雑談(70)ブログをやらないわけ  2008年10月27日

らく友人・知人などに送信してきた「直言ニュース」(件名「直言更新しました」)の配信を8月から中止している。プロバイダーが導入した迷惑メール対策の影響である。8カ月ほど前に、「迷惑メール対策のジレンマ」でそれについて説明した。その後、プロバイダーが送信規制をさらに強化したようで、別途うまい方法が見つかるまで配信を中止することにしたものである。表現の自由に対する規制立法の「萎縮効果」(チリング・エフェクト)が問題となるとすれば、こちらは「徒労効果」(タイアド・エフェクト)ともいえる。ただ、直言は、毎週欠かさず更新を続けている。今後も続けていくので、月曜の朝にはasaho.comをクリックしていただければ幸いである。

  近年、ブログが爆発的に普及している。2006年4月に総務省が発表した数字では、ブログを開設している人は868万人にのぼるという(佐々木俊尚『ブログ論壇の誕生』文春新書)。この集計から2年半が経過しているので、現在はもっと多いだろう。私の友人・知人のなかにも、ブログをやっている人はけっこういる。パソコンで原稿を書かない私はおよそ今風でないやり方でホームページを、週に1度、11年9カ月欠かさずに更新している。ブログならば、ホームページのようなhtml文書の知識や手間隙もいらない。もっと頻繁に発信できるだろう。しかし、私はブログとは距離をとっている。その理由を「雑談」として述べて、今回の直言としたい。

  ブログの特徴の第1は、その匿名性ないし半匿名性にある。実名・顔写真入りというのもたまにあるが、プロフィールをきちんと出す人は少ない。「人」といったが、個人であるかどうかわからない。集団で運営しているブログもあるようだ。女性を装った男性(その逆?)のような性別、職業や肩書、個人を特定することなく、ハンドルネームのような形でネットに登場する。そのことにより、私生活上の徒然(つれづれ)なるものを書き流したり、読書感想文や映画・音楽評、あるいはその時々の見聞や体験などをフランクに公表できるのだろう。ネットという仮想現実のなかで、ちょっと別の自分を演出してみるという欲求も満足できるのかもしれない。そのため、職業などから、人物の特定が十分に可能な場合であっても、あえて実名を出さず、自分に関する周辺情報を掲載して、「半匿名性」を維持するものも少なくない。
   その気安さからか、ブログでは、掲載文書の出典がいいかげんなものがあり、また、他人の著作物やホームページの記述や写真などを無断で、おおらかに貼り付けているものもある。実名なら、およそできないことが、匿名・半匿名のおかげで、けっこう奔放に行われているのが現状である。著作権やアイデアの拝借などにも無頓着・無自覚なブログがけっこう多い。深くは考えずに、とにかく自分の知りえた情報を人に教えてあげたいという、「善意」(括弧付きだが)のなせるわざであろう。

  大学教員のように、ある程度名前を知られている場合でも、匿名でブログを出すケースが多い。ブログ中の情報をみれば、大学や個人名を特定でき、また著作物の紹介などをやれば、「誰か」はすぐにわかる。ならば、最初から実名でいけばいいと思うのだが、ブログではプロフィールをできるだけ抽象的にして、匿名性を維持したいようである。本人なのに、本人といわない、すれすれの感覚で発信する。これが、ホームページにはなかった、ブログの特徴なのかもしれない。

  とはいうものの、大学教員は、発言とその中身に責任を持たねばならない職業である。それらしきブログには、「ぶっちゃけ」「つぶやき」「独り言」「あれやこれや」「トホホな日常」「非日常」「暇つぶし」など多数ある。いずれも匿名で、研究・教育上の出来事や、私的な体験、食べ歩きなどを、日記風にして公共空間に排出している。自分の趣味や雑談などについて発信するのは、それぞれの自由だろう。だが、その日に食べたものの写真を載せたり、そこに同席した人の写真まで出してしまうものもある。当事者の同意を得ているのだろうか。
   私も「直言」のなかで、今回のような「雑談」シリーズを出している。通常の「雑談」のほか、「音楽よもや話」「食のはなし」というシリーズもある。私の趣味の世界である。現在のホームページ「平和憲法のメッセージ」を維持しながら、直言の「雑談」シリーズだけをブログにするという方法もあるが、私はそれをしない。「雑談」についても、憲法問題などと同様、プリントアウトして推敲し、それなりに気合を入れて出したいからである。

  ブログの第2の特徴として、簡易性と速報性、即時性がある。ブログは、誰でも、比較的簡単にコンテンツの更新・追加ができる。容易かつ迅速に発信できるということは大きなメリットといえる。世の中の出来事に対する言及や意見表明、情報提供が短時間で可能となり、24時間いつでも公表できるし、見ることもできる。発信の「量」という面では、更新に手間を要するホームページと格段の違いだろう。
   だが、他方で、簡易で安易な手段というのは問題も少なくない。ネットの世界では、公私の区別が相対化され、公的言説が限りなく軽く、無責任になる傾きがある。人への批判や非難を「つぶやき」や「独り言」の形で垂れ流していく分、「出す」側は気楽だが、批判を「受ける」側からすればたまったものではない。根拠のない、打撃的な言説が大量に吐き出されると、人や組織などに対する評価を貶めることにもつながる。まさに「言葉の暴風」である。

