「憲法研究者に対する執拗な論難に答える」(1)~(4)への補遺
2019年9月8日

立花隆『論駁-ロッキード裁判批判を斬る』にみるデタラメな主張への論駁

Ⅰ.立花隆『論駁-ロッキード裁判批判を斬る』

立花隆『論駁Ⅰ-ロッキード裁判批判を斬る』(朝日新聞社、1985年)、『論駁Ⅱ』(同、1986年)、『論駁Ⅲ』(同)は、立花氏がロッキード裁判の批判論者に対する反論を精緻に展開したシリーズである。立花氏の反論の主な相手は、当時、盛んにロッキード裁判を批判していた上智大学教授(英語学)の渡部昇一氏である。

『論駁Ⅲ』のあとがきにこうある。

〇 連載中しばしば、これは推理小説を読むように面白いとのおほめのことばをいただいた。それは、デタラメにちがいないのだが、一見どこにもデタラメを発見できない巧みな議論を相手として、目に見えなかったデタラメの真犯人を表面的議論の陰の部分から引きずり出して追い詰める手法へのおほめのことばと思う。(『論駁Ⅲ』382頁)

〇 書きながら、これは単なるロッキード裁判批判反批判の書ではなく、法と司法制度の原理論を考えていく書であり、また同時に、論理学と論争術の実践的教科書であると思いつつ書いていった。(『論駁Ⅲ』382頁)

〇 ロッキード裁判批判にかぎらず、世の中には無数の誤れる議論が横行している。あらゆるジャンルにおいて、正論よりは誤れる俗論のほうがはるかに幅をきかせているのが世の常である。そのような誤れる議論の誤りの本質をいかに見抜き、またそれをいかに論駁していくか。ロッキード裁判にかぎらず、そのような目的を持つ人たちのための知的修練の書として本書が役立つことができれば、筆者としては望外の喜びである。(『論駁Ⅲ』382-383頁)。

残念ながら、『論駁』は絶版であるが、同書は、デタラメな主張に対する論駁の手法を学びながら、憲法、刑法、刑事訴訟法といった法学の勉強にもなる良書といえよう。今回、本書を読み直してみて、デタラメな主張に対する論駁の方法として参考になると思う箇所を挙げてみようと思う。以下に紹介する文章は、全3巻で1000ページ弱にも及ぶ『論駁』において立花氏が語った言葉のごく一部に過ぎない。立花氏の『論駁』により、渡部氏は「今回の論議はここで一応うち切りたい気もする」と書き、「とうとう渡部氏は尻尾をまいて逃げ出してしまった」(『論駁Ⅲ』73頁)。立花氏の完勝である。私の連載「憲法研究者に対する執拗な論難に答える」よりもインチキな主張の特徴をよりよく抽出しており、ネットの発達によりますます横行するインチキに対する論駁のお手本として非常に参考になる。なお、以下で紹介する文章は、渡部氏や雑誌『諸君!』の主張に対する立花氏(引用文中では「私」)の論駁であることを念頭に、お読みいただきたい。

II. 立花隆による渡部昇一への論駁
1. 【厳選必読箇所】デタラメに対する反論の必要性と困難性・まともな人が反論しない理由・論破された者の末路

〇 反論というのは手間がかかるものである。デタラメは簡単に口にすることができる。しかし、そのデタラメを取りあげ、それがデタラメである所以を分析して示した上で、それに反駁するという作業は、その何倍もの手数を必要とするのである。しかも、デタラメに対する反論というのは、いわば、泥酔してところかまわずヘドを吐き散らしている男の後を追いながら拭き掃除をしていくようなもので、まことにもって不毛きわまりない作業である。とても人の意欲をそそる仕事ではない。(『論駁Ⅰ』19頁)

〇 渡部氏は英語学者としては御高名な方とうけたまわる。もし、シェークスピアを全く読んだこともない人が、その辺の大衆雑誌にただの半可通が書いたシェークスピアに関する誤りだらけの数ページの雑文を読んだだけで、もっぱらそれにもとづいて誤りだらけのシェークスピア論を堂々とものし、それが天下に名の通った文芸雑誌に載るのを見たら、どう思われるだろうか。バカバカしくて読む気になれないだろうし、そんなものの誤りを指摘して反論するのも大人気ないと思うだろう。そして、そういうものを載せた文芸雑誌の編集者の見識を疑うだろう。
私も、これはかなり大人気ない作業だと思いつつ、渡部氏の誤りを一つ一つ指摘する作業をつづけている。大人気なくともそれをするのは、かくのごとき素人には誤りを見つけ出しにくい領域の問題においては、デタラメがデタラメと気づかれぬままいくらでも広がっていく現実的可能性があるからである。(『論駁Ⅰ』47頁)

