「ベルリンの壁」崩壊20周年 —— 世界の西と東の風景 2009年11月9日

回は6月8日「直言」(「ハンバッハと天安門」)の末尾で、「11月9日『直言』に続く」と予告した通り、その続きを書くことにしたい。そこでも触れたように、「9」の付く年には、大きな政治・社会変動がよく起きる。日本でも「政権交代」が起きたまた、1年のなかでも特に11月に、しばしば歴史が動く。とりわけ今日、「11月9日」は“11.9”、「ベルリンの壁」崩壊の歴史的激震の日である。

ドイツでは「あれから」(danach)20年として、メディアの特集や企画記事が目白押しである。ちなみに、「10周年」の時、私はドイツ・ボンで在外研究をしていたので、「直言」でも、「『壁』がなくなって10年」として、2回連載した。その後、「『壁とともに去らぬ』 —— 旧東独の傷口」や「さまざまな“11.9”」として、そのつど“11.9”について言及してきた。今回は20周年であり、6月8日「直言」とセットで論ずることにしよう。

1961年8月13日(日)未明に旧東ドイツ社会主義統一党(SED)政権が東西ベルリンの境界を閉鎖して建設に着手してから、1989年11月9日(木)午後11時25分、ボルンホルマー通りの検問所が開放されて実質的に崩壊するまで、「ベルリンの壁」は10316日間にわたり、人々を引き裂いてきた。「壁」は、人々の「居住・移転の自由」という基本的な自由を暴力的に抑圧してきたのである。一体、「壁」や東西ドイツ国境地帯で、どれだけの人々が殺されたのだろうか。拙著『ベルリンヒロシマ通り』(中国新聞社)では、1993年8月の数字として、東西国境地帯での犠牲者は588人、「ベルリンの壁」犠牲者172人としていた。最新の数字(2009年8月)では、現代史研究センターの調査で136人、「8.13ワークショップ」によれば245人である(Frankfurter Rundschau vom 14.8.2009)。いずれにしても、三桁の尊い人命が、戦争ではなく、「平時に」奪われたことに違いはない。

私は1991年2月から9月まで東ベルリン中心部に住みながら(テレビ塔前の高層アパート。住所はRosa Luxemburg Platzに隣接するKarl Liebknecht Str.9だった)、「壁」の問題についていろいろ書いてきた18年前、ベルリンではさまざまな「壁」関係グッズが売られていた。授業や講演などで、拙著グラビアに収録した、「壁」を削らせている「証拠写真」とその現物を回覧して、「壁」崩壊の意味を説いてきた。かつては「壁」崩壊のニュースに興奮した体験のある学生たちに「追体験」のつもりで語ってきたが、時代は変わった。特にここ数年は違う。「壁」があった時代を知る人は次第に減って、いま私の授業を受けている学生たちの多くは、「壁」崩壊後に生まれている。彼らにとって、「壁」は同時代のことではなく、完全に歴史となっている。

ドイツも同様である。世代によって、受け止め方はかなり異なる。「壁は遊び場だった」という若い世代や、自分が生まれる前の「歴史物語」という世代が着実に増えている。一方、40歳以上の世代では、「その時、あなたはどこにいたか」という観点から、自分の生活との関係で「壁」崩壊が語られている。

「20周年」の時点で「壁」崩壊を語るアングルはいくつもある。その一つは、「それぞれの20年」ということで、自らの生活や体験のなかで「壁」崩壊を捉えるものである。「私の11.9」シリーズの手記は、それぞれ興味深い。

もう一つは、「実は…」という形で、「壁」崩壊に至るプロセスなどを語る「逸話」の類である。例えば、『シュピーゲル』誌に、NHKスペシャルの名作「ヨーロッパ・ピクニック計画 —— こうしてベルリンの壁は崩壊した」(1993年12月)で描かれた事実が、当時の関係者への取材で確認されている。1989年6月27日、ハンガリーのG. ホルン外相とオーストリアのA. モック外相が、国境の鉄条網を大きなペンチで切断する象徴的写真も掲載されている(Der Spiegel vom 26.10.09)。「11.9」以前に東ヨーロッパですでに「壁」は崩れ始めていたのである。

「実は…」で言えば、なぜ旧ソ連が、ハンガリー(1956年)やチェコ(1968年)の時のように、戦車部隊を投入しなかったのか、というテーマにこだわったものもある(Die Welt vom 7.10.09)。旧東ドイツには旧ソ連軍の精鋭20個師団が駐屯していた。これがまったく動かなかった。「1953年6月17日事件」のようなことは起きなかった。さまざまな原因が語られているが、印象的だったのは、当時のソ連E. シュワルナゼ外相が、問題は「ドイツの統一か、非統一か」ではなく、「ドイツ統一か、戦争(核戦争)か」だった、と述べていることである。「壁」崩壊からドイツ統一まで「一発の銃声」もなく進んだが、それは容易なことではなかったことがわかる。さまざまな人々のそれぞれの努力が重なり合って、戦争と紙一重のところで「壁」崩壊は実現したということだろう。

