憲法審査会「そろり発進」――震災便乗型改憲 2011年12月5日

球界でただ一つ、「軍」を名乗るチームがある。その「読売巨人軍」の清武英利球団代表が文部科学省(スポーツ界の監督官庁)で記者会見を開き、読売新聞グループ本社会長兼主筆の渡辺恒雄氏に対して、「不当な鶴の一声で、愛する巨人軍を、プロ野球を私物化するような行為は許せない」と批判したのは先月11日のことだった。すぐに代表を解任され、渡辺氏との間で裁判に発展している。私はこの「軍」にも、その内紛にまったく関心がないので詳しくは立ち入らない。ただ、渡辺氏は、江川問題でも憲法解釈でも「社論を作るのは私だ」という人である。
   「空白の一日」問題を批判的に扱おうとした論説委員長を閑職に追いやり、憲法や自衛隊問題で意見が対立した論説委員に、「社論を決めるのは私であって、会議ではない。君には書かせない」といったという(前澤猛・元論説委員の談話〔『週刊ポスト』2011年12月2日号〕)。プロ野球選手会の古田敦也会長(当時)がオーナー陣に面会を求めたところ、「たかが選手が」と言い放ったのは記憶に新しい

渡辺氏は長年にわたり政治記者をやってきたが、その時々の政権に異常接近を繰り返したことはよく知られる。ジャーナリストの上杉隆氏は、「『会長兼主筆』という大矛盾」(『週刊ポスト』同)のなかで、経営トップが記者のトップである主筆を兼ねることは、海外では考えられないとして、渡辺氏の「肩書の異常さ」を指摘する。そして、「彼に新聞記者を名乗る資格はない」として、「民間人である政治記者たちが、何の資格もないのにプレーヤーとして政治に手を出し、またそれを許してきた日本が異常なのだ。メディアと権力の間に緊張関係がなく、“なあなあ”でやってきた記者クラブ制度の弊害。その象徴的存在が、渡辺恒雄氏である」と手厳しい。

渡辺氏は『読売新聞』という大メディアを使って、三度にわたり「憲法改正試案」を提示してきた。
   一度目は1994年11月3日。この日の『読売』は異様だった。全36頁の紙面(東京本社14版)のうち、1面トップで「憲法改正試案」を打ち出し、2面で解説、さらに社説、詳細な条文解説、識者コメントと、8頁も使っていた。この新聞1 紙しか講読していない読者は、「朝起きて新聞を見たら、憲法が変わったのかと思った」と語ったのも無理はない。読売社員には伏せられ、渡辺氏とその側近だけで起案したものだった。私はこの改憲案が出てすぐに、『法学セミナー』1995年1月号に「読売新聞社『憲法改正試案』批判」を書き、「これは、読売新聞社としての『試案』ではなく、より正確には『渡辺恒雄と“12人の浮かれた男たち”(論説委員と各部デスク級。なぜか女性は一人も含まれていない)』によってまとめられた『私案』というべきだろう」と批判した(後に拙著『武力なき平和――日本国憲法の構想力』岩波書店、1997年所収)。

二度目は2000年5月3日。「第二次試案」が再び1面トップで大きく扱われた。私が「女性記者がいない」と書いたことが気になったらしく(1995年の社内「記事審査月報」で法セミの拙稿が取り上げられていた)、起草者は、女性記者を含む18人にふくらんでいた。第二次試案では、第一次試案の「自衛隊のための組織」という文言を、「自衛隊のための軍隊」に変更している。いかにも、野球界に「軍」を名乗るチームをもつ新聞社らしい。私は、この17年前と11年前の改憲案について、こう総括的に批判している。

「権力の側には立憲的制約を緩和して、広範な裁量権を与える一方で、国民の側には『公共の福祉(利益)との調和』や『憲法遵守』を要求する憲法とは一体何なのか。それは『未来志向型憲法』などでは決してなく、欧米の『普通の国』の水準にも達しない、この国の後進性と権威主義的体質を助長・促進する『現状追認型憲法』への退歩でしかないだろう」(拙著『同時代への直言』高文研、2003年153頁参照)と。