〇 こんなものは、本当に田中裁判をフォローした人間にとってはあまりにバカバカしくて反論の対象にすらならない世迷いごとなのである。ところが渡部氏は、誰も反論してこないことが、自分の言説の正しさの証明なのだと勘違いしてしまったらしい。その後、これと同じパターンの無内容、無責任の言説をトーンのみエスカレートさせて、何度でもくり返している。渡部氏の勘違いをただすために、氏の誤りをひとつひとつ指摘していくことにしよう。
ところどころに誤りが散在しているというのなら、その誤りを指摘するのにさしたる手間はかからない。しかし、渡部氏の所論のごとく、はじめから終わりまでまちがいだらけということになると、その誤りを指摘し正していくために大変な手間がかかる。たとえば、前章の反論は渡部氏の原論文の量にするとわずか一ページ分に対応するものである。本章も一ページ強の分量に対応する反論だが、やはりきちんと誤りを指摘して、それを正していくためには、それだけで一章分かかってしまうのである。
これまで専門家がなぜ渡部氏のならべたてるデタラメにあえて反論しなかったか、その本当の理由がこれでわかるだろう。口からでまかせのデタラメをならべたてていくだけなら1時間に100のデタラメをならべたてることも簡単にできる。しかし、100のデタラメに対して、そのデタラメたる所以を指摘して、それを正していくという作業のためには、軽くその数十倍の時間がかかるのである。あまりにバカげた議論を反駁するためだけに、それだけの手間隙をかけようという物好きがいなかったということが、これまで渡部氏の議論に対してまともな反論が出なかった唯一の理由なのである。(『論駁Ⅰ』50頁・51頁)

〇 ところが渡部氏は、無数のデタラメをならべたてておきながら、それを追及されると、こんな泣き言をならべるのである。
「彼(立花)はわれわれが提出した角栄裁判批判の本質的な点には答えようとせず、デマゴーグの手法で人身攻撃することに専心しているのである。人身攻撃を続ければ、その攻撃された人間の言論も無効になるかの如き信念を持っているかの如くに」(カッコ内立花)
私がこれまで批判してきたものは、すべて渡部氏の言論である。渡部氏の言論から離れた渡部昇一個人を攻撃したことなど一度もない。時に渡部氏の知的能力に疑義をさしはさむような表現を用いたこともあったが、それも、渡部氏のあまりのデタラメな言説に仰天してのことである。いったい渡部氏は何を指して「人身攻撃だ」といっておられるのだろうか。「人身攻撃だ」といっていれば、自分のデタラメな言説に対する批判がストップするとでも思っておられるのだろうか。(『論駁Ⅰ』222頁・223頁)
2.【デタラメに対する反論の必要性】
〇 「実は、それらの所説をこれまでまともに読んでなかったのです。新年号の渡部さんのをちょっとだけ読んでみたら、あまりにお粗末な議論なので、こんなものに付き合うのは時間の無駄と思い、あとは新聞広告でタイトルを見るだけで、世の中アホなことをいう人がいろいろいるものだと思っていただけでした。しかし、このところいろんな人から反論しなきゃいけないんじゃないかと言われて、まとめて読んでみましたが、率直に言ってビックリしました。こういう所説がまかり通ること自体、石島さんの表現を逆に用いれば『慄然たるもの』すら感じます。こういう議論が通って、田中裁判で何かとてつもなく、おかしなことを裁判所がやっているのだというような誤った認識が世の中に広まっていったり、あげくに、田中が石島さんの『忠告』を入れて最高裁判事の首のすげかえをやって、上級審で『田中無罪』などという事態になれば、それこそ『司法の自殺』だと思います」(『論駁Ⅰ』13頁)

○ 悪意からか、無知からか、よってきたるところは別にして、とにかくあまりにも誤りが多いのである。特に俗耳に入りやすい議論ほど初歩的な誤りが多い。そして、論争へ二次的、三次的に参加してくる者を見ていると、そういった初歩的誤りに簡単に足をすくわれてしまっている。その結果、さまざまな誤りに満ち満ちた議論と認識とが、とめどなく広がっていく。さながらガン細胞の増殖を目のあたりに見る思いがした。世の中の認識が総体的に狂い出すときとはこんなものかと思い、そら恐ろしくなった。(『論駁Ⅰ』20頁)

