「安心保障」の先に何が――「安全・安心社会」の盲点(3・完) 2012年9月10日



本における監視カメラをめぐる状況については、8月20日27日の「直言」で書いた。ヨーロッパは日本よりさらに先をいっている。今回はその状況を紹介しつつ、過度な「安心保障」の先にあるものを考えてみたい。

INDECTというEUプログラムがある。これは都市における市民の安全のための監視・調査・探知の支援のための高度情報システムである。INDECTに関連して、ドイツのチュービンゲン大学のクイン教授(Regina Ammicht Quinn)は、『シュピーゲル』誌のインタビューで、「自由な社会にとっての監視技術の危険」について警鐘を鳴らす(Der Spiegel,Nr.31 vom 30.7.2012,S.111)。INDECTは犯罪行為を自動的に分類するため、監視カメラ映像と人物情報とを結びつけることを目的としている。教授はこのシステムを「あらゆる自由な社会の悪夢」という。監視カメラの情報と人物情報をリンクさせる手法はドイツでは違法となるから、INDECTをそのままドイツに持ち込むことはできない。監視カメラにより「普通でない(abnormal)態度(振る舞い)」を認識し、人物情報とリンクすれば、犯罪者が炙りだされてくる。だが、ここには大きな落とし穴がある。

 そもそも「普通でない」とは何か。教授はいう。「普通であることは、ここでは、例えば、明示的な規則、あるいは統計的に普通(ノーマル)であることにより技術的に確定される。例えば、歩行に障害がある人やホームレスが差別される危険がある。なぜなら、彼らは目立つ(auffällig)からである。しかし、私たちは、人間が目立ってはならないような社会に生きようとは思わない」と。

教授は倫理学の立場から、空港などで監視カメラにより「目立って見える人物」の識別に取り組むドイツ政府のプロジェクトに関わっている。その立場から、EUのINDECTでは、監視カメラの映像と多様な人物関連情報が自動的に結合されてしまう点を批判する

いずこにおいても、監視技術に税金が投入されるのはなぜなのか。それは、政治が、人々の安全要求に応えるからだと教授は指摘する。「安全が、日常的には食の安全に始まる主導動機(Leitmotiv)になっている。私たちは、かつて存在したなかで最も安全な社会の一つに生きている。だからこそ、多くの人々にとって安全でないこと(Unsicherheit)に耐えることはより一層困難になっている」と。

 監視カメラのプロジェクトに倫理学者として関わっていることもあって、監視の現場を知悉した上での批判には傾聴すべきものがある。ドイツも含めて、空港などでの「目立つ振る舞い」を捕捉する施策はかなり進んでいるように思われる。日本の顔認証も、容ぼうだけでなく、体の動きによってその人物を特定するところまできている。問題は、「目立つ振る舞い」を自動的に人物情報とリンクさせることである。クイン教授はそこに一線を引くわけだ。

もし犯罪情報や入国管理情報と、監視カメラが捉えた「目立つ振る舞い」をする人物の情報とを自動的にリンクさせるとどうなるか。例えば、道路を歩きながら、肩が凝ったので首を回したり、手で肩をトントンと叩いたりしたとしよう。歩く動作にしては明らかに「普通ではない」し、目立つ。今様の若者たちの言葉で表現すれば、「キョドる」である。「キョド」は「挙動不審」の略であり、「キョドる」とは、挙動不審な行動をとるという意味だそうである。刑事事件になるようなケースではなく、駅で電車を待つ列にいた中年男性が突然、ラジオ体操第二の音楽を口ずさみながら、それに合わせて体操を始めたというような場合がそれにあたる。当然、監視カメラはその人にフォーカスして、多種多様な人物情報と照合する。

 戦前と戦後すぐの時期の警察の「職務質問マニュアル」の類を持っているが、そこには挙動不審の例がたくさん挙げてある。服装と靴、所持品との組み合わせの不自然さ等々、こんなところまで観察しているのかと思う。警察官が我々の動きを「観る」視点の凄味を感じた。それを人力によらず、監視カメラに「普通でない動き」をする人を捕捉させるわけである。

