大学に保育所ができた 2003年5月5日

ラク戦争の暗いニュースが巷を覆っていた4月3日。気分を和らげる、うれしい出来事があった。早稲田大学内保育所「ももちゃんハウス」の開所式である。「保育所ワーキング」のメンバーであった関係で、式に招待された。白井克彦総長が、大学が保育所をもつことの意義について挨拶した。「孫をこの保育所に預けたいが、目下の課題は息子が結婚してくれないことだ」と参加者を笑わせた(←どこかで聞いた話?)。挨拶を聞きながら、彼が総長候補者の時に組合で実施したビデオ撮りの際、保育所設置について直接質問したことが懐かしく思い出された

  大学内保育所(当初は託児所)要求が初めて打ち出されたのは、2001年10月のことだった。当時、教員組合書記長として、早大全学から選ばれた19人の執行委員と方針案を討議していた。幼児を抱える女性執行委員の発言を契機に、「妻も職員なので、学内に託児所があれば助かります。賛成です」という男性教員の発言が加わり、執行部全体の意見がピタリとまとまった。「これはいける」と思った。夢が実現に向かう時の「手応え」を感じた瞬間だった。執行委員会内に託児所プロジェクトチームが設置された。すぐに早大職員組合も賛同して、教職両組合の共同要求となった。
   20年ほど前に早大職員組合のなかで学内託児所を求める声が挙がったが、「保育は地域の問題。赤ちゃんを背負って満員電車で通うのか」という意見が根強く、要求化が断念された経緯がある。私は、「満員電車云々のイメージは古い。ライフスタイルの多様性から、子どもを育てながら学び、働くことを支援する仕組みをつくる。学生の分際で妊娠したという発想ではなく、妊娠した人が学生になっても学べると考えよう」と指摘した。なお、私の個人的事情は、「育児と育人」で書いた
  その後、02年元旦の直言でも、学内保育所をつくる意義について言及した。さらに、「大学に託児所をつくる」で具体的な活動方針について触れた。春闘要求書を提出した第1回春闘団体交渉(2002年3月18日)では、「保育所をもつことは、大学の品位の問題である」と主張した。奥島孝康前総長は、「よい提案である」として積極的検討を約束した。3カ月後の6月10日、理事会・組合共同の保育所ワーキンググループ(座長・紙屋学生部長、副座長・越川教員組合執行委員〔組合託児所プロジェクト責任者〕)が発足。東京都認証保育所として発足させる可能性なども視野に入れながら、具体的検討を重ねた。私が教員組合書記長を退任するときに書いた「大学問題の『現場』から」でもそのことに触れた。

  かくして、組合が最初に問題提起をしてから1年半で、大学内保育所は実現した。奥島前総長の「一発回答」から1年で開所式を迎えられたことは喜ばしい限りである。この学内保育所にはマスコミも注目。朝日、読売、産経などで記事になったほか、NHKの朝のニュースでも報道された。直近では、朝日新聞論説委員のコラム「窓」で紹介された。そこには、私の大学院生時代の「失敗談」まで書かれている。
  多くの人の思いが交差して、結果的にこの時期、このタイミングで学内保育所が作られたわけである。子どもを育てることと、仕事や学業に打ち込むことが両立する社会をどうつくっていくか。学内保育所は、そのささやかな第一歩と考えたい。教職員の利用促進や、学生にとって決して安くない保育料の問題など、改善すべき課題も多い。よりよいものにしていくために、私も、組合書記長OBとして、また育児OBとして見守っていきたいと思う。以下、論説委員コラム「窓」の文章を、許可を得て転載する。ちなみに、朝日新聞社内でも、社内保育所をつくることが可能かどうか、プロジェクトチームでの検討が始まっているという。

「窓」論説委員室から◇◇学内保育所◇◇
『朝日新聞』2003年4月28日付夕刊(夕刊のない統合版地域は5月1日以降の朝刊)

早稲田大学内にこの春、保育所がオープンした。いま、地域の子どもたちを含めて35人を預かっている。
安心で便利とあって、キャンパスのあちこちで大きなおなかを抱えた人を見かける日が、そのうちやってくるかもしれない。
 「学生が妊娠なんて」と渋い顔の向きもあろうが、時代は変わった。仕事も勉強も子育ても、元気な女性たちが大学を変えていく。
 少子化時代を生き抜く大学のしたたかな戦略も重なる。保育所は、社会人を学生として獲得するための環境整備の一つというわけだ。
 でもそこまでこぎ着けたのは、教員組合の頑張りがあってのことだ。
幼児を抱える女性執行委員の発言がきっかけに、春闘要求に掲げた。妊娠した学生が産後の不安を訴えてきたことも重なった。
 団交の席で大学当局に迫ったのは、書記長で法学部教授の水島朝穂さんだった。当時の奥島孝康総長も「大学を生涯学習機関に変えるためにも、大賛成だ」と応じた。
有事法制批判で忙しい日々を送る憲法学者の水島さんもかつて「保育パパ」だった。 二十数年前の大学院生のころ、旧西ドイツの緊急事態法制の論文を書いた時のこと。「0歳児の息子をわきで抱え、左手で哺乳瓶を持ってミルクをやりながら原稿を書いていると、息子が白目をむいているのに気づいた。哺乳瓶が鼻に入っていた」
 子育てを応援する世代になった、水島さんの忘れられない思い出である。〈豊秀一〉

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