55年目の暑い夏に 2000年8月7日

年の夏は車でヨーロッパ各地を旅したが、今年は書斎にこもる日々が続く。7 〜9月の講演は計9回あるが、東京近辺ばかり。エリザベト音楽大学を「メール解雇」されたので、この夏広島に滞在する予定もない。隣室を埋めている新聞5紙1年分の切り抜きにとりかかったものの、1日かかって2カ月分を処理するのがやっと。

そんな猛暑のある日、台東区の弁護士の依頼で浅草で講演した。東京大空襲で多くの犠牲者を出した地域なので、戦前の防空法の問題に触れることにし、『三省堂ぶっくれっと』連載の拙稿を2年ぶりに読み返した。そして、浅草寺境内にある平和地蔵尊や「大平和塔」の写真を撮るため、少し早めに家を出た。撮影も終わり、講演まで少し時間があったので、煎餅焼きの実演を眺めていたら、作家の早乙女勝元氏とばったり。近々ドイツ取材に出発するとのことで、そのためのお土産を買いに仲見世に来られたそうだ。近くの喫茶店に入り、最新ドイツ事情をお話した。ほんの数秒の違いでこの機会はなかったわけで、「出会いの最大瞬間風速」を感じた。早乙女氏には、米映画「レマゲン鉄橋」の舞台となった、ボン近郊レーマーゲンのことも紹介した。ドイツでの取材が実り多きものになることを祈りたい。

ところで、こう猛暑が続き、気分が内向きだと、原稿執筆の意欲がわかない。東京大空襲ボン空襲カーチス・ルメイ将軍についてはすでに書いたし、原爆については何度も触れている。ここまで書いてきて執筆を中断。駅前の本屋に行って、7月新刊・チャールズ・W・スウィーニー(元米空軍少将)『私はヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した』(原書房)を買い、一気に読み終えた。エノラ・ゲイの右側を飛ぶ観測機を操縦して広島に向かい、4トンのウラン爆弾が投下されるのを目撃。3日後にはボックス・カー(原爆投下機)に搭乗して小倉に向かうも、前夜の八幡製鉄所爆撃の煙が上空に漂っており、結局投下を断念して、次の目標たる長崎に向かう。当時少佐だった著者の生々しい証言は、知っていた事柄が多いものの、ディーテールはなかなかのもの。とはいえ、原爆投下は「残虐な戦争の破壊と犠牲を一日も早く終わらせるためのものだった」という認識に変わりはなく、深い自己省察もない。執筆を中断して買いに走ったが、ここに書き加える意欲はおきなかった。

再び執筆を中断して書庫に向かう。移動式書架で計200棚あるが、その奥の方に『空襲の歴史』(O.Groehler,Geschichte des Luftkriegs 1910 bis 1970,Berlin 1975)という700頁の本を見つけた。消滅した旧東独の本だから、コテコテの旧ソ連史観で貫かれている。広島・長崎への原爆投下も「ソ連邦に対する冷たい外交戦争における最初にして最大の作戦」という引用で終わる。日本の中小都市空襲に対する批判的言及もある。7月16日の沼津(原文ではNazamuと誤記) (破壊率89.5%)、7月19日の福井空襲(84.8%) 、8月1日の富山空襲(99.5%)が例示され、重要産業のない中小都市空襲は「完全に無意味」とされる。そして、この空襲の真の狙いは、アジア諸国に米軍の破壊能力への畏怖を生ぜしめ、その新植民地主義的野心を遂げるためだったと書く。一方、極東ソ連空軍力は欧州方面により優秀かつ強力で、日本を降伏に追い込む最大の力になったと胸をはる。旧ソ連の参戦とその後の略奪を含む国際法違反の行為の数々は、「偉大なソ連空軍力」の記述の影に隠れてしまう。旧東独が旧ソ連の「子分」だった以上、この本に期待するのは無理というものだろう。

と、ここで再び執筆を中断、ネタを求めて・・・と思ったが行数が尽きた。外の気温は34.3度。