辻井喬さんと品川正治さんを悼む             2014年1月20日

重箱

縄の名護市長選挙の結果がでた。これについては来週の直言で触れることにしたい。東京都知事選も始まる。その結果次第では、「3年国政選挙がない」とは言い切れないほどの影響を中央政府に与えるだろう。

今回は、こういう状況だからこそ、ますます存在感を増し、その発言が求められていたお二人の方への追悼文である。一人は作家・詩人の辻井喬さん。昨年11月25日、86歳で亡くなった。山の仕事場には、辻井さんから頂戴した書籍とお手紙が、誰でも手にとって読める場所に以前から別置してある。

辻井さんとは10年ほど前、「憲法再生フォーラム」の共同代表(私は事務局長兼務)としてご一緒させていただいた。このフォーラムは「9.11」で米ブッシュ政権が「テロとの戦争」に向けて突き進むなか、2001年9月29日に創立された。大江健三郎、加藤周一、井上ひさし、樋口陽一といった方々と岩波書店会議室でさまざまな議論を行ったときのことを、今も鮮明に思い出す。月一回の頻度で研究会(非公開)を行うことが活動の中心だった。一般市民向けの第1回講演会は、「9.11」後の11月20日、井上ひさし、加藤周一、樋口陽一、私の4人をメインスピーカーとして行われた。その内容は、参加したフォーラムメンバーのフロアからのスピーチも含めて、岩波ブックレットに収録されている(憲法再生フォーラム編『暴力の連鎖を超えて』岩波書店)。

暴力の連鎖を超えて

その後も研究会を月1回の頻度で続け、一般向け講演会を7年ほど続けた。有事法制日米安保・米軍再編・沖縄(PDFファイル)の問題が新たな展開をみせるたびに、市民向けに講演会(PDFファイル)を開いてきた。憲法施行60周年(PDFファイル)の際にも講演会を行っている。

出版活動としては、岩波新書2冊(『有事法制批判』と、『改憲は必要か』)、岩波ブックレット2冊(前述の『暴力の連鎖を超えて』と、『有事法制と憲法』)を刊行している。これが母体となって「憲法96条の会」となっていく(現在は活動休止中)。辻井さんには、フォーラムでご一緒させていただくなかで教えていただいたことが実に多い。心から感謝申しあげたい。

もう一人は、元・日本火災海上保険(現日本興亜損害保険)会長で、経済同友会終身幹事、財団法人国際開発センター会長の品川正治さんである。昨年8月29日、89歳で亡くなった。2005年5月に辻井さんの紹介でお会いして以来、憲法再生フォーラムの例会や、2008年5月5日の「9条世界会議」(幕張メッセ)における第6分科会「日本の9条の今」でもご一緒した。長年の経験と知見に裏付けられた重い内容のお話をゆっくりと、重低音で語るその姿は、圧倒的存在感があった。

実は、品川さんと初めてお会いしたときのことを詳細なメモにして保存していた。古いワープロのなかに残っていたものだが、先週、ワードに変換するファイルを選んでいて偶然発見した。読んでみるとその時のやりとりが鮮やかに蘇ってきた。憲法再生フォーラム事務局長として運営委員会で説明する際のメモとして作成した非公開のものだが、今回、公開することにした。

公開にあたっては、同席した岡本厚『世界』編集長(現・岩波書店代表取締役社長)のご意見をいただいた。岡本さんは、「よく覚えています。あれから9年ですか。やり取りまでは記憶していませんでしたが、4人で食事したことはよく覚えています。品川さんが中国での戦争について語ったとき、水島さんが『それは○○師団の○○連隊ですね』と言ったので、びっくりしたことを覚えています。鄧小平の部隊に包囲されていたのですよね。写真も(私だけが飲んだような顔していますね)、文章も結構です。これも記録ですからね。しかし、お二人とも逝かれるとは、本当に残念です」というメールをいただいた。岡本さんがいう「○○師団」という話は、メモのなかにも驚きの言葉として出てくる。品川さんが転戦した方面が、映画「蟻の兵隊」の主人公である奥村和一さんと同じ「北支」だったからだ。品川さんに奥村さんの話をすると、話のテンションが高くなり、熱を帯びてきたのを記憶している。

ゼミ撮影

実は品川さんとお会いする8日前、2005年5月12日のゼミの時間を、池谷薫監督の依頼で、映画「蟻の兵隊」の撮影のために使っていたのだ。この企画を持ち込んだゼミ9期生の石原宗明君(現在・某新聞記者)のレポートが大学のサイトに残っている。教室に撮影隊が入り、学生と奥村さんとのやりとりをカメラが追う。途中から作家の保阪正康さんが教室に入ってこられ、奥村さんと学生とのやりとりを見守った。監督が事前に連絡しておいたようだ。

学生たちは初めて知る「旧日本軍山西省残留問題」にショックを受けていた。戦争が終わったのに中国に残留させられ、国民党と共産党との内戦に参加させられて、再び日本の地を踏めなかった兵士がいる。私は1週間ほど前にゼミでやったこの問題のことが頭にあったため、品川さんとの話は俄然、熱っぽいものになった(下記のメモ参照)。