〇 私は当初この裁判批判キャンペーンがつづくのを黙ってみていた。渡部氏の最初の論文をパラパラとめくってみて、その内容があまりにお粗末だったので、こんなものが社会的影響力を持つはずがあるまいと思ったのである。
 「ああいうおかしな議論にはキチンと反論しておいたほうがいいんじゃないの」
 とサジェストしてくれる人もいたが、私は、
 「ありゃお粗末すぎるよ。あれくらいひどい議論は放っておいてもいいんじゃないの」
 と、取り合わなかった。(『論駁Ⅰ』8頁)
  〔略〕
 このようなお粗末な論文〔注:渡部昇一「『角栄裁判』に異議あり」〕を、『読売新聞』の論壇時評子は、「読みごたえがある」と評したのである。〔略〕
これには私は唖然とした。「衆口の毀誉、石を浮かべて、木を沈ましむ」とはこのことかと思った。論壇時評を担当する者ですら、このようなデタラメに簡単に足をすくわれているということは、事態がかなり容易ならぬものであることを示していると思った。このようなデタラメな議論が通用するわけはないとたかをくくって放置しておくのはやはり誤りなのではないか。ここで徹底的に反撃しておかないと、デタラメが真実になり、真実がデタラメにされてしまう恐れが十分にある。(『論駁Ⅰ』20頁・21頁)
3.【議論の最低限の約束】
○ 私の渡部氏に対する批判は、ごく原則的なものである。別に法律論にかぎらず、人が論を立てるときには守るべき最低限の約束事があるはずである。渡部氏の議論はそれを守っていないのではないかといっているのである。
論を立てるにあたって守るべき最低限の約束とは何か。それは平たくいえばデタラメをいわないということである。
まず、自分が論ずる対象についてデタラメをいってはならない。存在しないものを存在するとしたり、存在するものを存在しないとした上で論を立てたりしてはならないのである。そのためには対象を正しく把握していなければならない。何かを批判するなら、事実にもとづいて批判しなければならない。
次に、論を立てていく過程においてデタラメをいってはならない。正しい推論規則に従って、詭弁を用いてはいけない。誤れる知識をふりまわしてはならない。誤れる引用を利用して論証してはならない。
以上のようなごく単純なごく常識的な約束事である。これらの原則に照らして、渡部氏の所説が、ほとんど一節ごとに誤っていることを、これまで詳細に指摘してきた。その誤りの密度の濃さは、ほとんど信じ難いほどである。おそらく近代言論史上において、定評ある言論誌にのった定評ある(?)言論人の論文の中で、渡部氏のそれは、その誤謬密度の濃さにおいて白眉をなすものといっても過言ではあるまい。
一個の言論人として、言論誌において何事かを批判して論を張る以上、いかに素人であれ、デタラメのならべ放題でよいという道理はない。デタラメはいわないという言論人として守るべき最低限の倫理からは、いかに自分が専門外の事項について口をはさむ場合でも免責されないのである。言論誌で論を張った以上、それがデタラメであったらその責任を追及されて当然である。それがいやなら、言論誌で論を張ることなどせず、床屋のオヤジか茶飲み友達相手の雑談にとどめておくことだ。(『論駁Ⅰ』222頁・223頁)

○ 『反論』に何を書こうと渡部氏の勝手だが、貴重な誌面をおゆずりするのだから、二、三お願いしておきたいことがある。
第一に、これまでも何度か申し上げたことだが、論破されたばかりの議論をバカの一つ覚えで繰り返すことはやめていただきたい。論点が噛み合わない議論はおよそ無意味なのだから、相手が書いたものをちゃんと読んで、自分の論点のどこがどう批判されたのかを踏まえた上で議論を展開していただきたい。
第二に、事実にもとづいた議論をしていただきたい。渡部氏はいつもデタラメにもとづいた議論をするので、無意味な議論に終わってしまうのである。
第三に正しい知識にもとづいた議論をしていただきたい。渡部氏の法律に関する知識はその根本的な基礎において欠けておられるようなので、基礎だけでも一応の勉強をなさってから、論じていただきたい。
第四に正しい推論規則に従って議論を展開していただきたい。詭弁にはもうあきあきした。
第五に、これまで私に指摘された数々の誤り(軽く100は超えるだろう)について、すべてを頬かむりで通さず、一言くらい包括的な弁解を試みていただきたい。弁明はどうせ無理だろうから、弁解で結構である。(『論駁Ⅲ』15頁)

○ 要するに、渡部氏の議論は、客観的、絶対的に誤っている部分があまりに多いことにおいて、法律的議論以前の単純誤謬問題として批判されたのである。
  その結果が、100ヵ所以上にもならんとする誤りの指摘である。その一つ一つが、法律的議論以前の単純な誤りなのである。常識では考えられないほど、渡部氏の議論は、客観的な誤りに満ち満ちているのである。ウソだと思われるなら、もう一度『朝日ジャーナル』のバックナンバーをひっくり返して、どこがどう誤りとして指摘されたかよく反省なさるとよい。渡部氏がまだ裁判批判論をつづけたいと願うなら、まず、これらの指摘された誤りの一つ一つについてよく反省し、そうした誤りをまき散らしてきた自分の責任を明らかにすることからはじめなければならないのではないか。(『論駁Ⅱ』243頁)

4-1.【デタラメな主張の特徴】架空の議論の作出・事実のねじ曲げ
○ 一見、反論また反論のオンパレードのごとき観を呈しているが、これが実は、私がいっていないことをいっているとし、あるいは、私がいっていることをいっていないとして、要するに架空の議論を作出して、それに対して『反論』している部分が大半なのである。そういうものに再反論するというのは、実に無意味なことで、もう一度誤読、曲読なしに『大反論』をお読み下さいの一言で、再反論はすんでしまうともいえる。(『論駁Ⅰ』14頁)

○ 論争点においてこちらが本当に負けているなら、いくらぶっ叩かれても仕方がないが、実際は逆なのである。先に述べたように、彼らは事実をねじ曲げることで、勝手に自分たちの勝ちを宣しているのである。
冗談ではないと思った。私も多年ジャーナリズムの世界で飯を食ってきているが、こんな無茶苦茶はきいたことがない。(『論駁Ⅰ』18頁)

○ 私は渡部氏のたぐいまれなる博識ぶりとレトリックの駆使能力にはかねて敬服している者だが、この人がときどき、イカサマ論法を使うことを、この人のために残念に思っている。
イカサマ論法とは、〔略〕人の発言をねじまげて引用して、人がいっていないことをいったことにして論をすすめるたぐいの論法である。(『論駁Ⅰ』28頁)