EU諸国内では、さらなる動きがある。2012年1月から、ドイツとオランダの国境で、オランダ国境警備当局が「アミゴボラス」(Amigoboras)という新システムを導入した。これはドイツからオランダに入る国境ポイントで、通過するすべての車を自動的に撮影し、データバンクとの照合により、問題のある車がヒットするという仕組みである。すべての旅行者を一般的に容疑者として扱うということで、ドイツをはじめ、EU諸国から批判が強い(Die Welt vom 4.8.2012)。

 INDECTでは、奇抜な動き、目立つ振る舞い、異様な風体などをしないで、お行儀よく、決して目立たず、普通に空港や駅、道路などを歩いていれば引っかかることはない。だが、「アミゴボラス」は、通過するすべての車を一端、容疑車両として扱う。そこから犯罪と無関係なものを外していく。「疑わしきはすべて捕捉」からさらに進んで、「疑わしくないものでもとりあえず捕捉」という発想法だろう。オランダのように最初は車から。いずれは空港や駅、公道上における一般の通行人を監視カメラですべて撮影して、情報システムで識別する。結果が出るまで、すべての旅行者、通行人は容疑者であり続ける。こうして、犯罪者のいない「安心社会」が生まれる…。

 日本では、顔認証の技術が進んでいるので、「気づかないうちに攻め込んでいく防犯」のシステムが、ヨーロッパのように専門家や民衆の批判を受けることなく、「これは民意ですから、僕やります」(大阪市長の口ぶり)という勢いで実現していくのではないか。

 と、ここまで書いてきて、ヨーロッパの状況について原稿がほぼ完成した段階で、『東京新聞』8月14日付一面トップに触れ、「オーッ」となった。やや前後するが、この記事について紹介しよう。

 「街角の顔画像 容疑者と照合」「昨春から非公開運用 警視庁」「カメラ場所開示せず」。見出しから内容の想像がつくだろう。警視庁が「テロリストや指名手配容疑者ら特定の人物」を、街中の防犯カメラの映像から割り出す顔照合システムの試験運用が、都内の某所に設置された「20台の街頭カメラ」を使って、2011年春から始まっていたというのである。情報公開請求で開示させた文書でこれがわかった。

 ヨーロッパで行われていることが実は日本でも昨年春から「実験」されていたのだから驚きである。今回の「直言」冒頭で、「ヨーロッパは日本よりさらに先をいっている」と書いたのは8月初旬だったので、この『東京新聞』8月14日付記事を見る限り、日本も先を行っているようである。

 「三次元顔形状データベース自動照合システム」。カメラに映った映像のなかから人の顔を検出し、警視庁作成のテロリスト・指名手配容疑者の顔画像のデータベース(DB)と自動的に照合。DBと一致した顔が見つかると、カメラの設置場所を管轄する警察署に自動通報され、警察官が急行する仕組みである。一致しなかった画像は廃棄するというが、廃棄を法的に義務づけているわけもなさそうなので、あくまで現場の裁量にとどまるのではないか。

情報公開請求で開示された文書では、カメラを設置している民間事業者名は真っ黒に塗りつぶされている。その理由がふるっている。「開示すれば運用場所が明らかになり、容疑者らが場所を回避するなど、捜査に支障を及ぼす恐れがある」(警視庁)と。また、装置の詳細について非公開にしたことについては、「システムへの不正アクセスや不正使用を容易にする恐れがあるため」(同)というのである。

 現行法上、民間の監視カメラと警察情報とのリンクやその仕方について、法的な規制はない。例えば、大型店舗の防犯カメラの目的は、その店舗内の犯罪やトラブルを防止するという必要性であり、警察による「自動的」利用は設置目的との関係で問題があろう。犯罪が起きてそのケースに応じて捜査に協力するというのとは異なり、カメラの情報は常に「自動的」に警察の捜査に使われるので、店舗の負担で警察カメラが設置されているのと同じ効果をもたらす。

 民間店舗のカメラを警察の下請け化して、常時、人々の顔を撮影し、自動的にデータ照合することは、「たとえそれが犯罪捜査のためであっても、現に犯罪が行われもしくは行われたのち間もないと認められる場合ないし当該現場において犯罪が発生する相当高度の蓋然性が認められる場合であり、あらかじめ証拠保全の手段、方法をとっておく必要性及び緊急性があり、かつ、その録画が社会通念に照らして相当と認められる方法でもって行われるときなど正当な理由がない限り、憲法13条の趣旨に反し許されない」(大阪地判1994年4月27日)という判例の指摘が当てはまるだろう。監視カメラの設置、運用、データの目的外使用、情報の廃棄などについて、しっかりとした議論が求められる所以である。

