この「直言」に年に数回、「音楽よもやま話」や「『食』のはなし」など「雑談」シリーズを出している。入試とか、仕事がたて込む時期に、書き下ろし原稿を書くのはきつい。そこで、余裕のある間に書き溜めておき、適宜アップしている。というわけで、昨年10月以来になる「純粋な雑談」を掲載する。今回はラジオの話である。
最近、わが家のテレビをすべて「地デジ」にした。一体、こんな施策に意味があるのか疑問だったので、最後までやらないつもりでいた。しかし、家族のことも考え、導入を決めた。確かに映像はきれいである。今まで見えなかったものが見える。例えば、大相撲の力士たちの熱戦の向こうで応援している人々の顔や仕種が鮮明に見える。国会中継でも、今まで質問者と答弁者しか目がいかなかったのに、むしろ背後の議員や閣僚たちの表情や動きがよくわかる。今までうまく隠されてきたのだな、と感心するほどに俳優の「年齢」が見えてしまう…。テレビ文化はますます微細、詳細、ハイテンポに向かうだろう。でも、「見えすぎることのマイナス」はないか、と不安になる。今まで想像で膨らませていた部分が、圧倒的な映像の力によって萎んでしまう面はないか。まだレコードとカセットで音楽を聴いている私としては、「地デジ」から「ビデオ」(VHS)に録画できるよう仕組みも残したが、HDD内蔵の便利さに負けそうである。
さらに巷では3D映像が広まり、家庭にも入りつつある。だが、人間が本来もち、独自に磨くべき想像という力を奪う便利さが、どうも過度に押しつけられているような気がしてならない。「痒いところに手が届く」サービスというが、さして痒くもないところへ、「痒いところ」をたくさん創作されて、「ここも痒いでしょう」「これから痒くなりますよぉ」と急かされて、高い金を払って掻いてもらうようなものかもしれない。
26年前、札幌の大学に勤務していた時、交通事故で1カ月入院したことがある。信号が数キロ存在しない真っ直ぐの「道道」で、パンクしたため停車したところを、わき見運転の車に追突されたのである。ベッドで身動きできないなかでの楽しみは、イヤホーンでラジオを聴くことだった。FMのクラシック番組では、加賀美幸子アナウンサーの語りが心に染みた。少し低めのお声による楽曲の解説やつなぎの言葉が、実に音楽にマッチしていた。男女問わず妙にテンションの高いおしゃべりが多いなかで、こんなにも自然で落ち着きのある声があるのかと思った。首を負傷したので、ベッドで上を向いてジッとしていなければならない。だから、イヤホーンから流れる音楽と加賀美さんの声が、耳から入って全身に染み通るように感じられた。退院後、彼女の密かなファンとなった。初めて明かすが、著書も読み、「ファンレター」を送ったこともある。NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」のコーナーを担当して13年になるが、かつてこれが「ラジオ深夜便」の枠にあったころ、その加賀美さんに、「『新聞を読んで』。お話は早稲田大学教授の水島朝穂さんです」と名前を呼ばれたときはうれしかった。
交通事故で入院したとき、音楽のほかに実はもう一つ楽しみがあった。ラジオのサスペンスドラマである。毎日15分ほどの連続ものなのだが、これをベッドの上で聴くのが楽しみになった。音響効果は抜群。声優の数も多くはないので、一人何役で声を使い分けているのだが、これが実に上手なのである。いつの間にか、サスペンスの世界に引き込まれていた。ラジオドラマを聴いて、しかもそれに興奮したことは、後にも先にもこの入院中だけである。26年前の体験だが、病院の天井や周囲の風景とともに、いまも懐かしく思い出される。なお、この入院中に私の講義とゼミを代講してくれたのが、同僚の鳥居喜代和氏だった。
人は不自由になってわかることがある。ベッドの上で動けない時、私も耳からの情報に敏感になった。言うまでもなく、目の不自由な人には、「耳」からの情報は決定的に大切である。