○ こういう論法が許されるなら、どんな論証でも可能になるだろう。自分に都合が悪い証拠が出てきたら「あ、それはごまかしで本当はこうなんです。あ、それもごまかしで、事実はこうです」といっていれば、事実と正反対のことでも論証可能である。渡部氏のこういう論法こそ、まさに「ごまかし」そのものである。(『論駁Ⅱ』262頁)
4-2.【デタラメな主張の特徴】デタラメな引用
○ 引用によって何かを論証しようとするときには、次の条件が守られねばならない。
 (1) 引用の仕方において正しい引用であること。
 (2) 引用された内容が客観的に正しいこと。
 (3) その引用が論理的に正しく論証の一部を構成していること。
  第一則の「引用の仕方において正しい」とは、引用にあたって手を加えたり、コンテクストを無視して、別の意味のものにしてしまったりしてはいけないということである。   渡部氏が岡原、藤林両元最最裁長官〔ママ〕の新聞談話を引用するにあたって、この禁を犯していたことは、前章で述べた通りである。
  意味の取りちがえには、悪意のものと善意のものとがある。悪意のものとは、相手を非難攻撃するためとか、詭弁を弄して世の中をたぶらかそうなどの邪な目的を達成せんとして、わざと意味を取りちがえて引用するものをいう。善意のものとは、頭が悪いなどの理由で、本当に意味を取り違えてしまったものをいう。
 〔略〕
  渡部氏が、「裁判が世論に左右される」ことを論証しようとして、秦野法相発言を引用してみたが、それがこの禁を犯していたので、全く論証にならなかったことは前章で述べた通りである。
  第二則の禁を犯す人は、内容が正しくない引用をしてもそれがバレることはあるまいと読者をバカにして騙す人であるか、内容が正しいか正しくないかを判断するのに十分な知識を持っていない人であるかのどちらかである。渡部氏はいくらなんでも前者のような悪意なもの書きではあるまいから、恐らく後者であろう。
  第三則は、その内容がいくら正しくとも、それが論証に役立っていない引用は無意味だということを意味する。〔略〕
  ところが渡部氏は、この禁もまた犯している。前章で述べた佐藤欣子氏の論文の引用がそれである。引用された佐藤氏の論文の内容それ自体は正しい。しかし、渡部氏はこれをどこか根本的なところで誤読してしまったために、それを全く論証の役に立たない部分に引用して得々としていたわけである。(『論駁Ⅰ』36頁・37頁)

○ わざわざ大佛次郎氏の『ドレフュス事件』のページまで引いて引用しているのだから、一応孫引きではなくその本を自分で読んでおられるのだろう。しかし、本当にその本を読んでおられるのなら、その本のどこにもそんな話は書かれていないことを渡部氏はご存知のはずである。それでいて、どうしてこんな文章が書けるのか、全く不思議である。こういう例があまりに多いのでいうのだが、もしかしたら渡部氏は、引用を利用してウソをつく“引用虚言癖”とでもいうような一種の病気にかかっておられるのではないだろうか。(『論駁Ⅰ』191頁・192頁)

○ たいていの人は、その博識な引用と華麗なレトリックに眩惑されてしまうが、実は一皮ひんむいてみると、この通りその大半はイカサマな引用とレトリックならぬ詭弁とデタラメの羅列なのである。(『論駁Ⅰ』194頁)
4-3.【デタラメな主張の特徴】勉強不足
○ 渡部氏の議論は、このように、はじめからおかしなところだらけなのである。誤りを指摘していくだけでウンザリしてくる。これだけ誤りが多い論に対しては、たいていの人は、反論する気さえ起こらないだろう。岡原氏〔注:岡原昌男・元最高裁長官〕は、渡部氏の最初の「暗黒裁判論」に対して、編集部から反論を書かないかと求められたとき、「少し法律を勉強してから出なおせ」と、一言ではねつけたという。私も、「大反論」の中で、「新年号の渡部さんのをちょっとだけ読んでみたら、あまりにお粗末な議論なので、こんなものに付き合うのは、時間の無駄」と一刀両断にするにとどめておいた。本人はそれがいたく不満であったらしく、今回の「異議あり」の中でさかんに私に噛みついてくるので、私も仕方なくお相手している。書きながら、大学教授という立場もあるだろうにと、少々渡部氏が哀れにもなってくるのだが、本人が望むのだから仕方あるまい。(『論駁Ⅰ』34頁)

○ 裁判についてあまりご存知ない方であれば、こういうくだりを読んでも、「渡部先生はさすがに法律にお強くていらっしゃる。一つ一つの公判の中身まで援用なさって議論を展開なさっておられる」と感心してしまうところだろう。しかし、法律知識のある人は、こんな文章を読むと、訳がわからず目を白黒させてしまうはずである。(『論駁Ⅰ』66頁)  〔略〕
  いくら英語のシンタックスに通じていても英語の単語を知らなければ英語が読めないように、いくら日本語のシンタックスに通じていても、法律用語の基礎知識がないと、法律関係書は読めないものなのである。(『論駁Ⅰ』67頁)

