答弁を引き出す国会質疑を――31年前の公明党市川雄一議員の例            2014年7月28日

川柳

稲田キャンパスの19号館(アジア太平洋研究科等)。その道路をはさんだ正面に水稲荷神社がある。7月20-21日の富士祭を前に、参道には地元の人々の短歌や川柳が掲げられていた。19日朝、授業前に境内を歩き、川柳を撮影してまわった。

「不思議だな 戦場(いくさば)行かぬ 奴が決め」。7月1日の安倍内閣による閣議決定を批判したものだろう。「民の声 見ざる聞かざる政治屋(こども)たち」「軍隊は 国と民とで 国選ぶ」等。この作者は年配の方らしく、「政治屋」を使った川柳にはすべて「こども」というルビがふってある。他の人の作品にも、安倍内閣の暴走に対する危惧や不安、批判を交えたものが目立った。「自衛権 僕も欲しいな こわいママ」なんてかわいいのもあった。

提灯

さすがに地元の神社である。大学をチクリと批判するものもあった。「早稲田から ノーベル賞は 薄れ行く」はSTAP細胞問題を意識したものだろう。「早大は 地元いじめる 土地を買い」は、90年代から地上げ屋まがいのことをやってきた(今も地域の相続を狙っている)大学への、住民の鋭い眼差しを感ずる。

川柳

ところで、テレビで国会中継を見ることが少なくなった。リアルタイムでじっくりみる価値のある質疑が格段に減ったということも大きい。かつては野党各党に論客がいて、丁々発止の質疑に手に汗握ったこともあった。いまはどうだろう。特に第二次安倍内閣になってから、首相の態度がよろしくない。まず議員の質問への答弁は、「すなわち国民に話しているのだ」という自覚がまったくない。非常に不遜で無礼な態度である。また、答弁者の野次に対しては、「いいですか!私があなたの質問に対して真面目に答えているんですから聞きなさい!」と、首相にしては高圧的かつやや病的なほど怒る。それでいて自らは首相席から質問者に野次を飛ばす。まともに答弁しない。同じフレーズの繰り返し、言いっぱなし、すり替え、居直り…。そもそも質疑として成立していないことが多い。なぜか。安倍晋三という人は、自分と異なる意見に耳を傾けることができない、政治家としては致命的弱点をもっている、としばしば指摘されている。私もそう思う。経験と知識、知性と理性の問題というよりも、人間としてのキャパシティが圧倒的に小さいことが主たる理由だろう。以下は、そのむなしい一例である(以下の質疑はすべて国会会議録検索システムで読むことができる)。


第186回国会・衆議院予算委員会(2014年2月13日)

〇篠原孝議員(民主党): 懇談会は安倍政権になって4つできているが、経歴などが一番偏っているのが安保法制懇である。ほとんど全員が、集団的自衛権の行使を容認する人たちだらけです。総理は、最高責任者は私だとおっしゃった。また、内閣法制局の議論のようなものの積み上げのままだったら、そもそもこんな懇談会は要らないんだと。…この手法はよくないなと思うんですけれども、一考していただきたい。法制懇は一体どういう位置づけなのか、ちょっとゆがんでいるんじゃないか。

〇安倍内閣総理大臣: …メンバーについては、外交防衛政策に関する実務経験者、政治、外交、憲法、国際法等の学界関係者、経済界の民間有識者といった幅広い代表の方々に参加をしていただきまして、、現実的な状況、国際情勢についてしっかりと議論をされる方、知見を持った方が議論をしているわけでございまして、さまざまな観点において議論をしていただいていると思います。

〇篠原委員: 総理も曲解されているんじゃないかと思う、私が申し上げたことを。何も、澤地久枝さんや大江健三郎さんは入れた方がいいんじゃないかと言っているんじゃないんです。ただ、法律の専門家だったら、学者、中央官庁OBなど。なぜ、法制局長官のOBをいれないのか。そういう配慮が足りない。あまりに一方的過ぎる。…

この質疑を通じて浮き彫りになったことは、安倍首相とその周辺が「他者」を意識的に排除して、権力の自己抑制を喪失していることである。それは立憲主義の深刻な危機でもある。日銀総裁や法制局長官、NHK会長などをすべて自分と同意見の人にすげかえ、自分と異なる意見の人を決して加えない諮問機関を憲法解釈変更の根拠に使うという異様な政治手法の数々は、ここで指摘するまでもないだろう。