そして、渡辺氏は、2004年5月3日の憲法記念日に、「読売新聞社・憲法改正2004年試案」を公表した。新聞社が10年間に三度も改憲試案を出すのは、報道機関としては尋常ではない。政治の動きがあまりに鈍いので、何とか改憲への動きを作ろうと思案した結果の「試案」なのだろう。その翌年、2005年に自民党が「新憲法草案」を出すに至ったため、読売の改憲第四次試案は出されなかった。その代わり、日々の社説や解説記事で、機会あるごとに、反復継続して、この新聞は改憲をあおっている。

東日本大震災の復興どころか、仮設住宅の暖房対策もままならないなか、野田内閣は「復興増税」に続いて、漢字四つの真打ち、「憲法改正」に手を付けようとしている。
   震災後8カ月というタイミングで、11月17日午前、衆院の憲法審査会の実質審議が始まった。『朝日新聞』11月18日付は「憲法審査会そろり発進」という見出しを打った。

憲法審査会は、2007年5月の憲法改正手続法(国民投票法)制定と同時に、衆参両院に設置された。「憲法改正原案、憲法改正の発議」について審議することができるが、これまで閉店休業状態になっていた。憲法改正手続法が2009年5月21日に施行されたが、憲法審査会が動きだすことはなかった。

今回、『朝日』が使った「そろり」という副詞は興味深い。「静かにゆっくり動作が行われるさま」と「すべるようになめらかに動くさま」の二つの意味があるという(『大辞泉』参照)。ここでは前者の意味に近いだろうが、あまりに批判する人が少ないため、「すべるようになめらかに」発進したと言ってもいいだろう。震災で人々の頭が真っ白になっているのを見計らって「改革」を行う。「惨事便乗型」手法(ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』〔上・下、岩波書店、2011年〕)の応用である。震災のどさくさ紛れで改憲を進めることは、ナオミ・クラインに倣って言えば、「震災便乗型改憲」だからである。

渡辺恒雄主筆の「監督」のもと、『読売』11月18日付社説は、憲法審査会スタートに際して、「緊急事態への備えを論議せよ」と威勢がいいが、東日本大震災の復興も復旧も不十分な状況のもとで、そのような浮ついた議論をしている場合だろうか。東日本大震災の対応を見ても、憲法の問題ではなく、国民の命や財産を守れない政治の問題である。

17日の衆院憲法審査会では、中山太郎・元衆院憲法調査会長が参考人として意見を述べた。中山氏は、憲法改正手続法の制定過程では、民主党の枝野幸男委員と相談して、「改憲発議の予行演習」として3分の2以上の支持で可決したいと考えた。だが、安倍晋三首相(当時)が功を焦って「政局問題」にしたことで民主党が反発。強行採決になった結果、制定後4年の「空白期間」が生じたとして、中山氏は露骨に安倍元首相に対する不満を口にしたという(高田健『週刊金曜日』2011年11月25日号)。これは興味深い指摘である。憲法改正手続法に異様な附帯決議がついたのも、安倍元首相の「暴走」と関係している。

そもそも憲法については、それを改正する側に高い説明責任が存する。「変えなくていい」という側には、「なぜ改正しなくていいのか」を説明する必要はないが、「変える」側はその理由を十分に説明しなければならないのである。ところが、政界もメディアも、「変える」のが当然という「空気」が支配的である。

「そろり発進」した衆議院憲法審査会。11月28日、参議院の憲法審査会も初の審議を行った。「参院民主 改憲に前向き」(『朝日新聞』11月29日付)という。例えば、民主党の鈴木寛議員。「未成熟だった憲法制定権力を育て上げ、憲法改正権力の行使を実現することが政治家の務めだ」と。これには度肝を抜いた。憲法の「制定」と「改正」の区別が ついていないこと、そもそも権力担当者たる政治家を拘束し制限するのが憲法の任務だから、こういう勘違い言説は「法の下克上」につながる。確たる改憲の理由や必要性の挙証も見当たらない。そろりオープンした憲法審査会は、開店と同時に閉店すべきである。

付記:写真は沖縄読谷村旧役場前の憲法9条と99条の看板(2006年4月撮影)。憲法調査会報告書(2005年4月撮影)。

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