○ 渡部氏はいう。
「準職務権限という考え方が、今回の受託収賄裁判で示されたけれども、あれもインチキです」
「裁判官は『準職務権限』という概念を持ち出して有罪とした」
  ところが、そういう事実はまったくないのだ。「準職務権限」などという、渡部氏が発明したにちがいない概念など、誰も持ち出してはいない。判決文をはじめから終わりまで目を皿のようにして読んでも、準職務権限の5文字を発見することは誰にもできないだろう。
またしても渡部氏は、ないものをあるとして議論を組み立ててしまったのである。そもそも「準職務権限」という概念がないのだから、渡部氏の議論はすべて無意味であると一刀両断にしてもよいところだが、それではあまりにお気の毒である。おそらく、「準職務権限」とは、「準職務行為」の間違いにちがいあるまいと思われるので、こちらで、勝手にそう訂正させていただいて、さらに議論をつづけることにする。念のためにいっておけば、これは決してあげ足取りではない。「権限」と「行為」とは、全くちがう概念なのだ。そして、法律的な議論を展開するためには、こうした基礎的な概念をきちんと峻別しておかなければならないのである。
しかし、「準職務権限」を「準職務行為」と訂正してみても、渡部氏の立論は全然なっていないのである。(『論駁Ⅰ』89頁・90頁)

○ おそらく、渡部氏は、最も初歩的な刑法の解説書をのぞいてみることすらせずに、ご自分の「職務権限論」を構想なさったので、かくのごとき独自の見解を開陳なさることになってしまったのだろう。(『論駁Ⅰ』92頁)

○ 好意的に解釈すれば、渡部氏は法律に関してあまりに無知であるために、そもそも例外規定が存在することすらご存知なかったのだろう。しかし、もともとは無知であっても、自分が批判しようとする対象を一応は事前に調べてみるという人であれば、いくら何でも渡部氏くらいズサンな議論を組み立てることはしなかったにちがいない。(『論駁Ⅰ』182頁)

○ それには渡部氏自身が告白しているように、渡部氏はあまりに法律に素人なので論者として不適格である。(『論駁Ⅰ』185頁)

○ 法律を素人が自分勝手な解釈で読んでいると、ときどきとんでもない間違いを犯すことがあるということをご存知か。(『論駁Ⅲ』53頁)

○ 「もし検察側が『受け取った』と主張するならば、その厖大な量の札束をどうして集め、誰がダンボールに詰めたかまで明らかにしなければなるまい」
検察側はそれをすでに明らかにしている。ただ渡部氏が知らないだけである。(『論駁Ⅰ』61頁)

○ 渡部氏の暗黒裁判論は、事実誤認と、法に対する無知無理解に起因するナンセンスな議論であるというにつきる。(『論駁Ⅲ』75頁)
4-4.【デタラメな主張の特徴】妄想
○ 渡部氏は、そんな大金が現金でおいてある「はずがない」という単なる推測から出発して、突如名探偵に変じ、次々に空想的推理というか妄想をくり広げていくのである。(『論駁Ⅰ』56頁)

○ 現実は渡部氏のイマジネーションからひねり出された推理より、もうちょっと複雑にできているのである。この世の中には、君のお粗末な頭ではとても考えが及ばぬような不思議なことが沢山あるのだよ、ホレーショ君。(『論駁Ⅰ』60頁)

○ くり返しになるが、本当にこういう例も珍しい。誤りがところどころにあるというならまだしも、はじめから終わりまでデタラメなのである。いったいこの方はどういう神経をお持ちなのか。しかもその後半は、事実から離れて、自分勝手にあれこれ妄想をたくましくして、その妄想の上に立って裁判批判を展開なさるのである。(『論駁Ⅰ』62頁)

○ 小室氏の言がそれほど信ずるに足るものであるかどうか、やはり盲信の根拠を示しておかないとまずかろうと渡部氏も考えたらしい。その根拠を次のように説明している。 「同氏は田中裁判に関連した本も二、三冊書いておられるし、いろいろのところで発言もしておられるから、かなりよく裁判をフォローしておられるはずである」
つまり、「かなりよく裁判をフォローしておられるはず」という推測が盲信の根拠だというのである。全く恐れいったものである。それでも、その推測が当たっていればよいが、これは全く的外れの推測で、小室氏は渡部氏の盲信に耐えるほど、田中裁判に通じてはいらっしゃらない。それどころか、この方は裁判というものについて、何か根本的なところで思いちがいをしておられるようなのである。(『論駁Ⅰ』39頁)

○ 渡部氏にとって、そういう現実はどうでもよいのである。あるときには空想や妄想、あるときには誤読した資料や誤引用などを根拠として、ひたすら自分の「予断」を展開していくだけなのである。(『論駁Ⅰ』72頁)
4-5.【デタラメな主張の特徴】無知と悪意
○ 善意の誤りにしては、あまりにひどい誤りであるし、悪意の誤りであるとすると、稀代のデマゴーグということになろう。(『論駁Ⅰ』168頁)

○ 一般の人にはいかにももっともらしく聞こえるかもしれないが、全くこれはひどい発言である。無知と悪意にもとづけば、どんな下司のかんぐりでも可能になるということの見本のようなものだ。(『論駁Ⅱ』76頁)