これと比べて、集団的自衛権行使には憲法改正が必要との答弁を政府から初めて引き出した政治家がいる。公明党の市川雄一議員である。じっくり読んでみよう。執拗な追及は、大事なポイントを政府に言わせ、答弁をきちんと引き出している。これぞ国会質疑というものである。最近の国会議員が学ぶべきところ大である。以下、やや長いが、議事録から引用しよう。なお、公明党は、先週の「直言」でも批判したように、自民党との連立維持を重視して、それまでの見解を曲げて、集団的自衛権行使容認に加担した。31年前の先輩議員の追及を、しかとお読みいただきたい。

第98回国会・衆議院予算委員会(1983年2月22日)

〇市川雄一委員:なぜこういう質問をするか、もうおわかりだと思いますが、たとえば武器技術の問題についてはいわゆる政府の政策が変更したのだという形で変わりましたね。これも一片の官房長官談話かなんかで政府の集団自衛権〔ママ、以下同じ〕に関する解釈が変わったのだ、こういう乱暴なことはなさらないと思いますけれども、そういうおそれなしとしない立場からいま伺っておるわけですが、それでは、そういう集団自衛権についてのいまの政府解釈を変えるためには、憲法の改正という手続をとらなければ変えられない、こうお考えですか、どうですか。

○角田(禮)政府委員〔内閣法制局長官〕:武器輸出三原則の問題は、これは初めから政策の問題であります。したがいまして、いま私が申し上げている憲法解釈の問題とは全く別のレベルの問題であると思います。したがいまして、集団的自衛権の行使はできないという見解は、政策変更によって変更できるというような性質のものではないということは、まず申し上げていいと思います。
   それからその次に、憲法を改正しなければできないかという御質問でございますけれども、これは、憲法改正などということは考える余地のない問題でございますから、憲法解釈を変えない以上そういうことはあり得ないという以外には申し上げることはありません。

〇市川委員: ちょっと私の質問に答えていないのではないかと思うのですが、要するに、いまの憲法では集団自衛権は行使できない、これは政府の解釈である、こうおっしゃっておるわけでしょう。その解釈を集団自衛権は行使できるという解釈に変えるには、これは憲法の改正という手続を経なければその解釈は変えられませんねといま聞いているのです。どうですか、その点は。

○角田(禮)政府委員: 私は、憲法の改正というものを前提として答弁申し上げることを差し控えたいと思いまして、実は先ほどあのような答弁をいたしましたけれども、それでは、全く誤解のないようにお聞き届けいただきたいと思いますけれども、ある規定について解釈にいろいろ議論があるときに、それをいわゆる立法的な解決ということで、その法律を改正してある種の解釈をはっきりするということはあるわけでございます。そういう意味では、仮に、全く仮に、集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方があり、それを明確にしたいということであれば、憲法改正という手段を当然とらざるを得ないと思います。したがって、そういう手段をとらない限りできないということになると思います。

〇市川委員: いまの法制局長官の、わが国の憲法では集団的自衛権の行使はできない、これは政府の解釈である、解釈であるけれども、この解釈をできるという解釈に変えるためには、憲法改正という手段をとらない限りできない。この見解は、外務大臣、防衛庁長官、一致ですか。

○安倍晋太郎外務大臣: 法制局長官の述べたとおりであります。

○谷川和穗防衛庁長官: 法制局長官の述べたとおりでございます。

上記の安倍晋太郎外務大臣は、安倍首相の父上である。市川議員は、この7年後の委員会でも、集団的自衛権について食い下がっている。湾岸戦争に日本が参加するのかが現実的に問われた1990年の国会での質疑である。リアリティはいまとは比べものにならない。これも長いが引用しよう。

第119回国会・衆議院国際連合平和協力に関する特別委員会(1990年10月24日)

