新聞の衰退は政治の腐敗の始まり?――「新聞をヨム日」 2010年6月14日

6 月2日に鳩山首相が辞意を表明するまで、 普天間問題はメディアに連日のように取り上げられていた 。 だが、3日付朝刊から、新聞各紙は様変わりする。民主党内人事から菅内閣の発足へ。政党支持率も内閣支持率も、民主党優位に転換。普天間や沖縄についてのメディアの関心は一気に下がった。沖縄を「熱心に」取り上げたのも、鳩山政権を批判する一つの切り口にすぎなかったのか、と思えるほどの急変ぶりだった。

菅直人首相は6月4日、「鳩山政権の下で形成された合意をしっかりと踏まえる」として、辺野古「移設」の「日米合意」 に沿って対処する姿勢を確認した。この点について、メディアの反応は鈍かった。すぐに反応したのは沖縄の地元紙である。「菅首相が日米合意を尊重する意向を早々と打ち出したことで、今後の『迷走』を確定的にしてしまった。…無批判に日米合意の継承を宣言した菅首相は果して基地問題を解決する秘策があるのだろうか。…菅首相は過去に何度も『海兵隊撤退論』を主張した。…普天間問題で政府が説得する相手は沖縄ではなく米政府であるはずだ」(『沖縄タイムス』6月5日付社説)と。

今後、菅内閣は安保条約や米軍地位協定見直しに向けて、本気で米国と交渉する用意があるのか。現時点では、過去の政権との連続面ばかりが目立つ。 首相は、高杉晋作の「奇兵隊」にあやかって、「奇兵隊内閣」と形容してみせたが(6月7日首相就任会見)、同音異義語で「騎兵隊内閣」と誤解されたらどうするのだろうか。 「海兵隊」の問題に真剣に取り組まないと、対米追随の「騎兵隊内閣」になりかねない。辺野古「移設」によって、国土面積「最小」グループ(44位)の沖縄県に「最大不幸」をもたらす内閣となれば、「“第七騎兵隊”内閣」になって自滅するだろう。しっかり監視していく必要がある。

普天間問題では、「本土の新聞」の論調はほめられたものではない。 特に『朝日新聞』主筆や社説の論調は、「これが朝日?」という類のものである。そうした内容とは別に、そもそも「紙」の新聞の存続が危ぶまれている。インターネットの普及で、部数低下はある程度見込まれたが、それにしても深刻である。そこで今回は、「紙」の新聞の意味について改めて考えてみたい。  4月6日は「新聞をヨム日」だそうである。なぜ「ヨム」と片仮名になっているのかわからない。 米国企業の多機能情報端末(iPad)を指で触って「ヨム」ということなのだろうか。 それはともかく、この日をはさんで、「もっと新聞を読もう」という趣旨の社説を掲げる新聞が多かったのは例年と変わりはない。

例えば『大分合同新聞』4月14日付社説は、池上彰『小学生から「新聞」をよく読む子は大きく伸びる』という本から、「新聞は社会と自分とのかかわりを知るだけでなく、生きたニュースを題材に学力を高めることができる最高の教材」という指摘を引用して、教育現場で新聞を活用する “NIE ”(Newspaper in Education) の試みを紹介している。NIE 実践校では、6割以上が「記事について友人や家族と話すようになった」「自分で調べる態度が身に付いた」と回答しているという。

