わが歴史グッズの話(7) アフガン・ブルカ  2002年7月8日

フガニスタンから届いたアシアナ「軍民転換(コンヴァージョン)玩具」のことは前に紹介した。この玩具は、5月3日の岡山講演でお披露目をしたあと、6月にやった4回の講演のなかで、現物を持参して紹介した。木製のため、地雷や機関砲弾の薬莢のように空港の手荷物検査でトラブルことがないので安心だ。

  さて、今回の「わが歴史グッズの話」も、そのアフガニスタンから届いたもの。今年1月、首都カブールの市場で売られていたブルカである。「カブールのブルカをかぶーる?」なんて「さむ~い」ことは一切言わないで、女性の院生や学生にかぶってもらった。男性の着用は許されないというので、私は一度もかぶっていない。これをかぶった院生・学生に感想を聞いてみたところ、視界の狭さは共通に指摘していたが、思ったより生地がサラサラしており、軽いという感想もあった。法学部の事務職員(女性)の方が、1975年に「アフガニスタン・イラン・トルコ6000キロ縦断バスツアー」に参加した時の話をしてくれた。イスラム革命前のイランは、米国のものが目立ち、物質文明に毒されているという印象が強かったが、アフガニスタンに入ると、貧しいながらも清楚な雰囲気で、物乞いもいない。20歳くらいの学生と話したが、国を背負う気概を感じ、こういう生き方もあるのだなと、彼女は好感をもったという。王政下のイランとアフガンをバスで走破するというのは、実に貴重な体験だったと思う。ほんの数年で、この地域の状況は一変してしまうからである。
   この職員の方にも、ブルカをかぶってもらった。「あら、ずいぶん軽いですね」。実はこの方は、バスツアーで通過した諸国のブルカ(チャドル)を全部かぶってみたという。その「ブルカ比較論」は実に興味深かった。彼女によれば、当時のブルカは、麻織りのカーテンのようで、結構重たかったという。それに比して、今回のものは、実にサラサラしていて快適だという。イスラム諸国で日常的に着用されているブルカも、それなりに工夫が加えられてきているようである。問題は、その着用を無理強いすることだろう。タリバンによるブルカ強制については、『ラティファの告白――アフガニスタン少女の手記』(角川書店)に詳しい。
  「1996年9月27日という日に、突然こんなふうに人生がストップしてしまうなんて!私はまだたったの16歳なのに。やりたいことがたくさんあるのに。ジャーナリストになるために大学にも進みたい!」。ラティファは、タリバンのカブール占領が始まった日をこう描写している。これを読んで私は、1975年4月17日を思い出した。ポルポト派によるプノンペン「解放」の日である。ポルポト政権のような大虐殺こそなかったものの、タリバン支配下でアフガニスタンの人々は苦難の生活を強いられた。『ラティファの告白』には、こんなタリバンの「布告」が紹介されている。その一例。あらゆる女性は自宅の外で仕事をする権利を持たない。父親または夫の付き添いなしの外出は許されない。顔の化粧の禁止。人間および動物の写真を貼ることの禁止。若い娘は若者と会話する権利はない。警察が違反者を罰するにあたり、いかなる者も質問や批判をする権利はない。戒律に違反する者は、公共の場ですぐさま罰せられる。犬や鳥を飼うことの禁止、等々。
  ラティファの冷静な眼は、タリバン支配の本質をこう見抜く。〈コーランを持って外出した女性をタリバンが見つけ、鞭で打った。女性のコーランが地面に落ちた。タリバンは誰一人コーランを拾おうとしない。コーランは決して地面に直接置いてはいけないことになっている。タリバンはイスラムの基本となっている慣習を気にかけない。彼等の布告には、神聖なるコーランに反する錯誤がたくさんある〉 ブルカをかぶる風習一般が悪いわけではなく、また、イスラムの教えが野蛮なのでは断じてない。タリバンがイスラムの教えを単純化・歪曲して、おのれの極端な思想を強制したことが問題なのである。ラティファの告発は、そのことを浮き彫りにしている。

  カブールに、米軍の支援を受けた北部同盟の部隊が入ったとき、メディアは、カブールでヒゲを剃る人や、ブルカを脱いだ女性の写真を配信した。この写真は、「対テロ戦争」と称して米軍が行った「空爆」を正当化するのに、大いに利用された。ブッシュ大統領夫人やブレア英国首相夫人などがしゃしゃり出て、「ブルカこそ女性の敵」というキャンペーンをはった。コソボでは「人権のための爆弾」だったが、アフガンでは「ブルカから解放するための空爆」というわけだ。だが、ブルカはタリバンを排除し、親米政権をつくるための正当化のシンボルに利用されたにすぎない。北部同盟支配下では、女性たちはブルカをかぶったままだという。

  なお、最近、北部同盟による捕虜虐殺と、それへの米軍の関与を示す事実が次第に明らかになってきた。昨年の11月、アフガニスタン北部のマザリシャリフ近郊で起きた虐殺については、昨年12月段階で問題を提起しておいた。この6月中旬、アイルランドのジャーナリストがドキュメンタリー作品を完成。これがベルリンで公開された。これを伝えた新聞によると、アフガン北部のクンドゥスで捕虜となったタリバンとアルカイダの兵士8000人のうちの3000人が「消えた」というのだ。彼らは、少なくとも13のコンテナに、300名ずつ押し込められて、移送された。途中、炎天下で窒息死したり、空気穴を作るための銃撃で多くが射殺された。その死体は砂漠に埋められた。これらは、コンテナを搬送したアフガニスタン人運転手の証言である。こうして「消えた」捕虜は3000人を超えるという(die taz vom 13.6.02) 。ドイツの高級週刊紙も、事件の詳細な検証レポートを載せた(Die Zeit,Nr.27)。もしこれが本当ならば、捕虜虐待は国際法違反である。米軍が関与した証拠も次第に明らかになりつつある。砂漠に「消えた」3000人余の問題は、米国自身が掲げる「対テロ戦争」という「大義名分」によっても断じて正当化されえないだろう。
   7月1日、国際刑事裁判所が発足した(詳しくは、安藤泰子『国際刑事裁判所の理念』成文堂参照)。クリントン民主党政権はしぶしぶ賛成したのに、ブッシュ共和党政権は、土壇場でその発足を妨害するため、えげつない身勝手を続けている。なぜ、ここまで抵抗するか。いずれ、ブッシュ親子の悪行の数々が、世界注視のなかで明らかにされる日が来るだろう。ブルカについても、世界はもっと冷静に見られるときがくると思う。

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