  では、監視カメラの設置と積極運用により、この国は本当に、安全で安心な社会になっていくのだろうか(注)。

 ここで、「安全」と「安心」という言葉に少しこだわってみよう。両者は本来異なる概念である。それを「・」でつなげて、「安全・安心」あるいは「安心・安全」という一括りの言葉で表現する傾向が近年見られる。政府の公式文書はもとより、政治家の演説、食品広告から幼児玩具の説明書に至るまで…。「安全・安心街づくり」だけでなく、この写真のように、「安心・安全」と逆転させたものまで地方にはある(愛媛県松山市郊外、2012年8月31日)。地域によっては、愛知県の「3N(ない)運動」群馬県の「挨拶励行」や「地域行事参加」を促すことで人間関係を密にし、「安全・安心」を確保するという発想のものもある。

だが、簡単に使っている「安全・安心」という言葉も、よく考えてみると妙である。「安全」の反対は「危険」あるいは「リスク」である。少なくとも「危険」は客観的に確定可能なものを想定している。だから、「安全」の制度設計は客観性が担保されている必要がある。

 これに対して、「安心」の反対は「不安」である。これはすこぶる主観的なもので、女性恐怖症の男性は、女性が周囲に存在する限り、「安心」は確保されないことになる。安全でなくても、偽りの安全情報で安心に感じることもあれば、客観的に安全でも、安全だと言う者を信頼できない場合には不安に感じることもある。確かに、「安全」と「安心」は関連するが、「・」で「安全・安心」と一括りにできるほど、両者は常に連動していないし、果たして連動させてよいものなのだろうか。

その「安心」だけを突出させたものもある。それが札幌地下鉄の「安心車両」である。「女性専用車両」という表現を使わず、あえて「安心車両」とした意味は、そのポスター自身が語っている。「女性と子どもの安心車両」。ここでの「子ども」の定義に、はっきりした狙いが見てとれる。「小学生以下の男のお子さま」。つまり、「女性と男子児童・幼児の安心車両」となる。「女のお子さま」は「女性」に含まれるので、女性について年齢制限はない。他方、男子「児童」は乗れるが、男子「生徒」(中学生以上)は排除される。ここでのポイントは「女性専用車」ではない。「中学校の生徒以上の男性が乗れない車両」ということになる。事実上、中学校の男子生徒も、潜在的な痴漢予備軍として扱われているに等しい。ニキビ面の、体の大きい、小生意気な男子中学生も「不安」の対象となるので、これを排除することで得られる「安心」という制度設計なのだろう。近年では、びっくりするほど大人びた男子小学6年生も見かけるが、これは想定外なのだろうか。

 人々が「安心」を過度に求め、大衆迎合的な政治家たちが御用聞きのように対応していけばいくほど、不安をもたらすあらゆる要素をあらかじめ、予防的に、先制的に、「攻め込んでいって」排除する必要が出てくる。プライバシー侵害や誤認逮捕などが増えることは避けられない。

 そうした「安心保障」が徹底して実現した先には何があるのか。それは、人々が、不安の原因を精査せず、直感的、即効的、短絡的な解決法を求めてしまう状況である。結局、自分で自分の首を締めることになるのだが、それになかなか気づかない。こうして、「異質なものとの共生」に耐えられない、不自由でエゴイスティックな社会が生まれる。ヴァイマール末期の「不安の政治化」(フランツ・ノイマン)に関する鋭い分析は、いま、「民意」を振りかざす「プチ独裁者」の登場を前にした現代日本にも当てはまるようである。


(注)9月8日にフジテレビ系列で放映された「踊る大捜査線THE MOVIE2」について、9年前の直言で「踊れない大捜査線」として論じている。そのなかで監視カメラや生活安全条例についても触れているので参照されたい。なお、Yahooで、「踊る 監視カメラ」と入力してリアルタイム検索をかけるとすごい数がヒットした。監視カメラが「普通」になった状況をリアルに知ることができるのでいくつか紹介しよう。「刑訴法初学者」の法学部生の感想がおもしろい(→ここから読めます)。

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