「フィルタリング思考」の危うさ 2009年6月22日

6月18日、臓器移植法改正案のA 案が衆議院を通過した。先週の直言で「走る国会」への危惧を表明したが、A案が一回目の採決で可決されるとは予想していなかった。多くの議員にとっても「想定外」だったという(『朝日新聞』6月19日付「時時刻刻」)。まさに「A案 駆け込み票固め」(『朝日』同の見出し)の結果だった。「走る国会」から「駆ける国会」に「進化」したかのようだ。

A案からD案までの4法案は議員立法(「衆法」)である。内閣提出法案(閣法)ではない。与党内でも意見が分かれ、結局、本会議で「ぶっつけ本番」の4案採決となったわけである。「脳死は人の死」という前提に立ち、年齢制限なしに子どもからの臓器提供も可能とするA案が最初に可決されたため、他の3案は廃案となった。賛成263、反対167。党議拘束を外した採決のため、麻生首相や石破農水相、鳩山民主党代表、公明党太田代表も反対にまわった。棄権・欠席も多く、議員たちは最後まで迷ったようである。「人の死」に関わる重要法案が、このような形で採決されたことに、私は大きな危惧と憂慮を抱く。本会議での「ぶっつけ本番」にまかせるというのは、立法の作法としても安易である。私が重視したいのは、法案を審議した厚生労働委員会の委員45人のうち、27人が反対か棄権を選んだ事実である(『朝日』同上)。参考人の生々しい意見を直接聞いて審議を行った担当委員会のメンバーは、その6割がA案に賛成しなかった。「人の死」という最も熟慮と熟議を求められる問題について、担当委員会の多数が実質的に反対するにもかかわらず、本会議で一気に可決した。これは拙速どころではない。

海賊対処法案も3分の2の再可決(憲法59条2項)によって成立した。この法案については、衆議院で参考人として反対意見を述べただけに、何らの修正協議も行われることなく、強引に成立させられたことに深い怒りを覚える。すでに陸海空3自衛隊の統合運用が現地に行われており、既成事実の法的追認・拡大の意味をもつ。憂慮すべき事態である。

このように重大な問題が次々起きている。だが、目下、私のスケジュールは超過密状態で、直言の書き下ろしをこれ以上続ける時間がない。いますぐ札幌に向かう必要があるからだ。そこで、ここから先は、既発表の原稿を転載することにしたい。

実は、先週、神奈川県の高校2年生から電話で取材申し込みがあり、その後メールで取材趣旨を送ってもらった。授業の一環として、生徒たちが私に意見を求めることにしたようである。メールの件名は「青少年と携帯電話の関わりについて」。質問は、フィルタリングサービスをめぐる問題が中心だった。ところが、授業や会議などが集中していて、せっかくの高校生の質問に十分に対応することができなかった。そこで、雑誌『科学』(岩波書店)2008年8月号に書いた原稿を転載することで、彼らへの質問にもこたえたいと思う。


「フィルタリング思考」の危うさ

11年ほど前にホームページ「平和憲法のメッセージ」(http://www.asaho.com/) を開設して以来、毎週一度、「直言」というエッセーを欠かさず更新している。私は典型的な「文系人間」で、テクニカルな方面には疎い。更新作業は管理人に任せてきた。原稿書きにはパソコンを使わない。ネットに出す文章も、いまや「絶滅危惧種」となったワープロ専用機(親指シフト)で作成し、プリントアウトして推敲した後に、変換ソフトでパソコンに取り込んでいる。ブログにもメーリングリストにも手を出さない。こうして週一度の「直言」更新と、それを知らせるメール(「直言ニュース」)を友人・知人に細々と送り続けてきた。

ところが、この2月、困ったことが起きた。私が利用しているプロバイダーが「メール送信制限」を導入したのである。迷惑メール対策ということで、送信メール1 通あたりの最大同報数を100宛て先までとして、それを「1単位時間」内に1回しか送れないようにしたのである。私の場合、約1200人にBCC送信しているので、80人前後の宛て先に絞ったBCCメールを15通ほどスタンバイさせて送信しようと試みた。だが、「1単位時間」が予測できないため、全部送るのに3時間近くかかってしまった。プロバイダーに問い合わせても、「送信制限の基準に関しましては、セキュリティ上公開しておりません。基準となる値を公開することによって、意図的に制限の範囲内で送信が行われることを防ぐための措置となります」と、にべもない。その結果、毎週送信していたニュースは、隔週にせざるを得なくなった。

この規制は、送信に手間隙をかけさせ、疲労感や徒労感を惹起させて、迷惑メール送信を抑制しようという設計なのだろう。譬えていえば、表現の自由に対する規制立法が、「こんな表現はやばいから、やめておこう」という「萎縮効果」(チリング・エフェクト)をもたらすのに対して、この「メール送信制限」は、「面倒な作業はやめよう」という「疲労効果」(タイアド・エフェクト)を生む結果になったのではないか。迷惑メールは困ったものだし、それに対する対策も必要であるが、規制が度を越すと、一般ユーザーにさまざまな不具合を生ずるという一例である。

