「63年前の不発弾」の現場へ  2008年6月2日

月18日(日)。京王線が、午前9時30分から、調布とつつじケ丘の間で不通となった。約7万人に影響が出た。私もその一人。生まれてこのかた、ずっと京王線を使ってきて、事故以外で不通というのは初経験だった。その日はまず、 目黒区のホールで開かれる早稲田大学フィルハーモニー管弦楽団第58回定期演奏会に行き、会長として来場者をお出迎えする仕事があった。早めに家を出て、南武線で川崎方面に向かい、会場には時間通りに到着することができた。続いて、武蔵野市民会館で、慶應大学・小林節教授との「憲法ディベート」の講演会「国民的憲法合宿」も参照)私は、この日、京王線不通による時間的ロスはなかった。それにしても、戦時中のぶっそうなものがこんな身近にあったとは。南武線のホームでは、茶髪の若者が、「不発弾だってよぉ。遅れっけど、ごめん」と携帯電話で話をしていた。平和な日本で、「戦争?そんなの関係ねぇ」と思っている人たちも、その「遺物」の影響を受けたわけである。

  京王線の各駅に貼られたポスターには、「国領駅付近で発見された不発弾処理のため」とある。同じ文章のチラシも配られた。今年3月27日、調布市国領町1丁目42番7号で、工事中の線路脇の地中3メートルから、B29の2000ポンド爆弾(俗称・1トン爆弾)が発見された。地上でこれが爆発すると、半径2キロに破片が飛び散ると推定されている。
   調布市 は、不発弾処理のため、半径500メートルを警戒区域に指定し、立ち入りを禁止した。国領町1丁目全域と2丁目から4丁目、八雲台1、2丁目が警戒区域に指定され、住民1万6000人に、災害対策基本法63条に基づく「退去命令」が出された。避難「指示」「勧告」(同法60条)よりも強力で、命令に従わない場合には罰則もある(同法116条2号で「十万円以下の罰金又は拘留」)。2007年3月には、 神戸市東灘区 で、同じく不発弾処理のため、住民約1万人に退去命令が出されたが、今回はこれを上回る規模という(『読売新聞』2008年5月2日付夕刊)。甲州街道(国道20号)も現場付近の約1キロが封鎖された

  住民完全避難・電車不通・国道閉鎖がスタートする十数時間前の17日夕方、不発弾処理の現場に行ってみた。駅から徒歩で数分、民家の敷地内にある。土曜だったが、総合講座の講義を終えて立ち寄ったので、時刻は午後5時を過ぎていた。すでに市の関係者はおらず、警備会社の警備員が24時間態勢で監視している。踏み切りを渡り、線路の反対側から接近する。畑のなかを進むと、現場の正面に出た。不発弾処理の現場は、京王線の線路のすぐ脇にある。陸上自衛隊の東部方面後方支援隊の第102不発弾処理隊(長・片山博正三等陸佐)により、鉄製の防護壁が不発弾を覆うようにセットされ、その周囲に白い土嚢が幾重にも重ねられている。万一爆発しても、破片の飛散を抑制する工夫だろう。処理現場の横を、電車が頻繁に通過する。特急はかなりの速度だ。周辺は住宅地で、マンションが何棟もある線路の反対側はネギ畑などになっていて、のどかな風景である。避難を翌日に控えた住民たちが、現場を見にきていた。

  18日(日曜)午前8時。「市制施行後初めて」の防災サイレンが3度、市内全域に鳴り響いた。63年前の空襲警報以来である。9時30分、対策本部長の長友貴樹調布市長が、災害対策基本法に基づく警戒宣言を発令した。市は避難地域を151区に分け、約8100世帯を職員が戸別訪問した。午前11時前に「全員の避難を確認した」という(『朝日新聞』5月19日付多摩版)。「呼び鈴3回、ノック10回」で不在とすると、あらかじめ決めていたそうだ。市は一次避難所として、小・中学校4カ所、要援護者の二次避難所を6カ所用意した。前者に715人、後者に125人、計840人が避難したという。避難地域内の多摩川病院では、入院患者144人全員が、午前3時から別の病院への搬送をはじめた(なお、同病院への再搬送は、午後3時20分すぎに終了)(『毎日新聞』5月19日付多摩版)。

  午前11時、片山隊長が作業開始を命令。8人の処理隊員による信管除去作業が開始された。11時16分、弾底信管の離脱完了。同36分、弾頭信管の離脱も完了。36分間で、作業を終了した。「弾底信管は通常11回転ほどで取れるが、今回は5回転半で取れた」という(自衛隊準機関紙『朝雲』5月22日付)。当初は15時までの5時間30分を予定していたから、かなり短縮できたわけである。京王線の運転再開は12時41分。予定よりも2時間以上も早い。「大作戦あっさり終了」というのが『読売』5月19日付多摩版の見出しである。なお、爆弾の長さは180センチもあり、直径は約60センチあった