また沖縄の『琉球新報』4月6日付も、「新聞をヨム日 読者と共に時代を刻む」と題する社説を掲げ、若者の活字離れ一般ではなく、30代でもインターネットでニュースを知る人が増えているなか、新聞「紙」の地位低下についても触れている。ネットの玉石混淆の情報の海から、信頼できるニュースを探すのはむずかしい、新聞は「記事の見出しの大きさが一つ一つ違う。 情報の価値を一目で表現する。この『一覧性』もまた、新聞に一日の長がある」と、「紙」の新聞の意味を説く。その上で、「基地問題で県内移設一色の政府を批判する姿勢」の沖縄地元紙は「頑張っている」という激励を受けることが多くなったとして、こうした「批評性」もまた、「新聞の存在意義」であるとしている。そして、「われわれは、理不尽を強いられながら個人の尊厳を守ろうと抵抗してきた沖縄の歴史を誇りに思う。…県民の意を体し、その声を代弁することは、沖縄の新聞の欠かせない機能だ。その期待に応えているか、日々点検しつつ、読者と共に時代を刻んでいきたい」と結ぶ。   いずれも、新聞「紙」を出す側の「我田引水」的社説であるという批判もあろう。だが、私は、新聞「紙」の意義を高く評価する一人である。iPadのようなものが普及していくと、新聞「紙」の凋落はさらに進むという見方が一般的である。そうしたなかで、「紙」で読む新聞の意味があるのだろうか。

日本新聞協会は、昨年10月に実施した「全国メディア接触・評価調査」の結果を発表した。「新聞を読んでいる人の割合は91・3%で、1週間の平均接触日数は5.2日(朝刊)」だそうである(『読売新聞』2010年6月7日付)。「新聞離れ」が言われるなか、この数字はやや楽観的にすぎるように思われる。 私個人は、インターネットが発達しても、「紙」の新聞の意義は失われないし、今後も失われないだろう、という見方をとっている。とりわけ教育の世界では、「紙」の新聞を使った授業が行われおり、それなりの成果もあげている。『大分合同新聞』社説に出てきた NIE がそれである。

  大学の専任教員になってから27年間、講義冒頭の「10分間コーナー」で、その授業までの1週間の事件について、新聞各紙を使って解説してきた。学生たちには、1週間の記事を切り抜いて、そのなかの1つをもって教室に来るように指示している。この授業方法が最もうまくいったのは、広島大学に勤務していた1994年頃だった。毎回、大講義室に行くと、教壇の上に、「これを解説してください」と、20枚以上の新聞の切り抜きとメモが置いてあった。この時の学生たちが、私の教員体験のなかで、最も熱心に新聞切り抜きをやっていたと思う。

早大に来てからは、インターネットの普及と相まって、授業に新聞の切り抜きを持参するものが年々減っていった。この2、3年は特に悲惨である。4月の授業開始時に、受講している期間だけでも新聞をとるようにと言っている。きちんとそれを守る学生もいるが、ほとんどは机の上に新聞の痕跡すらない。新聞を読まないだけでなく、ものを書く力も格段に落ちてきた。これはネットや携帯の普及と無関係ではないだろう。今年になって、「件名なし」の携帯メールがパソコンに届くようになった。パソコンを使わず、携帯ですませている学生が増えてきたことによる。必ず件名を書かないと迷惑メールになると、学生に言って聞かせた。この傾向はiPadが普及しはじめる来年以降、さらに進むだろう。 ネットや携帯が人間の思考にどのような影響を与えていくのだろうか。さまざまな学問分野の協力による根本的な調査・研究の必要性を感じる。少なくとも、思考の平準化、表面化、皮相化をもたらす一因になってはしないだろうか。

「検索エンジンの功罪」 を書いた頃よりも、最近、この傾向はさらに進んでいる。学生は「ググル」という言葉で、検索の結果、まったく標準的な情報をもっている。それ以上は掘らないから、ほとんど同じような意見で「予定調和的」にまとまる。学生らしいこだわりや、もっと深く、濃く考え、議論する手前で立ち止まることが多い。ネットの検索機能というのは実に便利だが、これが思考に本当にプラスになるのかどうかは疑問である。「理解できない」「情報がない」などの渇望感は、思考にとって、実は重要な栄養なのである。検索によって、ある程度以上の情報は安易かつ簡易に入ることで、「わかった気になる」。これは恐ろしいことである。新聞を、手を使って切り抜いて、何度も読んだりすれば、手作業が頭にインパクトを与える。 私は「新聞を読んで」 13年も続けている関係から 、新聞の報道の仕方、見出しの付け方、その段数などを詳しく語る。かつてはこれが講義で関心をもたれたものである。いまはネットしかみない学生もいるから、「紙」の新聞などには関心はない。ネットでは、大見出しや一面トップ、社面受け記事での連動などはないから、伝える側のニュースの扱い方の位置づけ、呼吸や熱さはまったく感じられない。ネットはただクリックし、面白いところに飛んでいく。そこに、「紙」の新聞のような手間はいらない。

