「壁」を作る側の論理――「ベルリンの壁」建設50周年 2011年8月22日

8月13日は「ベルリンの壁」建設50周年だった。その少し前にオープンキャンパスの模擬講義(8月7日)があり、冒頭で、その週の土曜日が「壁」建設50周年であることを語った。そして、参加した750人の高校生に、20年前の旧東ベルリン滞在時に入手した「ベルリンの壁」の実物を、その証拠写真とともに回覧した。自分たちが生まれる5〜6年前まで存在していた「冷戦の遺物」を、彼らに体感してもらった。

新聞各紙は8月10日から14日にかけて、「壁」建設50周年について特集を組むなどして伝えた。一番早かったのは、『東京新聞』8月10日付国際面の特集記事。ベルリン特派員(弓削雅人)のレポート「越境の代償、心に傷 ベルリンの壁構築50年」である。1980年11月に若者3人が「壁」の越境を試み、男性2人は成功したものの、うち1人の恋人が射殺されてしまった。その女性(18歳)の体には20発以上の弾丸が打ち込まれていた。恋人を失った男性は、西ベルリンで失意のうちに死亡した。48歳になった残りの1人は特派員に、「職場に3日来なければ、西側なら解雇されるが、東は刑務所行き。そんな体制があったことを、壁のない時代に生まれた世代に伝えていかなければいけない」と語った。

それにしても、越境しようとしただけで、武器も持たず、何の抵抗もしない女性に対して20発もの命中弾を浴びせるとは。今からちょうど4年前の8月13日、ドイツ政府の旧東ドイツ秘密警察(シュタージ)文書管理局は、ザクセン・アンハルト州マグデブルクで、旧東ドイツ国境警備隊の秘密文書が見つかったと発表した。シュタージについては直言「壁とともに去らぬ」で述べたが、発見されたシュタージ文書とは、国境警備隊に向けられた命令(1973年10月)だった。そこには、越境者に対して「女性であれ子どもであれ、銃の使用をためらってはならない」と指示されていたという(『毎日新聞』2007年8月15日付国際面)。この命令から、旧東の体制が「壁」によって何を守ろうとしていたのかが窺われる。

実は旧東ドイツ国境法は「銃の使用」を「人に対する権力行使の最後の措置」としており、その使用が許される場合を限定していた(27条1項)。国境を越えようとしただけで、無警告で射殺するなどということは、旧東の国境法にさえ違反するものだった。

東西ドイツの国境地帯1338キロ。旧西ベルリンを囲む「壁」は155キロ(有名な旧東ベルリンとの境界部分43.1キロ)である。一体、ここでどれだけの命が失われただろうか。これまでさまざまな数字が挙げられてきたが、最近では、ベルリン市の公式ホームページやドイツ政治教育センター発行の文書に出てくる数字、すなわち「少なくとも136 人」が定着しつつある。このうち90人は射殺である(Aus Politik und Zeitgeschichte,01.08.2011)。いずれにしても、三桁の尊い人命が、無粋で無機質な「壁」を守るために奪われた事実に変わりはない。

「壁」建設は何のためだったのか。半世紀が経過するなかで、その「存在理由」を問う企画も出てきた。ドイツのメディアでは、「50周年」特集がいくつも組まれた。例えば、『シュテルン』誌には、旧東ドイツの歴史家St.Wolleへのインタビューが載った(Der Stern vom 11.8.2011)Wolleは、後述するイスラエルの「壁」に言及。イスラエルの「壁」は爆弾攻撃から国民を防護するために建設されたとし、それに対して「ベルリンの壁」は、人々を保護せず、閉じ込めたという意味で、一回性のものだったという見方を示す。旧東の体制を体験した人々だけでなく、ドイツ人全体が、歴史的事情(ナチスによるユダヤ人虐殺)から、パレスチナにおけるイスラエルの暴虐に対して「強いられた寛容」を示す傾きにある。イスラエルの「壁」に対する評価が甘くなる所以である。