なお、映画「蟻の兵隊」にはこの水島ゼミ生と奥村さんとのやりとりのシーンはない。編集の都合でカットされたのだろう。しかし、奥村さんが靖国神社にでかけ、そこでギャルたちに自然に話しかけるシーンがあるが、これはゼミ生とのやりとりを体験した奥村さんが若者と話すことに慣れたことによるもの、と勝手に解釈している。映画のエンドロールには、「協力・早大水島ゼミ」と出てくる。その奥村さんも2011年5月25日、80歳で亡くなった。

護憲的財界人と会う
2005年5月20日

5月20日(金曜日)夜19時。東京・赤坂二丁目の料亭「重箱」で、品川正治・国際開発センター会長と会った。憲法再生フォーラムの5月運営委員会で、会員増について審議した際、共同代表を務める作家の辻井喬氏(本名・堤清二、西武セゾン文化財団理事長)が発言。「一般の人には経団連は改憲だと思われているが、財界人には護憲の人がけっこう多い」と。会議終了後、辻井氏より是非会ってほしい人がいると言われた。その後、運営委員の岡本厚『世界』編集長が間にはいって調整した結果、20日夜の席が用意された。

5コマ目の授業を終えて赤坂に向かう。黒塗りの高級車がズラッと並ぶ界隈に初めて立ち入った。「重箱」前には黒塗りの高級車が2台停まっている。すでにお二人は先に着いているようだった。辻井さんの秘書には、授業で少し遅れると伝えてある。玄関に入ると、女将がすぐに出てきて、庭に面した奥座敷に通された。品川さんと辻井さんが待っておられた。ややあって岡本さんが到着した。

品川さんは、日本興亜損保(旧・日本火災海上保険)代表取締役社長・会長を経て、相談役。経済同友会副代表幹事、専務理事、現在終身幹事。『週刊金曜日』2005年4月29日号で、ジャーナリストの斉藤貴男氏と「財界人として改憲に反対する」というタイトルの対談もしている。80歳とは思えないバイタリティとオーラを感じた。息子さん夫婦が早死にしたため、17歳の孫娘を大事に育てているという。授業参観にも出かける。授業で女性教師がうまく授業ができず泣いたので、教育現場のむずかしさを感じたという。戦争体験の話でも、この孫娘の質問にうまく答えられないことにもどかしさを感じたという。「戦争はいけない」だけでは足りない。やはり普遍的な何かがほしい、と。

ここから、品川さんは戦争体験を語りはじめた。品川さんは、一等兵として「北支」を転戦し、負傷もしている。品川さんの中国での体験を聞いて、私は仰天した。先週の木曜日のゼミで、映画「蟻の兵隊」の池谷薫監督と元残留日本兵の奥村和一さんと4時間近く話した、まさにその方面で品川さんも戦っていたからだ。先週のゼミでは、終戦間際、蒋介石と取り引きした第1軍司令官澄田らい四郎中将(※)が、戦犯追及を免れたかわりに、2600人の部隊に残留命令を下し、八路軍(共産軍)との国共内戦に参加させたことを知った。澄田中将は、「日本から援軍を連れてくる」と嘘をいい、結局、内戦で550人の日本兵が「戦死」した。奥村さんは戦闘で負傷し、病院に送られる途中で共産軍の捕虜となり、そのまま収容所へ。1954年に帰国すると、共産軍に洗脳されたとして新潟の実家は公安に監視されたという。自分は商人であり、共産主義には影響されず、中国の民衆と一緒に農業や鉱山での労働を通じて、申し訳ないことをしたという気持ちになったという。そして、ゼミでの討論の数日後、中国に向けて出発した。彼はこの旅を「慰霊の旅」と呼ぶ。自分が殺した中国人の慰霊をすることと、自分たちが残留することになった資料を探すことである。山西省残留日本兵訴訟の原告でもある。国側は決して、彼らの主張を認めない。なぜなら、日本国憲法ができてから数年間、中国には2600人の日本軍が完全武装で存在したことを、しかも澄田中将の正式の命令で存在したことを認めるわけにはいかないからだ。彼らは傭兵だから、軍人恩給もでない。そして、蒋介石は共産軍と戦うために、日本軍の助けを借りたわけで、これも中国の歴史の恥部ということになる。日中双方から、この事実は隠されてきた…。

この話をすると、品川さんは深く頷いて、戦争体験を詳しく話しはじめた。辻井さんは「いままで品川さんと何度も話したことがあるが、こんなにたくさん、深い話をうかがうのは初めてです」と言われた。品川さんの平和論は、一方で17歳の孫娘の眼差しを意識しながら、他方でその視点は常に海外に向けられている。豊富な海外の人脈、交流には驚かされた。ドイツのヘルムート・シュミット元首相とは友人関係で、元首相の家に泊めてもらったこともあるという。「中曾根は嫌いだ。サッチャーも嫌いだ」とシュミットは言ったそうだ。中国の要人との交流も長く、経済人として堤清二さんと数名の財界人が中国要人とあって、日本の財界が一枚岩でないこと、改憲をいっているのは一部であることを伝えているという。