○市川委員: いや、総理が変えるか変えないかを伺っているのじゃなくて、もし変えようとした場合、単なる内閣の判断によっては変えられませんね、憲法改正という重い手続を踏まなければ、もうそれは単なる解釈の改正ではなくて憲法の改正に当たるわけですから、改正をしなければもうできませんねと、これを聞いているわけです。それほど重要な判断ではないのですか、憲法解釈というのは。
   これは長官、同じ答弁になると思いますからあえて申し上げますが、昭和五十八年二月二十二日、角田当時の法制局長官がお答えになっているんですよ、長官。なかなか用心深く、出しませんが、「仮に、全く仮に、集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方があり、それを明確にしたいということであれば、憲法改正という手段を当然とらざるを得ないと思います。したがって、そういう手段をとらない限りできないということになると思います。」この日もきょうと同じようなことをもう何回もやって、ようやくこういう答弁が出てきたわけですね。それで、安倍当時外務大臣、谷川当時防衛庁長官、この法制局長官の答弁、どう思うか、全くそのとおりですと。これはもう政府見解ですよ、ですから。外務大臣と防衛庁長官が同意しておるのですから。こうなってきますと、この予算委員会、衆議院の予算委員会あるいは参議院の予算委員会あるいは本日のこの特別委員会において、法制局長官が何回も何回もこの席で答弁されている最小必要限度の自衛力の行使、これは憲法上許される。これを基軸にして他国の領海、領空、領土を侵略するあるいは攻める、そういう目的を持って自衛隊が武力行使で出ていくことは、これはできない。あるいは武力行使を前提として自衛隊が外へ行くことは派兵につながる、できない。自国と密接な関係にある国が攻撃を受けて、日本の国は攻撃されていないんだけれども、にもかかわらず、その自国と密接な国を攻撃から守るあるいは阻止する、これは集団自衛権で、憲法九条の解釈としてはこれはできない、こうおっしゃった。もう一点、国連憲章上の国連軍、その目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊の参加は憲法上できない。
   いずれのものも全部憲法九条解釈を基本にしておっしゃっているわけですよね。ですから、これを政府がそのときの内閣の一判断で解釈を変更しようとすることはもうできない、憲法改正という手段を講じなければできない、こうかつての法制局長官は言い、外務大臣も防衛庁長官も同意をした、こういう事実があるわけでございまして、そのとおりだと私は思うのですが、総理、どうですか。

○海部内閣総理大臣: 法制局長官の言いました考え方を私もそのとおりだとこう言っておるわけでありますから、今ここで武装集団である自衛隊を自衛隊のままで国連軍に参加させることがいいとか悪いとか、そんなことを我々は毛頭考えておりませんので、武力行使を伴わない国連平和協力隊を協力業務の範囲において参加させようということであって、この今議論になっておる字句、項目の考え方を、これを変えるとか変えようとか思ってはおりません。(市川委員「答弁になっていない」と呼ぶ)

○加藤委員長: 質疑を追加してください。

○市川委員: だから、五十八年の二月二十二日の予算委員会議事録に明快に書いてあるわけです。集団自衛権に関する政府解釈の変更は、憲法改正という手段を用いなければできません、こう法制局長官が答えた。外務大臣と時の防衛庁長官も答えた。この鈴木答弁書は集団自衛権に関する答弁でないかもしれない。関連はしている。九条ですから、関連はしている。集団自衛権というものが禁止されているということが根っこにあって判断されて出てきた答弁という意味においては関連はある。しかし、そのものずばりの集団自衛権の解釈ではないかもしれない、集団自衛権というのは自国が密接な関係云々ということを置いておるわけですから。しかし、九条解釈として法制局長官は三つのことを絶えず言っているわけですね、この委員会で。
   一つは、武力行使を前提とした自衛隊の派遣はだめですよ、それから、集団自衛権はだめですよ、国連軍の任務・目的が武力行使を伴うものであればだめですよ、こう言っている。今私が質問しているのは、この国連軍の任務・目的が武力行使を伴うものであれば自衛隊は憲法上参加できない、この政府解釈の変更は、集団自衛権の解釈の変更と同じように憲法改正という手段を講じなければできないことですねと、こう聞いているわけです。これに対する答えに今の総理の答弁はなっていません、こう言っているわけです。

   …〔中略、1983年の資料を手渡してから質疑続行(引用者)]…

○工藤政府委員[内閣法制局長官]: お答え申し上げます。五十八年二月の予算委員会におきます角田元長官の答弁でございますが、「政府は政府なりにこれが正しい憲法解釈だと信じているわけでありますから、その正しいというものが正しくないという変更をするということをしない限り、現在の憲法の解釈というものは変えられないといいますか、変えるつもりはないというのと同じだと思います」というところ、あるいは「集団的自衛権の行使はできないという見解は、政策変更によって変更できるというような性質のものではないということは、まず申し上げていいと思います。」これはそのとおりだと思います。