さて、「ベルリンの壁」を建設する側の論理は、帝国主義の侵略から旧東ドイツを防衛するためということである。それは「反ファシズム防護壁」(Antifaschistische Schutzwall)と呼ばれた(W.ウルブリヒト第一書記)。だが、「壁」の構造を見れば直ちにわかるように、これは西側への対処では断じてない。明らかに自国(東)から西へ「逃亡」する人々を阻止する構造になっていた。鉄条網も、よじ登りにくくする角度や仕組みも、「壁」に到達するまでの中間地帯の仕組みも、各種の監視装置も、すべて西側にではなく、自国(東)側に向けて作られていた。よくぞここまで考えたと感心するほどに、またドイツ人らしく心憎いほど細かく、自国民の脱出を防ぐ仕掛けは工夫されていた。

この国境警備兵の政治教育用小冊子(1986年3月発行) にこうある。「8月13日の措置は、西ドイツと他のNATO諸国の侵略的な帝国主義的勢力を抑制し、かつヨーロッパの平和を救う、ワルシャワ条約機構諸国の共同の政治行動だった」と。実際には、技術者や医者などのエリート層を含む市民の西への大量脱出を阻止することが狙いだった。

旧東ドイツ国境警備隊の小冊子『安定した国境、安定した平和』(1988年)(写真右下)にはこうある。「国境の不可侵性の維持のあらゆる努力は、最も重要な人権、平和のうちに生存する権利の実現である。社会主義権力は常に平和権力である」と。

かつて「社会主義=平和」「社会主義の核兵器は防衛的」といった「神話」が存在し、「原発絶対安全神話」と同様に、有害な役割を果たしてきた。大学院生時代、社会主義憲法の「平和的生存権」論(旧東ドイツの“Staat und Recht”誌の論文など)を読んだときの違和感が忘れられない。それらの論文が、社会主義の軍事力(核を含む)のおおらかな肯定を前提にした、あまりに素朴な「社会主義=平和」神話に立っていたからである。およそ日本国憲法の「平和的生存権」とは似ても似付かぬものだった。旧ソ連によるチェコ事件やアフガン侵略、中国「人民解放」軍による天安門事件などを経て、すでに「壁」崩壊前に、「社会主義=平和」論は崩壊していた。

「壁」をめぐって、ドイツ左派党(Die Linke)の内部にも対立があり、追悼式への参加をボイコットしたり、一部は「壁」犠牲者への黙祷すら拒否している(Die Welt vom 13.8)。この党は、旧東ドイツ政権党の社会主義統一党(SED)や旧西ドイツ共産党(DKP)の残滓と、「壁」崩壊後の社会矛盾への反発から新たに左派党に接近した若者などとが混在しているが、「壁50周年」を前にして、旧東の時代を懐かしむ化石のような人々の声が強まっているようである(Die Linke braucht die Mauer zur Selbstlegitimation,in:Die Welt vom 14.8.2011)

“Neues Deutschland”(旧東の政権党時代の機関紙と同じ名前)の書評(8月5日付、7月28日付)は、立場の異なる2冊の本に注目する。一つは、ワシントンの外交政策調査機関会長が書いた『ベルリン1961年:ケネディ、フルシチョフ、そして世界で一番危険な場所』(F.Kempe,Berlin 1961:Kennedy,Chruschtschow und der gefählcihste Ort der Welt,2011)。もう一つは、旧東ドイツの国防大臣と国防次官を務めた人物の共著『壁がなければ戦争になっていただろう』(H.Kessler/F.Streletz,Ohne die Mauer hätte es Krieg gegeben,2011)である。前者は、米ソがベルリンをめぐって危機的状態にあったとき、両国の指導者たちがどのように考え、どう行動したかを分析した実証研究である。「壁」建設により、東西ドイツの分裂が固定化し、一定の安定が生まれたことで、結果として米ソ核戦争は回避されたとみるようで、この書評は、後者の旧東独国防相らの共著と同じ結論になっていると評価する。私自身、両著を読んでいないので踏み込んだことは言えないが、少なくとも、この実証研究を、「壁」が存在することに意味があったという結論に結び付けるのは我田引水に過ぎるのではないか。今年は「壁」肯定論が目立つとされているが(『産経新聞』8月14日付国際面「いまだ消えぬ肯定論」)、「壁」崩壊時に生まれた世代が22歳になる以上、戦争体験と同様、「壁」体験も語り継いでいく必要があるだろう。