少し意外にも思えるが、目の見えない方も映画を楽しんでおられる。その鑑賞を助けるための「シーンボイスガイド」というものがあるそうだ。その養成にたずさわる「視覚障碍者の情報環境を考える会」。映画の字幕朗読、画面説明、登場人物の台詞など、映像すべてを音声で同時通訳する。会長の岡本典子(よりこ)さんによれば、目の不自由な人にとっては、そのボランティアが「ひとつの映画の弁士、専属の声優」になる。その際、三つの「伝え方」が要求されるという。(1)よりわかりやすい言葉で、聞き取りやすく話す。相手を思う心・相手への思いやりが自分の話し方を育てる。(2)うまく話そうとは思わない。「正確」に「素直に表現」する。言葉はその人の人間性・心の現れ。(3)明るく・豊かに「相手に伝えたい」「あなたに伝えたい」という気持ち、である。
これは、ご家族がこのボランティアに関わっている友人から聞いた話である。ネットで調べてみると、岡本さんは東海地方で人気のあった深夜ラジオ番組「ミッドナイト東海」の元パーソナリティであることがわかった(『東京新聞』2010年2月3日付)。NHKの加賀美さんと同じく、ラジオで人気を得る人は違う、と改めて思った。
テレビでは、「女子アナ」はことさらに容姿が注目される。それにかなった人ばかりが採用され、男性週刊誌で話題になるようにタレント的に使われる傾きがあり、声や語り口などは軽視される。これではアナウンサーのプロ性がきちんと評価されていない。
広島大学に勤務した頃、NHKラジオの「昼のいこい」を車のなかでよく聴いたが、アナウンサーの語りはもう少しゆったりしていたように思う。最近久しぶりに聴いて、かつての雰囲気が失われていることが何とも寂しかった。あんなにテンション高く、明るいノリで語らねばならないのか。速度も早い。
1分間に語ることのできる文字数には限りがある。NHKアナウンサーは350字から400字程度と言われている。60年代に活躍した今福祝アナウンサー(懐かしい!)あたりは320字だったそうである。報道ステーションの古舘伊知郎キャスターは524字、久米宏キャスターは580字、小宮悦子アナウンサーは592字とされている。脇坂真治『プレゼンテーションの教科書』(日経BP)を紹介した文章に出ていた数字なので、あくまでも「そう言われている」という程度のものではあるが。私が「新聞を読んで」をやるときは、だいたい400字くらいにしている。昔に比べるとゆっくり話すようになったが、それでもまだ早口である。
制限時間内に、あれも伝えたい、これも伝えようと焦る気持ち、はやる心が早口を生む。放送のたびに反省しきりである。「伝える」のではなく、「伝わる」にはどうすればよいか。たくさんの内容を一度に伝えることは無理と割り切り、伝えたいことを、心をこめて語る。心からこの話を知ってほしいと思って語ったときは、リスナーの評判もよい。自分が心から思っていることはやはり「伝わる」のではないか。欲張っていろいろと付け足したものは、相手には十分に伝わらない。映像でごまかせない分、ラジオの世界では、「語り」に対する純粋で正直な姿勢が求められる。テレビで人気があったタレントでも、ラジオではさえなかったということがある。テレビのように、映像だけでも出しておけば視聴者に判断してもらえるという甘えは許されないから。
10年以上前になるが、「ラジオ深夜便」を担当していた女性アナウンサーがこんな話を紹介していた。「番組が終わるとき、『それでは皆さん、さようなら』とは決して言わないでほしい」と。番組にはリスナーからたくさんの手紙が届く。そのなかに、癌患者さんからのものが交じっていた。「この番組は私の生きる支えになっています。でも、最後に『さようなら』と言われると、私の命も終わりになるようで、とてもつらくなります」と。もともと私も「さようなら」は禁句ということが念頭にあって、ラジオで使ったことはない。「今日はこのへんで失礼します」とか、事件の解説のままで終了する。テレビでアナウンサーが「さようなら」と手を振って終わることはよくあるし、それが悪いと言われることはない。しかし、深夜のラジオに耳を澄ませている人たちは、一言、一言に鋭敏である。違和感のある言葉には、やはりしっくりしないものが残るし、乱暴な表現には反発もする。スタジオでマイクに向かい語る仕事の向こうには、200万ともいうリスナーがいる。私も回を重ねるごとに、早口をなおし、言葉を選び、できるだけ心に届く表現になるよう工夫した。でも、なかなかうまくいかない。これは私にとって永遠の課題である。
なお、「新聞を読んで」の41回分を収録した拙著『時代を読む――新聞を読んで1997-200』(柘植〔つげ〕書房新社)を出版して、来月でちょうど1年になる。