○ 渡部昇一氏の英語力を疑うわけではないが、渡部氏は、自分の議論を展開する上できわめて非良心的なごまかしのテクニックをたびたび弄することでよく知られた人なので、英文の釈義の問題でも渡部氏の所説をうのみにすることはできない。(『論駁Ⅱ』183頁)

○ 上智大学の英語学教授ともあろう渡部氏が、どうしてこんな読み誤りをなすったのだろうか。まさか渡部氏の英語力に欠けるところがあるとは思えないので、これは渡部氏が、田中裁判を批判するためなら、どんな事実のねじまげをも辞すまいと固く決意しているがゆえになした意図的な誤読であろうと好意的に解釈しておく。(『論駁Ⅱ』193頁)
4-6.【デタラメな主張の特徴】ブーメラン・自分がヨイショした人物に裏切られて自滅
○ 渡部氏も、ときにはいいことをいうものである。しかし、渡部氏において問題なのは、ときにいいことをいっても、自分ではそれに従わないことである。渡部氏には、ここで自分が述べたことをよく記憶しておいていただこう。後々、その刃が自分に突きささることになるだろう。(『論駁Ⅱ』242頁)

○ 渡部氏の高名な著書『知的生活の方法』を開いてみたら、こんなことが書いてあった。 「英語には『知的正直』という言葉がある。知的正直というのは簡単に言えば、わからないのにわかったふりをしない、ということにつきるのである」
渡部氏がこの裁判に関して書かれるものは、「知的正直」において少々欠けすぎていらっしゃるのではなかろうか。(『論駁Ⅰ』68頁)

○ 次に渡部氏は、岡原・藤林発言の、「7年にもわたって審理をつくした」というところに噛みつく。
「藤林・元最高裁長官は『一審判決まで7年経過しており・・・・・』と言い、岡原・元最高裁長官も『岡田判決は7年にもわたり審理を十分尽くしており・・・・・』と言っておられる。誰だって7年間もかかってしらべたことなら、事実の認定も確かだろうと思う。しかしこれも予断の一種である。問題は何を調べていたかということなのである。約7年かかっているとは言いながら、『その大半は、検察側の立証とその反論、例えば検察官調書の任意性・信用性等を争うために費やされている』(佐藤欣子「日本の裁き-ロッキード判決が提起した問題点」『中央公論』昭和58年12月号145ページ)」(「暗黒裁判論」)
 私はこのくだりを読んで、この人は裁判というものを、いくらかでも知った上でこんなことをいっているのだろうかと、いぶかしく思った。7年間の審理の大半が、「検察側の立証とその反論」に費やされたことが、「審理を尽くす」上で何か問題になるのだろうか。裁判における中心的な審理とは、まさにそれ、すなわち「検察側の立証とその反論」でなければならないはずである。刑事裁判において、挙証責任は、検察側が負っている。〔略〕
 渡部氏が「とてつもない専門家」「プロ中のプロ」と尊敬している石島泰弁護士も、「裁判において裁かれるのは検察官である」といい、「検察側の主張と立証をあくまでも厳しく吟味しなければいけないのです。それが近代国家の本来の刑事裁判のあるべき姿なのです」といっている。この裁判においては7年間の大半を費やして、その「厳しい吟味」をやっていたということなのである。渡部氏がそのどこに不満なのかさっぱりわからない。(『論駁Ⅰ』33頁・34頁)
4-7.【デタラメな主張の特徴】バカの一つ覚え
○ 通常の知的理解力を持つ人間が、それを読んだ上で、いま論破されたばかりの議論をもう一度そっくりそのままくり返すというのは、信じられない話である。相手に再反論を加えたり、あるいは論破された議論を何らか補強したり、修正を加えたりして論理的修復を試みた上でもう一度くり返すというのならまだ話はわかる。しかし、そんなことは何もしないで、ただバカの一つ覚えのようにくり返すだけなのである。(『論駁Ⅰ』231頁)

○ もはや渡部氏においては、「バカの一つ覚えを繰り返す」という悪癖は病気の域にまで達しているというべきだろう。あるいは、表現を変えていえば、渡部氏の頭の中にはそれしか詰まっていないので、どうひねっても叩いてもバカの一つ覚えしか出てこないということなのだろう。(『論駁Ⅲ』21頁)