「実は…」の話は、同じ『シュピーゲル』誌の最新号(11月2日号)で、旧東の体制側の人物3人が、何の連携もなく、無計画に、いかにして「壁」を崩壊させるに至ったのかを、分刻みで描いたドキュメンタリーである。外国出国に関する新政令について、「私的旅行にも準用される」と書き入れた内務省旅券局長G. ラウター、11月9日午後6時53分、記者会見の席上、この政令の意味を理解せず、記者の質問に対して、「西ベルリンに…直ちに(sofort)…遅滞なく(unverzüglich)」と「失言」してしまった政治局員G. シャボフスキー、その「失言」を西ドイツのニュースで知った東ベルリン市民がボルンホルマー通り検問所に殺到し、「ゲートを開けよ」と叫んで「津波」(Tsunami)のように押し寄せてくるのに抗しきれず、午後11時25分、上官の命令も権限もないのに、自らの判断でゲート開放を命じた副所長H. イェーガー中佐。世界史を変えたこの3人の地味な「今」も描かれている。

あまり注目されていないが、先月面白いと思ったのは、E. ホーネッカー東ドイツ国家評議会議長を解任して、自ら「最後の議長」となったE. クレンツが、H. ケーラー連邦大統領に手紙を送り、旧東ドイツの歴史的再評価を求めたという動きである(Die Welt vom 24.10.2009)。特に旧東ドイツ国境警備兵の果たした役割を正当に評価せよと求めている。クレンツによれば、ドイツの平和的体制転換は、国境警備隊員が「無血の開放」を行ったからであり、そのことを認めてほしいというわけである。ドイツ統一からしばらくの間は、こんな主張を出せる雰囲気ではなかった。むしろ、国境警備隊員は、「壁」射殺事件の刑事責任を問われたのである(前掲・拙著参照)。20年が経過して、いわば「名誉回復」を狙った動きといえる。
だが、壁を越えて西に逃げようとしただけで射殺した警備隊員の復権は難しいだろう。しかも、「壁」が無血で開放された一番の要因は、イェーガー中佐の独断という偶然的要素があったとはいえ、それが可能だったのも、M. ゴルバチョフ書記長(当時)が、「ブランデンブルク門に天安門を繰り返すな」と、旧東ドイツ指導部に圧力をかけ、警備隊に武器の携帯を禁じていたことが大きかった。ソ連べったりの旧東ドイツが、ゴルバチョフの指示なくして独自に動くとは考えられない。クレンツの主張はむなしく響く。

さらに、「ドイツ人よ、民主主義を恨むなかれ」と、「壁」崩壊後の民主主義をめぐる複雑な状況を論ずるものもある(Die Welt vom 18.10.09)。そこでは、「ポストデモクラシー」の時代について語られている。東の体制が崩壊して20年が経ち、民主主義の将来に対する危惧が広がっている。他方で、世界には民主主義のうねりもある。例えば、イランにおいて、選挙不正に怒った女性たちが大規模なデモを組織した。その後鎮静化してしまったが、一時は1989年の東ドイツの「月曜デモ」に例えられた瞬間もあった。共産党一党独裁の中国でも、「民主的権利」を求める声をすべて抑圧することはできない。このように、民主主義が世界規模で大きな希望を増大させている一方で、とうの西欧民主主義社会では、この国家形態が、激しく変化する、グローバル化した世界の挑戦をまさに受け止めることができるのかどうかの疑問が増大している。

民主主義には時間が必要である。民主主義の決定過程は、さまざまな理念的傾向や利益集団、国家機関などの間の妥協を内容とする。グローバル化し、商業化され、かつメディア化された現代社会においては、とりわけ速度が重要となる。こうして、西欧世界の「古い」民主主義においても、政治的なるものの特殊なリズムの理解が消えていく。政治についても、迅速に使える完成品が要求される。そして、政治的出来事への注目度は、メディアの扱いのなかで次第に収縮していく。大要、このように指摘して、民主主義の可能性と、他方、西欧諸国で「ポストデモクラシー」が語られる複雑な状況が、「壁」崩壊後の20年を契機に論じられている。

「ベルリンの壁」はもはや存在しない。しかし、「内なる壁」の克服はなお大きな課題となっており、ドイツ内部の「東西対立」は依然として存在している。世界に目を転ずれば、「壁」がなお各地に存在する。

旧東ドイツでは、「反ファシズム防護壁」(W. ウルブリヒト第一書記)と呼ばれたが、「壁」の構造を見れば、西側への対処ではなく、明らかに自国(東)から西へ「逃亡」する人々を阻止するためのものだった。同じような「壁」が、ヨルダン川西岸地区に建設された「アパルトヘイト・ウォール」(隔離壁)である。

「テロリスト」がイスラエルに侵入することを阻止するためのものとされ、「セキュリティ・フェンス」と呼ばれている。なお、国連安保理は、イスラエルに「壁」建設の中止と、その撤去を求めた(安保理決議2003年10月21日)。国際司法裁判所(ICJ)も、この「隔離壁」について勧告的意見を出して、その撤去を促した(2004年7月9日)。

世界には、まだ「壁」がある。38度線である。先頃亡くなった金大中元大統領と金正日総書記との南北首相会談からまもなく10年になる。2000年6月の会談後に、38度線の非武装地帯(DMZ)の鉄条網が撤去された。その一部を私も2セット持っている

最近、ドイツ人が設立したTwitterを利用したサービス「ベルリンの壁」に、中国語で書かれた書き込みが殺到しているという。“11.9”を前にして設立されたこのサイトは、「我々の世界をよくするために、更にどの壁を崩壊したらよいか語り合おう」というのがテーマで、同サイトの8割は中国語で書かれた投稿。「私の望みは、一日も早く、この“万里の長城の壁”が崩壊すること」といった不満の声に集中しているという。

「9」のつく年に、東アジアの「壁」もなくなる方向に歩み出すかどうかが注目される

 

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