憲法研究者の「一分」とは(その1)  2007年1月1日

07年元旦。本年もどうぞよろしくお願い致します。今年から年末・年始は東京を離れることにした。4年前から年賀状の廃止も宣言している。ご理解をたまわりたい。
  昨年の元旦「直言」は「憲法公布60年の年頭に」だった。今年の5月3日は「施行60年」である。この日は茨城県水戸市で初講演する。私が講演したのは45都道府県になる。残るは2県。今年も、できるだけ時間を見つけて、全国をまわりたいと思う。なお、1997年元旦にスタートした「直言」も、今回で10年連続更新となった。ちょうど530回目にあたる。500回連続更新から半年あまり。これからも、命ある限り、「直言」の更新を続けたいと思う。

  さて、すごい資(史)料と出会って、思わず声をあげることがある。21年前、『戦争とたたかう―一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年初版、1990年4刷、現在絶版)の執筆過程で、これを何度も体験した。とりわけ、目黒の防衛研究所戦史室図書館で、膨大な史料の山(第23師団復員者名簿等)と向き合い、パラパラと開けていって、ほんの数ページでお目当ての人物の名前を見つけたときは、「オッ」と思わず声をあげた。また、研究室や書庫の奥には、防空法関係の古い孔版や手書きの文書が眠っている。いつか時間ができたら、書き下ろしの書物にしたいと考えている。

  そういう戦前・戦中の文書を読む醍醐味を、最近、久々に味わった。12月初旬、共同通信の外信部記者からコメント依頼がきたのだが、そこに添付されていたのが旧文部省思想局(以下、「旧」をつけずに、単に文部省と表記する)の秘密文書だった。同社のワシントン特派員が米議会図書館で発見したもので、「天皇機関説」後の憲法学者や大学の状況を知る上での一級資料といえる。
  『秘・各大学ニ於ケル憲法学説調査ニ関スル文書』(文部省思想局)と墨で書かれた表紙には、手書きのローマ字でタイトルが入っている。GHQが文部省から押収して本国に送ったものだろう。送付されたPDFファイルをプリントアウトすると、1センチほどの厚さになる。読み進むたびに、「オッ」ではなく、「ウーン」という声が出てきた。知的興奮や驚きではなく、生理的な不快感、陰湿さと情けなさとがコラボレートされたような何ともいえない感覚である。

  この文部省思想局文書に関する記事は、06年12月16日、共同通信社から全国の加盟各社に配信され、17日付のブロック紙や地方紙に掲載された(12月16日付ウェブニュースも参照)。私が購読している『東京新聞』は17日付の一面トップにこの記事をもってきた。コメントは粟屋憲太郎立教大学教授のものを使っていた。見出しに「文部省思想局が学説の変更強要 1935年天皇機関説学者19人に圧力 米議会図書館に秘密文書」とある。私のコメントを掲載したのは、『高知新聞』17日付(本記は1面トップ、私のコメントは2面)、『熊本日日新聞』(第1社会面トップ)、『琉球新報』(本記は1面中段、私のコメントは社会面)。他に『中日新聞』『中国新聞』『徳島新聞』『河北新報』などに掲載された。なお、私のコメントは次の通りである

「水島朝穂(みずしま・あさほ)早大教授(憲法)の話」

 大学や旧文部省の罫紙に記された肉筆や孔版の資料を眺めていると、天皇機関説事件以降の、大学や憲法学者の寒々とした状況が切迫感をもって伝わってくる。思想局と大学当局の密接な連携で、学科目配当から憲法教科書の中身まで統制されていった。「機関」という用語を使わないと誓約した憲法学者は、どのように憲法の講義を行ったのだろうか。だが、これは決して過去の問題ではない。大学や研究者の「格付け」は形を変えていまも行われている。国民の「ニーズ」に応え、国家の役に立つ研究や、短期かつ直接に利益を生む研究への助成金の偏重。危険度でなく、貢献度で格付けを行うことで、大学や学問・研究の世界にさまざまな負の影響が生じている。研究費不正受給問題はその一例といえるだろう。学問・研究の自由はひそかに侵されていくので、国民からは見えにくい。かつての憲法担当教授たちの姿も、この国の立憲主義が崩壊していくなかでの「先駆け」だったのかもしれない。さまざまな意味で「今日的」な資料の発見といえよう。(共同)

  以下、今回と来週の2回にわたって、この文書のことを紹介しながら、それのもつ「今日的」意義について述べていこう。それは、憲法改正の動きが風雲急を告げるなか、現代の憲法研究者の「一分」の問題にもつながると思うからである。