○「うんざりするほど多量の法廷関係文書の引用で、読者がフォローできないようにしてから、結論のところだけ、日常語でわかり易く渡部の人格攻撃をする」
「本文はとにかくごたごた難しげな引用やら、専門的に見える表現が多い」
「本文の中で立花氏が法廷関係文章で紙面を埋め、渡部に対する個人攻撃だけは誰にもわかる言葉にしている」
「内容はちょっと読んでもわからない」
これを読んで、ウーム、ナルホドと私はうなってしまった。はじめは、論旨が追えないとか、難しくてわからないというのは渡部氏お得意のレトリックであろうと、軽く受け取って読んでいたのだが、どうやらレトリックではなくて、渡部氏は私の論旨を本当に理解できていないことを告白しているらしいということに気がついたのだ。
それではじめて、なぜ渡部氏が頭から湯気が出るほど怒り狂っているのか合点がいったのである。
それはそうだろう。そこにいたる論旨を全く理解できず、最後に、「意図的な誤読であろう」とか、「もう一度英文法の教科書でもひっくり返してみてはいかがか」とか、自分がチクリと揶揄されている部分しか理解できないとしたら、怒り狂って当然である。自分がバカにされていることはわかるが、なぜバカにされているのかわからないときほど腹が立つものはないであろう。
事情がわかってみて、私は渡部氏の怒りにいささか同情の念すら覚えた。それとともに、渡部氏に関してかねてから抱いていたもう一つの疑問にやっと答えが得られた。
それは、渡部氏が、論破されたばかりの議論を、なぜバカの一つ覚えのように何度でも繰り返すのかという疑問である。
前にも、渡部氏の「反論」なるものは、論破されたばかりのことを、何らの論理的修復も試みずに、バカの一つ覚えで繰り返すだけで全く反論の体をなしていないので、渡部氏の知的理解力、論理フォロー能力に疑いをさしはさんだことがある(『論駁Ⅰ』第16章)。 どうやら私の疑いは正しかったようである。渡部氏は自分で「意味をフォローできない」と告白しているのだ。反論され、論破されても、それがわからないから、同じことを繰り返すのである。〔略〕
それ以外にも、渡部氏の論旨には随所に、私の反論がまるで理解できていないことがうかがわれる個所がある。こういう人を相手にして論争することは本当に空しいことである。(『論駁Ⅱ』253頁~255頁)

○ この件に関しては渡部氏が何度も弁解を繰り返しては、しつこくからんでくるので、私は連載40回において、もう渡部氏のいかなる弁解も成り立たぬように、渡部氏の主張を木っ端微塵に粉砕しておいた。それをもう一度よくお読みになられたい。私がこの件に関して、一行たりとも削除する必要がないことがおわかりになるだろう。もちろん、これに関して、渡部氏をバカ呼ばわりした部分も含めてである。(『論駁Ⅲ』60頁)

○ 渡部氏の議論は、殺しても殺してもすぐに生き返って襲ってくる死人の恐ろしさを持っている。
 渡部氏の議論に対しては、事実による反駁も、論理による反駁も何の役にも立たない。渡部氏はそうしたものに何の痛痒も感じないのだ。事実と論理によって何度打ち倒されようと、渡部氏は黙って再び身を起こす。そして同じ議論を繰り返す。
 事実と論理における敗北を、感性に対する感情的訴えかけによって引っくり返そうとする。
 いかに論破されようととことん同じ主張を論理的にではなく感情的に繰り返すという対抗手段をとることで絶対に自分の敗北を認めないのである。この手の論者が昔から三種類いる。純粋のバカ、宗教的狂信者、それに政治的狂信者(とりわけファシスト)の三つである。渡部氏もそのいずれかなのだろう。
 バカであろうと、狂信者であろうと、このような非論理的かつ扇情的言論人が、言論界において一定の地歩を占めているというのは、冷静に考えてみると恐ろしいことである。だが最近の世の中を見ると渡部氏に限らず、この手の人々が言論界のみならず、あちこちでのさばりはじめるという空恐ろしい時代になってきたようである。
渡部氏はそうした時代の到来を告知する言論界の象徴である。(『論駁Ⅲ』88頁・89頁)

○ デマゴーグは一般に自分のデマに酔って、デマをどんどんエスカレートさせていく性向を持つものだが、これもその一例である。(『論駁Ⅰ』161頁)
5.論駁された者の末路
○ このようなお粗末な「反論」を読んでいると、このような人を相手にして議論することの空しさを感じてくる。このような人に対しては、どんな反論を突きつけても無駄なのではないかという気がしてくるのである。端的にいってしまえば、渡部氏には論理を追う能力が欠けているのではあるまいか。どんな反論を読んでも、この人は「私の疑義に何も答えていない」などということをぬけぬけと繰り返すのではあるまいか。(『論駁Ⅰ』230頁)

○ 開き直ったあとで、実は秘かに論争経緯、事実経緯を勉強し直すくらいのことをせめてすればよいのに、それすらもしない。それをしないでおいて、私に向って、『数々の事実誤認を犯し』ているとか、『デマゴギー』だとか非難するのである。
  どこか間違ったことをいったかなと思って、ずっと読んでいくと、彼らが相も変らぬ勉強不足であるが故の事実誤認の上にたって、私を非難しているだけの話なのである。(『論駁Ⅰ』17頁)

○ 人に誤りを指摘されたら、多少は事実関係を確認するとか、問題点について勉強し直すとかしてから反論を試みればよいのに、興奮のあまり何の準備もなしに飛び出してきて、またまた間違いだらけの発言をくり返すことになってしまったわけだ。(『論駁Ⅰ』249頁)

○ しかし読みすすめていくと、そうではなくて、私が事実問題をレトリック問題にすりかえたから、私がデマゴーグであるというところに話を持っていきたいらしいのだ。しかし、私は常に渡部氏の誤りを指摘するときに、それが事実に照らして誤りであることを指摘してきたのであって、事実問題をレトリック問題にすりかえたことなど一度もない。ともかく、渡部氏のこのへんの論理展開は支離滅裂なので、いくら読んでも、渡部氏が何をいいたいのかさっぱりわからない・・・・・(『論駁Ⅱ』240頁・241頁)