品川さんも辻井さん(財界人としては堤清二さん)も共通して語るのは、改憲だ、軍拡だという威勢のいい財界人は、トヨタとか三菱とか失敗した企業ばかりで、まともにアジアで商売をやろうとしている企業はみんな護憲だ、と。平和憲法のおかげで、我々は商売ができるのだ、と。そして、護憲的な財界人はたくさんいて、ただ現役のうちにそれをいうと、トヨタと三菱に睨まれるので、みんな黙っているだけだ、と。品川さんは会長を退いて、いまのポストに着くと、国連職員などをやり、彼の部下として働いている人達は、海外で活動する上で一番大事なことは、日本の平和憲法があることだ、というそうである。だから、品川さんは、自分が護憲的発言をすることを、部下はみんな支持してくれるという。

「経団連会長の奥田君(トヨタ会長)は、日経連会長みたいな言い方をする。労働側との対抗で少しきついことはいうが、経団連なら財界の総意なのだから、改憲なんていってはいけない」と。

9条を変えようとしている自民党も一枚岩ではない。アメリカにあやつられている。いま、9条をアメリカが変えさせたいのは、日本がアジアと結びつくのを阻止するためだ。日本は6000億ドルもアメリカの借金を肩代わりしている。中国の市場がアメリカを支えている。もし日中が手を結んだら、EUと並んで、アジアに手ごわいライバルができることになる。これを阻止したい。だから、いろいろな反日デモなどもアメリカがやらせて、日中を裂こうとしている。私が訪問した地域は、みんな日本びいきだ。自分が何度もいった中国の自治体からは、「反日で騒ぐのは一部だから心配しないでほしい」という手紙が最近届いたという。中華思想はいただけないけど、中国とはとにかくうまくやっていくことが大切だ。

ロシアとは、北方領土の二島返還でいい。あとの二つは国際司法裁判所に出して、係争中にしておいて、その間に共同開発をやってしまい、実をとることが大切。いま韓国はロシアにたくさん金をかしている。その返済は、シベリアの電力を北朝鮮に送ってほしいといっている。こうやって、韓国は北朝鮮をうまくソフトランディングさせようとしている。

品川さんの話はいちいち合理的で、現実的で、夢がある。一番印象に残ったのは、9条を守るという防御ではなく、逆に、9条を変えさせなかったら、日本は21世紀における積極的な姿に変貌するだろう。経済的に不況だが、9条を変えないで、アジアとの関係を改善していけば、日本経済は大きくのびていく。いま、21世紀に日本を発展させる大きな力は、9条を変えさせないことだ。そうすれば、アメリカは二度と日本を従属的なやり方で使えなくなる。ここから真の日米友好関係も始まる、と。

品川さんの現場をきちんと踏んでの発言は重い。いま、この9条改憲の動きをとめて、9条が残れば、大変なことになる。21世紀の日本は閉塞状態から抜け出して、国際社会で最も意義のある発展ができる。今までの対米従属の構造からぬけだせる。これは大変なことです。アメリカの借金を6000億ドルも日本はせおって支えている。中国の市場もアメリカを支えている。もし、日本と中国が手を組めば、アメリカがかなわない大きな勢力がアジアにできる。ただ、中国は中華思想を克服しないといけない。品川さんは、いまアフリカに関心があるという。たくさんの部下がいて、アフリカの紛争地域に援助をしている。その際、大切なことは、現地の一方当事者に絶対に加担しないこと。政府を強めないこと。一番困っているところに援助を行うことである、と。見返りを期待しない国際協力である。

品川氏は、戦争と紛争は違うという。戦争はなくすことはできるが、紛争はなくせない。だから、紛争が戦争にならないようにすることが大切だ。そのための大切な手段が憲法9条の思想です、と。元日銀総裁の速水氏は大変な護憲派である。でも彼は敬虔なクリスチャンだから、平和・護憲がどこか宗教的なトーンが強くて、ついていけない。自分の平和論、9条論は、そういうのとは違って、紛争を戦争にしないための大切なものだということを強調された。

最後に、9条を変えさせないことのために、「損保9条の会」を6月18日に発足するという。品川さんをはじめ、損害保険関係の会社の社長、会長クラスが集まって、憲法9条を守る会をつくるというのだ。損保業界こそ、護憲だ、と。記者会見をするという。そして、品川さんは、憲法9条を変えさせなければ、日本はルネッサンスになる。日本に展望があると語る。そこで私が、「だから、私たちは護憲フォーラムではなく、『憲法再生フォーラム』なのです」というと、彼はフォーラムへの参加を約束してくれた。次回の会合にこの大物財界人が参加する。

※澄田中将の「らい」は「睞」ですが、環境によって読み込めない可能性があるのでひらがなにしました。

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