遠くから見えてしまう。部隊移動の秘匿性はかなり落ちたのではないか。自然のなかを歩きながら、歴史について思いをはせるのも一興である。
  松林を歩くと、地面に落ちた松葉がクッションになって足裏にやさしく触れる。緑の松が茶色に変色し、地上に横たわり、やがて土となる。歩きながら、自然の呼吸、松林のサイクルを感じることができる。現代の生活で「歩くこと」はA地点からB地点への移動ということが多い。東京にいるときは、健康のためのウォーキングといっても、時計をみながら、とにかく一定の距離を歩いて戻ってくる。歩くことが自己目的化しているような気もしていた。ところが、信玄棒道をゆっくり歩いていると、歩くことが「土との対話」であることに気づいた。歩くことが楽しみになると、気づかないうちに、周囲の自然が語りかけてくる。

  1月4日のことだった。ガサッという音がしたのであたりを見回すと、鹿が6頭、群れをなして移動していた。餌を求めて、人がいる里にまで降りてきたのだ。じっとこちらを見つめて動かない。こちらが動くと、サッと移動を始める。距離は50メートルくらいか。これだけたくさんの鹿の群れと出くわしたのは初めてである。何ともいえない感動を覚えた。

  直立歩行をする人間は、2本足で体を支えている。都会にいると、足の裏は常にコンクリートや舗装道路と触れ合う。一律の感触。足裏で何かを感じとる能力はどんどん鈍化していくような気がする。自然のなかを歩いていると、足の裏はさまざまなものを感じる。前述の松林のクッションのような感触。冬道のザクッ、ザクッと音をたてる霜柱。ブナの林(落葉広葉樹)の何ともいえない浮遊感。土と直接触れ合いながら歩くことで、足が何かを感じとる。土は人間にさまざまなことを教えてくれる。人が死ぬことを「土に帰る」という表現があるが、本当に土は豊かなメッセージをくれる。水にもさまざまなサイクルがあって、「水のいのち」を感じることがあるとすれば、 土にも「いのち」があるのだろうか。
  私は特定の宗教をもたないが、たまたま2月21日はキリスト教の「アシュウェンズデー」(灰の水曜日)であると知人から聞いた。復活祭の前に行なわれる儀式で、棕櫚(シュロ)の葉を燃やした灰を信者の額につけながら、司祭は次のようにいう。「あなたは土から産まれたもの、土にかえりなさい」と。

  山道を歩きながらそんなことを考えていたとき、たまたま、同僚の八巻和彦氏と八ヶ岳南麓でじっくりお話する機会があった。1999年から1年間、ボンでの在外研究中ボンの早大ヨーロッパセンター所長代理だった八巻氏には大変お世話になった。それ以来、家族ぐるみで懇意にさせていただいている。八巻氏には、15世紀の哲学者・枢機卿のニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』(岩波文庫)の訳書など多数の著作がある。クザーヌスは、「知ある無知」「反対の一致」などカオスの中世から近代的思考を準備した思想家である。
  その八巻氏から、地元新聞に書かれたエッセー「山梨に〈根と土〉を掘り起こす」(『山梨日日新聞』2006年12月15日付文化欄)を頂戴した。そこには、ご自身の生活体験を交えながら、人間と自然のありよう、大隈重信のこと、地方活性化のヒント、さらには教育の本質に関わることまで、さまざまな問題が触れられており、実に興味深かった。「地に足をつけて生きてこそ、初めて人間らしく生きていることになる」「人もまた土のなかに根を張って生きている」などの指摘には、ひとつひとつ共感した。そこで、八巻氏の許可を得て、エッセーの全文を紹介することにしたい。



山梨に〈根と土〉を掘り起こす

八巻 和彦

  高度成長の時代から、私たちはあまりにも〈土〉を嫌ってこなかっただろうか。泥道がアスファルトで覆われることを喜び、土を耕す生業を厭い、土壁よりは合板とコンクリート造りの家を好み、地面からできるだけ遠い生活を高級でオシャレだと考えてきた。その極みが超高層マンションに住むヒルズ族だと言うのは、断定が過ぎるだろうか。