ところで、ドイツの新聞各紙の「壁」建設50周年特集で興味深かったのは、「他の壁」への眼差しである。『フランクフルタールントシャウ』紙は、「古い壁、新しい壁」という写真特集を組み、7つの「新しい壁」を紹介している(FR vom 14.8)。民族を、エスニック集団を、そして貧しき者と富める者を隔てる「他の壁」である。

まず、朝鮮半島の38度線が挙げられている。南は北の侵攻からの守りを固め、北は自国民の逃亡を阻止しようとする。2つ目は、2003年にイスラエルがヨルダン川西岸地区に建設をはじめた「アパルトヘイト・ウォール」(人種隔離壁)。「壁」の高さは「ベルリンの壁」を上回り、その長さは最終的に759キロとされている。すでに3分の2が完成している。「テロリスト」がイスラエルに侵入することを阻止するためのものとされ、「セキュリティ・フェンス」とも呼ばれている。これによりイスラエルに併合されるのは、ヨルダン川西岸地域の43%にあたる。なお、国連安保理は、イスラエルに「壁」建設の中止と、撤去を求めた(安保理決議2003年10月21日)。国際司法裁判所(ICJ)も、この「隔離壁」について勧告的意見を出して、その撤去を促しているが(2004年7月9日)、イスラエルは無視している。

3つ目は米国である。不法移民を阻止するために、米政府はメキシコ国境では金属製の柵で、カルフォルニア州では鉄条網と電子監視装置で備えている。4つ目は、シリアのゴラン高原。イスラエルが鉄条網で隔てているが、最近、これを突破しようとした人々が射殺されている。5つ目はルーマニアのBais Mareでこの7月、市当局が2メートルの壁をつくり、ロマ(ジプシー)の住む地域と遮断した。6つ目は、地中海にあるスペインの飛び地領土メリリャ。アフリカへのEUの前哨として、近年膨大な移民が押し寄せたため、国境の防備が大規模に強化された。

そして7つ目は、西サハラである。モロッコが1975年以来、西サハラの一部を占領しているが、アルジェリアに支援された解放運動から隔離するため、2500キロの「砂の壁」を建設し、地雷原を敷設している。

この7つの「壁」のうち、「ベルリンの壁」と肩を並べることのできる「冷戦の遺物」は、南北朝鮮を隔てる38度線とその国境装置だろう。そして、イスラエルによるヨルダン川西岸地区の「壁」は、「冷戦後の熱戦の産物」とでも言えようか。

「ベルリンの壁」は1989年11月9日(木)に崩壊した。それは28年と2カ月と26日存在した。この直言でも、「壁」の下にトンネルを掘って脱出する実話の映画化について書いた。またブランデンブルク門横に「壁」に代わって、「ベルリンの石碑」というグロテスクな代物が建設されたことについても述べた

「建設」50周年の時点で改めて思う。人の最も重要な権利の一つが、「移動の自由」である。国内なら、いつでも、どこへでも自由に移動できるし、移住(引っ越し)できる。「ベルリンの壁」は、それを生命まで奪って著しく制限した。ベルリンのそれは過去のものとなったが、今もなお、この自由が十分に保障されていない人々がいることを忘れてはならないだろう。

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