  ここで文書の背景について少し書いておこう。まず、天皇機関説とは何か。法人としての国家が主権の主体であって、君主は国家の最高機関であるとする考え方を応用して、天皇は法人としての国家の最高機関であると位置づける学説、とひとまず定義しておこう。ドイツ国法学の国家法人説の観点からすれば、きわめてオーソドックスな理論構成といえる。ところで、実は大日本帝国憲法の理解をめぐっては、当時の憲法学界では、大きく二つの流れがあった。一つは、東京帝国大学の憲法担当教授であった穂積八束とその後継者の上杉慎吉らの神権学派である。彼らは、憲法はその国に固有の「国体」の法であるとして、近代立憲主義の考え方から徹底して距離をとった。これに対して、帝国憲法を可能な限り立憲主義的に解釈・運用しようとしたのが、同じく東京帝国大学の美濃部達吉を中心とする立憲学派であった。1912年にこの二つの学派の間で、天皇機関説論争が展開された。この段階での論争は、あくまでも学界レヴェルの学問的性格のものだった。

  大正デモクラシー期に入り、美濃部ら立憲学派の影響力が強まっていく。立憲学派は、東京学派の美濃部らと、京都学派の佐々木惣一らに分かれたものの、全国の大学では、憲法の講義では、国家法人説の説明はごく普通に行われていた。なお、政府によるロンドン軍縮条約締結の際、軍部は、統帥権を侵害するものだと主張した(統帥権干犯問題)。立憲学派は、帝国憲法(11条と12条)に立憲主義的解釈をほどこし、内閣の輔弼責任を導出して対抗した。軍部のなかに、美濃部を中心とする立憲学派に対する怨念が生まれた。そして、1935年。満州事変、5.15事件と、日本が戦争への道を歩みだすなかで、美濃部の天皇機関説は、貴族院議員・菊地武夫によって「緩慢なる謀叛」と決めつけられ、右翼団体などが社会的に美濃部を抹殺するような動きも始めた。これに内閣が「国体明徴声明」などでコミットして、国家により一憲法学説が葬りさられようとしていた。これが「天皇機関説事件」である。

  今回発見された秘密文書は全450頁。日付を見ると、調査は1935(昭和10)年10月から11月にかけて集中的に行われたことがわかる。資料の多くは「文部省」と刷り込んだ専用の原稿箋を使用している。見返しには、思想局長、専門学務局長、思想課長とあって、それぞれ押印してある。学務課長の下には「不在」とある。内務省、特高警察ではなく、文部省の思想統制部門と、専門科目の学務セクションとが一致協力して取り組んだことがわかる。
  調査の目的は何か。文書の冒頭部分に、「内閣声明」が添付してあって、「8月3日付声明」「岡田総理大臣談」「10月15日付声明」と続く(注・文書の旧漢字は常用漢字に書き換えてある。以下同じ)。
  8月3日付内閣声明は、「大日本帝国統治の大権ハ厳トシテ 天皇ニ存スルコト明ナリ。若シ夫レ統治権ガ 天皇ニ存セズシテ 天皇ノ之ヲ行使スル為ノ機関ナリト為スガ如キハ、是レ全ク萬邦無比ナル我ガ國體ノ本義ヲ懲ルモノナリ」としている。「国体明徴声明」として知られるものである。これで、文部省思想局の調査の狙いが見えてくる。全国の憲法学者と大学の憲法講座から天皇機関説を一掃することである。

  思想局文書は、憲法学説を、学問的傾向によって色分けしている。「憲法学説ノ系統分類」と題したリストを見ると、(1)天皇主体説と(2)天皇機関説とにまず大きく分けられる。天皇主体説としては、穂積八束(東京帝大)、上杉慎吉(東京帝大)、筧克彦(東京商大など)、清水澄(中大)、佐藤丑次郎(東北大)、山崎又次郎(慶大)ら13人が列挙されている。これは天皇機関説と明確に対立するので、調査の対象外だった。天皇機関説の方は、@「唯物論的傾向」として、中島重(関西学院大)、田畑忍(同志社大)の2人が、A「民主主義的(急進的)傾向」として副島義一、森口繁治(立命館大など)、野村淳治(東大)の3人、B「純粋法学的傾向」として宮澤俊義(東大)、中野登美雄(早大)、浅井清(慶大)の3人が挙げられている。それ以外に、「傾向」を挙げずに、佐々木惣一(立命館大)、渡辺宗太郎(京大)、河村又介(九大)、田上穣治(東京商大)ら13人の名前が並ぶ。

  文部省思想局が最も重視したのは、関西学院大の中島重、同志社の田畑忍、東大の宮澤俊義ら8教授(講師も)だった。学説調べは徹底していて、教科書や著書、講義案などから、関係する文章が徹底してピックアップされている。例えば、「厳重注意」の佐々木惣一について、『日本憲法要論』のなかから、「天皇を機関とすること」「帝国憲法の解釈」「立憲主義」「国人」の4項目にわたり、問題となるフレーズが抜き出されている。なお、この調査文書に美濃部達吉の名前がないのは、美濃部がすでに著書を発禁にされ、不敬罪の告発を受け(起訴猶予処分)、貴族院議員も辞職させられており、調査するまでもなかったからだろう。「極秘」扱いの「憲法関係著書ニシテ発禁、改訂、絶版トナリタルモノ」という文書のトップに美濃部の名前が挙がっている。美濃部は「発禁」で、田畑忍以下の憲法学者たちは「絶版」の扱いである。美濃部がいかに厳しく対処されていたかわかるだろう。