香山リカさんが、『毎日新聞』(東京本社)に連載している「ココロの万華鏡」に、「新聞を読んでますか」という興味深いエッセーが載った(2010年4 月20日付)。若者の「新聞離れ」が深刻だという脈絡で、精神科医の立場で「ちょっとした問題が生じている」という。うつ病を疑ったときに患者さんにする「毎朝、新聞を開く元気はあるでしょうか」という質問が使えなくなったというのだ。「新聞、読んでいますか」ときいて、「いえ、まったく」という答えが返ってくると、「意欲やエネルギーがずいぶん低下しているな。これはうつ病の可能性アリだ」と判断するのだが、最近では、「もともと新聞は取っていません」「新聞読まないのは以前からです」と言われることが増えたという。「携帯でニュースをチェックしているか」と聞けばよいのだろうが、香山さんによれば、それと新聞とでは必要とするエネルギーが微妙に違う気がするという。

「たとえば携帯電話には、画面に自動的に最新ニュースが表示されるというサービスもある。それなら、こちらは積極的に何もしなくても、勝手にニュースが目に飛び込んでくる。ところが、新聞となるとそうはいかない。まず玄関のポストから取ってきて、それを机や畳の上に置いて、それから『よっこらしょ』と大きな紙をめくり、興味のある見出しがあれば、身を乗り出してあの小さな活字を読もうとする。かなりの積極性やエネルギーがなければ、『新聞を読む』という行為は成り立たない。だから、『毎朝、一応、新聞は読むことにしている』というのは、それだけで一定の元気、意欲がある、という証になるのだ」と。

そこで、香山さんは「いや、待てよ」と自問して、若者全体に「新聞離れ」が起きているとしたら、それはネットの普及や節約だけが理由なのではなくて、そもそもエネルギーが低下していて、「とても新聞なんか読む気になれない」という若者が増えているからではないか、と指摘する。これは深刻だと香山さんは言い、うつ病のチェックに新聞が使えなくなったいま、それにかわる質問は何かと問う。「ツイッターでつぶやいてますか」ではさみしい、と。  私も長年にわたって新聞を使った講義をやってきたので、香山さんの気持ちはよぉ〜くわかる。ただ、香山さんにせよ、私にせよ、やや古い(失礼!)世代からのノスタルジーだという声もあろう。米国をみれば、もう「紙」の新聞は消え去るのみ、という勢いである。

鈴木伸元『新聞消滅大国アメリカ』(幻冬舎、2010年)によれば、米国では想像を絶する勢いで新聞が消滅しているという。ケンタッキー州では地元新聞が完全に消滅する地域が生まれ、その結果、そういうところでは軒並み投票率が低くなり、新人候補者の数も減るなど、住民の地方政治への関心が低下しているそうだ。地元の行政は新聞に取材されることもなくなり、「地方行政の腐敗が始まる」という。新聞社がインターネット版を出しているが、そのサイトの滞在時間は短い。多くても1日で1分程度。検索でひっかかった記事をみて、すぐ別のサイトに移ってしまうというのが一般的だという。

 携帯電話では親指、iPadでは人指し指を使い、パソコンのキーボードも使えない、受け身でものぐさな人間がつくられていくのか。そうやって人々を怠惰にすることが米国企業の狙いだとすれば、iPadは新聞にとってもやっかいな「黒船」ということになろう。こうした「圧力」がどんなにあっても、米国型「ライフスタイル」がますます定着するとしても、安全保障を憲法9条に即して設計(デザイン)するのと同じように、日本は「紙」の新聞を残すべきであろう。

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