  第3に、ブログの場合、双方向的な意見交流が可能になる。これはプラス面で、これが発展すれば生産的だろう。ブログは、どこの誰もがコメントをして参入できる。「通行人」とか「通りがかり」という名前で。これは「名無しさん」という、ネット掲示板の書き込みを、個々のブログにセットしたようなものだろう。だが、乱暴で不愉快な書き込みへの対応に時間をとられ、言葉の醜い応酬に発展するケースもあるようだ。書き込むのが趣味という暇人や、「荒らし」専門もいるから、双方向性は、ブログを活性化させる反面、実にリスキーな面にもなっている。

  第4に文章・文体の問題がある。大学教員が出しているブログでも、不愉快な文章や文体に出会うことは少なくない。自らの名前で出す論文や小論、エッセーなどでは決して使わないような文章・文体が使われる。
   日記風だから、書いていることに厳密さが欠けている。勢い、人に対する批判も粗削りになる。推敲しない文章を、そのままネットに出すわけだから、言葉も滑る。熟慮なく、思ったままを書き流していくから、言葉の「垂れ流し」になる。
   人の批判についても、印象的なものになりがちである。いや、その方が好まれる。その意味では、唾を吐くように言葉を吐き出すことの多い「2ちゃんねる」というネットダスト文化、そこで使われる用語が、ブログの文体や雰囲気にも微妙に反映しているとはいえまいか。
   ネット上の闇討ち。ある日突然、まったく予期しない言葉の弾丸が打ち込まれる。ブログは匿名・半匿名だから、まったく気楽に言葉の弾丸を撃ち続けるわけである。

  ブログの文体の荒れは、時に足をすくわれる。東京の私大准教授のブログが「炎上」したケース。この准教授は、「山口県光市母子殺害事件」の最高裁判決に言及して、この事件での死者を1.5人と書いた。それを読んでみた。いいたいことはわかるが、赤ん坊を0.5人とカウントするなど、例えはきわめて不適切である。だが、こういうものが出てくる必然性はあると思った。他の記述も非常に荒っぽく、ただ思いついたことを垂れ流していくと、こういうつまずきも生まれるだろう。研究者として、研究面では厳密なのだろうが、ブログはお気楽な食べ物日記みたいなものだから許される、としたら思い違いである。私生活上のことや、その時々の徒然なるものを書くときにも、「文章を書く」以上は品位と抑制が求められる。この人は、毎日のように荒っぽい言葉で発信していくうちに、人間を年齢により「0.5」などと例えて平気になってしまったのだろうか。残念なことである。このように、ブログの文体の荒れは、気づかないうちに思考の荒れにもつながる「毒」を含むように思う。要注意である。
   なお、地方議会でブログが問題にされたケースが、静岡県沼津市、東京都東久留米市、茨城県水戸市、青森県弘前市などの議会で起きている。ブログで「議員を侮辱する表現を掲載し続けた」ということで問責決議をされた議員もいる。ブログ特有の文体や文章のため、必要以上に同僚議員を怒らせたということが推測される。

  ブログでは、匿名で人を傷つける言葉や文章を軽い気持ちで書くことができる。書いた本人がそんなこと忘れてさっさと次にいっても、書いたものは検索エンジンでしっかりヒットする。
   内田樹氏は、週刊誌『アエラ』(2008年4月14日号)巻頭コラムで、「『匿名の悪意』との付き合い方」を書いている。「ネット上の炎上対策は通常の消火法と同じである。酸素を供給しない。『酸素』とは反論のことである。…私は匿名の批判には決して回答しない。罵詈や冷笑の語をできるだけ多くの読者の前に黙って置く。ブログの場合、日が経つうちに話題が変わり、書き込まれた批判が時事性を失うと同時に、書き手の焦燥と飢餓感だけが死んだ獣の骸骨のようにそこに残る。匿名の悪意がどれだけ醜悪なものであるかは、それを隠蔽したり除去したりせず、満天下にさらすことでより教化的な意味を持つと私は思っている」。まったく同感である。

  韓国では、悪質な書き込みに刑事罰を科す主張がある。『朝鮮日報』2008年10月15日付は、「悪質な書き込みの発信地への法的責任強化を」という論説を掲載。「匿名性の裏に隠れた中傷やうその流布は“サイバーテロ”“人格殺人”」であるとして、サイバー侮辱罪を新設して悪質な書き込みを処罰すると同時に、ネットに完全実名性を導入すべきだという主張を紹介している。完全実名性はさすがに行き過ぎだろう。しかし、ブログが普及すればするほど、そうした規制の口実を与えるような、新たなトラブルは確実に増えていくだろう。

  では、ブログの今後について、どう考えたらいいか。表現の自由の行使方法や形態は、きわめて多様な仕方で発展している。ブログは、表現の世界をどう変えていくだろうか。「社会的地位の度外視、タブーなき言論、参加のオープン性」。これらはブログを中心とする「ネット論壇」を特徴づけるものとされ、それは「新たな世代の、新たな公共圏の生成」と評されている(佐々木・前掲書)。ただ、そこでも指摘されているように、まだブログの大半は私的な身辺雑記であり、無数の極私的ブログがどんなに連携しても「ネット論壇」を形成するには、なお距離がある。今後の可能性は未知数である。私でも、もし手を出せば、おそらく「垂れ流し」をしてしまいそうなブログとは今後も距離をとり、1週間に1度のホームページの更新を、淡々と続けることにしたい。   

トップページへ