  大学の憲法講座に対する調査も周到をきわめた。「帝大、官公私大ニ於ケル憲法講座ノ現況」という文書には、7つの帝国大学をはじめ、官立大、公立大、私立大で行われている憲法講座の担当者名、地位、学説の立場などが書き込まれている。宮澤俊義は「講義案改訂」、河村又介は「改説」とある。早大の2教授は、「論文ニテ改訂」、「著書絶版」という処置だった。東大の宮澤に対して、改説を迫る執拗な圧力は、11月19日付の思想局長口授という文書に詳しい。他の教授たちについても、同じような文書があり、それぞれに大学を通じて、あるいは同僚たちを介して圧力がかかっていることが読み取れる。

  講義に出席している学生たちも利用された。慶大の浅井清については、学生のノートからの写しが添付されている。毎回の授業は学生を通じてチェックされ、当局を通じて圧力がかかる。結局、浅井は、機関説を放棄するために、国家法人説を採用しないと宣言せざるを得なかった。「国家を以て元首の統治権の客体を為す説(客体説)を採る予定なり」という、学問的にはかなり苦しい「弁明」まで文部省に行っている。
  関西学院大学の状況について記した思想局メモ(8月10日)によれば、中島重は、「機関説は講義しない。改説ではなく、自省して同説を説かない」という。まさに筆を折ったわけである。中島に対しては文部省もすぐには信用せず、「中島氏の思想は大いに注意を要する。機関説は説かないとしているが、根本を改めなければ無意味である」「大学担当者はこの注意を了承。学内で調査、協議をし、幾分にても危険があれば、担任を憲法以外に変更するか、退職させる二途の一を執る」とした。他に、「機関」という言葉を将来ともに使わないという誓約までした学者の上申書も含まれている。憲法の講義を行うのに、「機関」という言葉を使わないで、どうするのだろうか。「天皇機関説」排撃を恐れるあまり、過剰なる迎合的な反応が憲法学者や大学のなかに生まれていったのである。

  文部省が直接圧力をかけるというよりも、大学当局を通じて直接、間接、さまざまな手法で圧力がかかっていったことが、今回の資料から読み取れる。実に陰湿である。明治大学では教務課長が、非常勤講師採用に関して、「専門分ノ憲法ヲ担当セル宮澤俊義氏ヨリ時節柄自発的辞退シタキ旨申出アリタル…」として、講師の差し替えを行い、宮澤には「行政法ノ講義ヲ嘱託シ」と思想局に報告している。学科目配当は、当該年度の重要な教務事項であり、当然、教授会の議を経るものである。だが、教務部門の判断で、文部省に報告がどんどん上がっていく。大学としての権威も誇りもそこにはない。
  関西大学当局が、吉田一枝に対してなした措置の詳細が、今回初めて、文部省思想局資料で明らかとなった。学科目配当を決定するときに、「憲法」担当ではなく、「政治学史」に変更させられているのである(10月3日付書簡)。

  これらの調査に基づいて、文部省思想局は、19人の憲法学者に対して「処置」を決めた。処置内容を記した文書のコピーはきわめて不鮮明のため、『熊本日日新聞』12月17日付の分類表を見ていただきたい(『熊本日日新聞』ほか共同通信12月16日付ウェブニュースも参照)。文部省はまず、@「速急の処置が必要な者」として、中島重、宮澤俊義、田畑忍、浅井清、中野登美雄、副島義一、森口繁治、野村淳治の8人を、A「厳重な注意を与えることが必要な者」として、佐々木惣一、渡辺宗太郎、河村又介ら8人を、B「注意を与えることが必要な者」として、田上穣治ら3人を挙げている。@にランクされた学者8人は、先に見た学説分類のなかの、「唯物論的傾向」、「民主主義的傾向」、「純粋法学的傾向」と重なる。「純粋法学的傾向」すら危険視された当時の日本の状況は、やはり立憲主義崩壊の兆候を示すものとして記憶されるべきだろう。また、後に早大の第5代総長となる中野登美雄がこの8人のなかに入っていたことは、早稲田大学史の観点からも記憶されてよい。教授の学説がここまで徹底的に調べられ、圧力が加わる。まさに大学と学問の終焉であった。 (この項続く)

付記: 米議会図書館資料の本欄での利用については、共同通信外信部の出口朋弘氏に謝意を表したい。なお、憲法学者のみ敬称を略した。

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