○ どこでどのように、私がレトリックとデマゴガリーを混同しているかについては、何の説明もなく、突然、このような非難が飛び出してくるのである。全く、こういう文章を読まされるとタメ息が出てしまう。渡部氏の頭はいったいどういう構造をしているのか。私はただ、事実と論理法則に照らして、いかに渡部氏の議論が誤っているかを一つ一つ淡々と指摘してきただけなのに、渡部氏はその批判に逆上して、全部がデマだ、嘘だとわめいているわけである。(『論駁Ⅱ』245頁)

○ この場合、なぜ渡部氏の頭が疑われるかといえば、論証に全くならない話を持ってきて論証しようとしたからである。この際、論証内容を全く別にしても、論証方法そのものが完全にナンセンスなものであったから、頭が疑われたのである。だから、あとになってあわてて、別の新資料を持ち出してきて、論証内容そのものの正しさは維持されるのだといってみたところではじまらないのである。そのことによって、頭が疑われるもとになった先の論証方法のナンセンスさがいささかでも救われるわけではないのである。(『論駁Ⅱ』267頁)

○ 私に論破された部分が多くなるにつれ、ズルズル、ズルズルと後退し、残り少ない未言及部分に閉じこもっては、「立花氏は何も答えていない」と叫んで虚勢を張っているわけだ。太平洋戦争末期の日本軍のようなものである。(『論駁Ⅲ』27頁)

○ いくら渡部氏が、イエスかノーかで答えろなどといっても、それに取り合うわけにはいかない。だいたい、渡部氏の提出する問題とやらは、先の例のように大前提が間違っていたり、事実誤認や法律知識の欠如の上に立てられた問題なので、そもそもイエス、ノーで答えられるような問題ではないのである。(『論駁Ⅲ』27頁)

○ 常識で考えれば、これはどう申し開きをしようにも申し開きができないほど、単純でバカげたミスなのである。こういうバカげたミスをした場合は、すぐに頭を下げてしまえばよいのである。
 ところが、渡部氏はよほど自分の過ちを認めるのがきらいな方なのだろう。なんと一ページ半にもわたって、ああでもないこうでもないと理屈をこねまわしたあげく、なんと逆に私を「揚げ足取り」と非難するのである。
 さすが自称レトリックの大家である。これだけ単純きわまりないミスですら、自分の過ちを認めず、逆に、相手に逆襲するというような鉄面皮な芸当は渡部氏以外、どんな人にもちょっとできないだろう。
 そこにおいてこねさした理屈にいささかでも理があるというならまだしも、まるでナンセンスなのである。(『論駁Ⅲ』66-67頁)

○ 問題の立て方が誤っている問いに対しては、問題の立て方が誤りであるという指摘が唯一可能な答えと思うがいかがか。(『論駁Ⅲ』68頁)

○ とうとう渡部氏は尻尾をまいて逃げ出してしまった。(『論駁Ⅲ』73頁)
  〔略〕
渡部氏が論争から逃げ出した本当に理由は何か。
  要するに答えに窮したのである。
私が、番外⑥(本書番外第3章)で、渡部氏のごまかしがきかないように35の質問を連続的に浴びせたところ、渡部氏は答えに窮して、遁走を開始したのである。番外⑦で、渡部氏は一応それらの質問に答えたような体裁だけは取りつくろっておられる。しかし、問いと答えをひきくらべてみればすぐわかるように、渡部氏の答えはまるで答えになっていないのである。つづく番外⑧(本書番外第4章)で浴びせた44の質問についても同じである。渡部氏は答えている体裁をつくろっただけで、何も答えていないのである。答えられなかったのである。(『論駁Ⅲ』74頁)

○ 突然、渡部氏のほうからこれまでの論争経過を無視した大ざっぱな質問を幾つか私に投げつけて、これに答えていない、あれに答えていないなどとわめきちらしても、論争にはならないのである。(『論駁Ⅲ』76頁)

○ これに対して渡部氏は、デタラメなど全くないと強弁なさった。もし渡部氏が人なみの廉恥心を持つ男なら、私の42回にわたる連載を虚心に読み直されたあとでは二度とお天道さまの下で顔を上げては歩けないくらい恥じ入られて当然のはずである。そこには、全く申し開きができない明々白々のデタラメが次から次へと指摘されているではないか。それなのに、「立花氏の指摘されたデタラメというのは全く検討違いで根拠がないのだ。それについてあやまるとか、削除ということは問題にならない」と開き直られるのだから、全く恐れ入る。
  もう一度申し上げておくが、具体的な反論抜きのこうした開き直りは、デタラメの自認と同じである。(『論駁Ⅲ』81頁)

連載第1回(今回):「9条加憲」と立憲主義

連載第2回:「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか

連載第3回:憲法前文とその意義

連載第4回(完):憲法9条をめぐって

補遺(今回):立花隆『論駁-ロッキード裁判批判を斬る』にみるデタラメな主張への論駁

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