  週の間を東京で働き、週末にふるさとに帰るという生活を続けている私は、金曜日の夜、車を降りて庭の土を踏みしめると、名状しがたい安らぎを感じる。無意識のうちに深い息をすると、夜を包む空気にかすかな土の香りがする。その香りは季節によって変わるが、土に養われるさまざまな生命の存在を静かに知らせてくれる。

  土壌は、植物にとってだけではなく、人にとってもまた、大事なものだ。有機分豊かな土からの恵みで栄養を取り、厚い地層を通して涵養されたおいしい水で命を延ばすというばかりではなく、地面に支えられて立ち、地に足をつけて生きてこそ、初めて人間らしく生きていることになるはずだからだ。

  一本の樹木が立派に育つためには有機分に満ちた土壌が必要であるように、人が人らしく生きるためにも豊かな〈土〉が必要だ。青年時代に生まれ育った土地を離れてみることは、トマトの移植と同じで、立派な実をならせることにつながる。しかし、年老いてからの移植は、庭木の古木の移植が難しいように、その人の寿命を縮めやすいようだ。親孝行をするつもりで故郷から都会に呼び寄せた親が、ほどなくして病にかかり、あっけなく亡くなってしまった、という話をよく聞く。これは、人もまた土のなかに根を張って生きていることをあらわしているだろう。

  個人としての人にとってだけではなく、人の集団である社会にも〈土〉の存在は不可欠だ。古来、ヨーロッパでは都市の繁栄のためには、近くに豊かな自然が必要であるとされてきた。そして、いたずらに膨張して自然を破壊した都市は、そのために衰退し滅びたと言われている。つまり〈土〉をないがしろにしたことのツケである。今、大都市と地方の格差を広げつつある日本には、このことが当てはまらないのだろうか。

  東京を、外国からもよく見える一本の「樹木」に例えると、地方はそれを支えて養う〈根と土〉と言えるだろう。地方は、都会の住民にリフレッシュの場を与えるばかりでなく、首都の仕事を担いうる人間力豊かな人材を涵養して供給する場でもある。
  早稲田大学の創立者である大隈重信は、卒業してゆく学生に対して、「諸君は日本一の村長になりたまえ」と言ったそうだ。九州の佐賀から上京して、維新直後の政府で十年以上にわたり首相をはじめ三つの大臣を兼務して奮闘した大隈は、幕府の所在地であったにもかかわらず東京という都会には優れた人材が乏しいことを知った。
  日本の近代化を成功させるためには、全国津々浦々の国民の涵養が不可欠であることを痛感したのだ。だから彼は、早稲田を設立する十年前に、閣内の反対を押し切ってまで、全国一律に義務教育制度を実施していた。

  この大隈の呼びかけに応えた卒業生が山梨県にもいた。典型的な人物は、村長になる前に病没した丹沢正作である。彼は今の市川三郷町で生まれて早稲田で学んだ。その後、故郷に帰って旧上野村役場に勤めながら、自ら開設した「平民学校」という夜学で農民に法律や英語を教えて、「山の先生」と尊敬されたという。

  「土に生れ土の生むものを喰って生き而して死す畢竟我々は土の化物である土の化物に一番適当なる仕事は農である」と、丹沢は小作組合の「創立の趣旨」に記している。大正末年、五十歳の時に助役で亡くなったが、その遺徳を偲ぶ人々により昨年「山の学校」が復元されたことは、本紙でも報道された。
  丹沢のような先人の努力を想い起こしながら、今なお土が香る山梨で、人間にとっての〈根と土〉の意味を掘り起こしてゆきたい。

やまき かずひこ 1947年生まれ。早稲田大学卒。東京教育大学大学院博士課程中退。早稲田大学広報室長、同大商学学術院教授(西洋哲学専攻・文学博士)。北杜市高根町在住。
(『山梨日日新聞』2006年12月15日付文化欄)

             

  《付記》転載を快諾していただいた八巻和彦氏に謝意を表したい。本稿は入試・学年末繁忙期のストック原稿である。一部読者にお送りしている「直言ニュース」も隔週配信となっている。ご了承いただきたい。

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