  この不発弾処理作業には、市の職員、警察官、自衛隊など、合計1200人が従事した。不発弾処理のために、住民1万6000人規模の避難が行われた背景には、 無論、 1トン爆弾の危険回避ということがある 。 だが、「国民保護法制」に基づく住民避難や道路・鉄道統制のシミュレーションをやるには、「防災の日」の訓練に比べ、はるかに効果的ではある。そういう点で、不発弾処理を理由とした今回の住民完全避難は、実質的に、自治体、警察、自衛隊などによる実動オペレーションになったといえる。36分程度で終わると最初からわかっていれば、住民も午後の予定を入れたりしただろうが、午後3時までの5時間30分、「住民完全避難、電車不通、国道閉鎖」という事前宣伝はインパクトは強く、住民にも店舗や事業者などにもあきらめ気分が広まった。避難しなかった人はいなかったとされるが、数名程度が避難をしぶったようである。職員の説得により全員が避難したというが、本当に100%の住民が避難したかどうかは疑問である。「呼び鈴3回、ノック10回」で「不在確認完了」ならば、「居留守の達人」は容易に突破できるからである。市が「退去命令」を選択した理由を、「住民を説得しやすいため」としている(『読売』5月2日付)。「従わないと罰則がありますよ」というのをバックにすれば、行政から は 確かに「説得しやすい」だろう。現場で不発弾処理を行った隊員の流した貴重な汗とは別に、「国民保護法制」のシミュレーションを住民の全員避難を使って行うという便乗的思考がどこかになかったか。今後、検証が必要だろう。

  京王電鉄や住民避難により一時的に休業に追い込まれた商店などの損失補償の問題もある。ただ、「受忍すべき負担」ということで、大きな問題に発展することはないとみられている。なお、前述の多摩川病院の場合、入院患者全員の搬送費用は1000万円を超える。費用負担について、病院は市と協議するという(『東京新聞』5月19日付多摩版)。今回のケースにおける象徴的な事例といえる。
   もっとも、沖縄では、「不発弾処理で住民避難」は、「日常の風景」といえる。陸上自衛隊第1混成団(那覇市)第101不発弾処理隊は、昨年までに1万回以上出動し、1500トンの不発弾を処理しているという。驚異的な量である。それが首都で起きれば、こう してマスコミも大きく取り上げる「大事」になるわけである。

  話はかわるが、なぜ、この1トン爆弾が「あの場所」の地中深く眠っていたのか。その理由は、1945年4月7日(土)の空襲にある。この日に来襲したB29爆撃機は100機。中島飛行機武蔵野製作所を狙ったもの。陸軍調布飛行場から3式戦闘機「飛燕」が迎撃した。操縦していた陸軍少尉の手記によると、高度5000メートルでB29の編隊に遭遇。1機の左エンジンに体当たりした。飛燕は右主翼がもぎ取られ、少尉はとっさに脱出して、落下傘で世田谷付近に舞い降り、無事に生還した。他方、エンジンを破壊されたB29は、空中分解しながら国領付近に墜落。乗員11人中、10人が死亡したという。

  『毎日新聞』5月12日付によると、調布市に住む岡田敬造さん(77歳)は、その一部始終を目撃し、日記帳に克明なスケッチを残していた。岡田さんは、勤労動員で下北沢から府中に向かう途中で、「(2機が)ぶつかった瞬間、ピカッと光った。飛燕はすぐに燃え尽きた感じでした」と語っている。「B29−空襲−爆弾」とくれば、東京大空襲で下町を焼き払った焼夷弾を連想する。これは220ポンド(100キロ)焼夷弾で、今回見つかった2000ポンド(1トン)爆弾は、軍事工場などの施設を破壊するための破砕爆弾である。墜落した際に爆発せず、地中深く埋もれたものとみられている。

  さて、「戦後63年」が経過して、東京都民はそれぞれの生活のなかで、戦争を実感したわけである。自分の町の意外なところに「戦争遺跡」はある。過去の戦争へのしっかりした眼差しは、未来の 「戦争」を防止する力にもなりうる。災害対策を、武力攻撃を前提とした国民動員システムである「国民保護」に絡み取られないためにも、自治体と市民はともに、身近な生活の場から、平和の問題を考えていく必要があるだろう。
   なお、焼夷弾については、近々「わが歴史グッズの話」連載第25回で取り上げる予定である(連載第12回「灯火管制」「防空法制下の庶民生活」も参照)。

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