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さて、インターネットに関する規制がまた一歩進んだ。6月11日、「青少年インターネット規制法」が全会一致で成立した。正式名称は「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律」。「安全」と「安心」をセットにしているところが曲者だが、それはともかく、目玉は18歳未満の青少年が、携帯電話を通じて「有害サイト」や「有害情報」にアクセスできないように、携帯を利用する際、フィルタリング(閲覧制限)サービスを義務づける点にある。「青少年の健全な成長を著しく阻害するもの」を「青少年有害情報」と定義。自殺誘因、わいせつ、残虐な内容の情報などが例示されている。

今のところフィルタリング作成への国の関与は抑制的な仕組みになっており、まず、携帯電話事業者の委託を受けた民間の独立事業者が、「有害」か否かにかかわらず、web上の全サイトをカテゴリ分けする。このなかから、各携帯電話事業者が「有害」と考えるカテゴリを選び、規制をかけている。ドコモとウィルコムでは、「政治」「宗教」「同性愛」といったカテゴリもフィルタリングの対象となる。その結果、掲示板やブログなど、双方向コミュニケーションサイトにアクセスできなくなる。政治や宗教関係のサイトも閲覧できず、一般の有益なサイトもアクセス不可になるものも出てくる可能性が指摘されている。例えば、カテゴライズ事業者が私のホームページを、政治に関する「主張」を含むと判断すれば、規制対象になるだろう。携帯でアクセスする高校生の読者もけっこういるので、そうなれば私自身にも関わる問題となる。

確かに国の直接的な関与は見送られたが、それは、逆にいえば、在野での過剰な規制に対する「法の支配」の歯止めがきかなくなることを意味する。情報を阻害された者を救済する手段も限定されてしまう。

フィルタリングの特徴は、「有害情報」に受け身で接する機会をも徹底して減少させることで、「有害」情報を事前・予防的に排除していく点にある。これは、情報の自由な流通を阻害するおそれがあるだけではない。一定のカテゴリの表現内容をあらかじめ排除するわけだから、表現内容規制と同様の自覚と緊張感が求められるはずなのだが、「青少年保護」の大義名分の前にスルーされる傾きにある。それに、18歳未満の青少年といっても多様である。小学生に対する規制には合理性が認められても、「後期青少年」である高校生まで一律に「よい子のためのよいサイト」だけに誘導するのはいかがなものか。「後期青少年」には、「有害」なものを遮断するのでなく、それに対する批判力を養うことこそ肝要だろう。

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フィルタリングについては、日本の裁判例は蓄積が乏しい。先行事例の多い米国の場合でも、フィルタリングソフトに関連して合衆国最高裁が1997年、2003年、2004年に判決を出しているが、同じ裁判官でも判断がかなり揺れ動いた。このことは、インターネットの法規制の困難さと危うさを示唆している。

なお、キャス・サンスティーンの『インターネットは民主主義の敵か』(石川幸憲訳、毎日新聞社〔2003年〕)は、早い時期に、フィルタリングの問題性を鋭く指摘していた。ネット上の情報過多から免れるためにフィルタリングを利用していくと、人々は自分の支持するサイトを訪れがちになり、それとは反対のサイトを訪れることは稀となる。他者から隔てられたコミュニケーションには、人々があらかじめもっていた選好や意見がより極端な方向で増幅される、いわば「集団(思考)の極化」の傾きが生まれる。サンスティーンが喝破したこの傾向は、日本においても確実に進行しているように思う。

今回成立した「青少年インターネット規制法」の発想は、「有害情報」との出会いの可能性をパターナリスティックに(「あなたのために」)遮断するところにある。しかし、それはインターネットの特性を損なう規制の「芽」を確実に含んでいる。人々がインターネットを利用しづらくなり、その不自由が「普通の状態」となる。まずは「全会一致」となる青少年保護から始まり、それを基礎にして、より巧妙な規制が進んでいく。そうしたなかで、「誘導された思考」を自由な思考と誤想する「よい市民」が生まれていく。インターネットを使いこなすだけの市民社会はまだ成熟していないことを前提にして、もう少し時間をかけて問題と向き合う余裕が必要なのだが、「即効性」を求める世論はそれを許さない。「全会一致」の怖さが目の前にある。

いま、「迅速性」「効率性」「採算性」が突出し、人々は完璧な「安全」と「安心」を求めはじめている。完璧さを求めれば必ず失われる「何か」がある。選択の前に、それが「何か」を考える時間と想像力も必要ではないか。私個人は、前述のような非効率で鈍行的な行き方と生き方を生活のなかに取り組むことで、ささやかな努力を続けている。

〔『科学』(岩波書店)2008年8月号「〈フォーラム〉ネット社会のガバナンス」第2回914〜915頁所収〕


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