「祭のあと」の沖縄を訪ねて 2000年9月11日

縄サミットの際に報道関係者に配られた「サミットリカちゃん」についてはすでに書いた。そのリカちゃんがYahoo オークションで、レアものとして 25000円の高値をつけた(8月26〜27日) 。驚いたことに、2個目の希望落札価格は7万円に跳ね上がっていた(8月31日0時34分〜9月2日18時34分終了)。もっとも、実際の落札価格は3万円どまり。ごく限られたファンに7930円で限定販売された1200個(オークションでもせいぜい8000円程度で落札)とは異なり、税金を使った外務省委託「海外広報用沖縄人形」はやはり希少価値だった。IDカード提示で1個ずつ渡されたから、報道関係者以外は決して入手できない。それにしても、7万円を希望するとは、ずいぶんと強欲な記者(たぶん独身)もいたものだ。ジャーナリストとしての姿勢がさらに問われよう。なお、7月下旬、埼玉県在住の会社社長(「頬に傷」方面らしい!)から、「リカちゃんファンの女房のために一つ譲ってくれないか」という電話が地方紙のある記者のところに入った。「サミットリカちゃん」をもらった日本の報道関係者は2900人。それぞれの良心が問われている。

 さて、9月4日から8日まで沖縄に滞在した。今回は学生28人を連れたゼミ合宿である。ゼミの沖縄合宿としては2年ぶり。学生たちは自分たちの選んだテーマに沿って4班に分かれ、車で各地をまわった。沖縄戦班はあまり人の行かない戦跡を求めて南部を移動。沖縄遺族会の関係者とも会い、また琉球大の学生と討論した。基地・経済班は基地間近の普天間2小を訪問。名護などにも足をのばして、基地関係者を取材した。復帰運動班は運動のキーパーソンに話を聞いたほか、沖縄市(旧コザ)で「コザ暴動」の関係者に取材した。沖縄文化班はアメラジアンスクールを訪問。古い琉球切手を求めて切手博物館などを彷徨した。私の関心は、「金どぅ宝」(命どぅ宝〔命こそ宝〕をパロッた)を蔓延させたと言われる沖縄サミット「祭のあと」を取材することだ。これについては別の機会にしよう。山内徳信前読谷村長、前県出納長とも再会した(←98年1月26日付直言へ! & 98年6月1日付直言へ!)。出納長辞任後、平和憲法・地方自治研究所理事長として執筆や講演に多忙な日々だ。山内氏は、去年11月に完成した「基地内の文化センター」の研修室で、学生たちに3時間に及ぶ熱弁をふるった。基地は戦争、文化は平和。「基地に文化の楔を打ち込む」。野球場、福祉センター、村役場、そして今回の文化センターが実現した。そして最近、補助滑走路だけでなく、米軍が使用していないメイン滑走路にも、村は黄色い線を引いてしまった。直線の100m道路。まだ米軍基地内なので、交通違反取締りはない(でも暴走運転は一度も目撃しなかった)。夢はさらに広がる。彼は村長時代、施政方針演説で、「嘉手納基地を国際空港にする。読谷村を含む中部地域は経済的に大きく発展する。その時、那覇空港はローカル空港になるだろう」と述べたという。いつか、この壮大な夢も実現するに違いない。3年前、『沖縄読谷村の挑戦』のためのインタビューした時、彼はこの文化センターの構想を私に語った。その際、私も自分の夢を伝えた。村長室の屏風に描かれた村長自作の詩「歴史を生きる」。これをもとに7楽章から成る交響詩「よみたん」を作曲する。私はこの夢を若き音楽家に託した。初演は「基地の中の文化センター」で行う、と。いつの日にか、この夢も実現する時が来るだろう。

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