○市川委員: その後、「憲法改正という手段」その一番最後のところ、そこが大事なんだ。「仮に、仮に、」というところ。

○工藤政府委員: 「仮に、全く仮に、集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方があり、それを明確にしたいということであれば、憲法改正という手段を当然とらざるを得ないと思います。したがって、そういう手段をとらない限りできないということになると思います。」これは今のような論理から申し上げれば、そういうことに当然なろうかと思います。

○市川委員: これがそのとおりかどうか聞いているわけじゃないんですよ、これを読めばわかるんだから。何を言っているんですか。これを今さら何もあなたに読んでいただいて、このとおりですなんて、そんな質問をしているわけじゃなくて、五十五年の十月三十日の鈴木答弁書の解釈変更もこれと同じですかと聞いているわけで、答えてください。

○工藤政府委員: 同じポジションにありますれば、当然同じお答えをすることになると思います。そういう意味で、今のと同じポジションにあるものと思っております。

○海部内閣総理大臣: 先ほどから申し上げておりますように、私は、法制的な言葉じゃなくて、ここに書いてあるこの問題については、この解釈を変えるということは考えておりませんので、その先のことについては法制局長官の言うふうになっていくと思います。変えるということを考えてないのですから。(市川委員「長官の言ったとおり」と呼ぶ)はい、そのとおり。

○市川委員: そうすると、国連軍の目的・任務が武力行使を伴うものであれば、これに自衛隊が参加することは憲法上許されない、これは仮に内閣が先行きかわったとしても、海部内閣が未来永劫に行くわけじゃありませんので、かわったとしても、これを変えようとした場合は、憲法改正という重い手段を講じなければこの解釈の変更はできない、このように今法制局長官と総理大臣の答弁を受けとめましたが、総理、大変恐縮ですが、大事なことでありますので、それで間違いない、こういう御答弁をいただきたいと思います。

○海部内閣総理大臣: この解釈を変える気持ちはありませんということは、憲法の解釈も変える気持ちはありませんということで、九条に書いてある武力による威嚇もしくは武力を行使することは考えておりませんという、それができるとは思っておりませんということでありますから、その先の仮定の問題についてどうこう言うわけにはいけないと思いますが、法制局長官が内閣の法制局として答えた問題については、私はそれはそうだと申し上げます。

○市川委員: 認めるわけですね。法制局長官がここで答弁したことは総理は認めるわけですね。認めますと明快に言ってください。うなずいているだけでは議事録に残りませんから。

○海部内閣総理大臣: 内閣法制局長官がここでお答えしたことは、私は認めます。

かなり長い引用だったが、どうだろうか。公明党の市川議員のたたみかけるような追及に、ついに時の海部首相も、集団的自衛権の行使を憲法上認めたいというならば、憲法改正という手段をとらない限りできない、ということを正式に確認したのである。国会の議事録に残る答弁が、今日まで政府解釈の基礎になってきたのである。7月1日、安倍首相はこれまでの積み重ねを、一内閣の閣議決定で「根底から覆す」狼藉を行ったのである。公明党執行部はこれに最終的に賛成してしまった

「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」(ヒトラー『わが闘争』平野一郎他訳・角川文庫)。こういうことに便乗して支配を強化するのは、独裁的傾向をもつ権力者に共通の心性だろう。だとするならば、公明党が決定的局面で「転進」した責任を曖昧にしないためにも、かつての公明党議員が引き出した到達点を明確にしておくことも無駄ではないだろう。

当時と比べ、現在、質問に立つ国会議員らは、あまりに腕がないと言わざるを得ない。このような質問ができるために、どれだけの下調べをしているだろうか。質疑において、演説したり、ただ質問を投げればよいというものでも、嫌味や皮肉を言って自分で溜飲を下げればすむというものでもない。国民のため、もっと答弁から「実」を引き出す質問ができるよう努力を重ねてもらいたい。

次回は「7.1閣議決定は実は集団的自衛権容認に踏み込んではいない」という類の、過度の楽観論ないし過小評価を批判的に検討する。

《付記》
市川雄一氏は、2017年12月14日に死亡していたことがわかった。82歳だった(『朝日新聞』12月14日付夕刊)。

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