わが歴史グッズの話(32)――講和条約発効60年と沖縄本土復帰40年 2012年4月30日


週の木曜(4月26日)、東京地裁は小沢一郎元民主党代表に対して無罪判決を言い渡した。ここでは詳しくコメントしないが、私は検察審査会の「起訴議決」の仕組みそれ自体に疑問をもっているので、無罪判決はしごく当然の結論と考えている野田内閣については、昨年9月の発足時に、「松下政経塾内閣の終わりの始まり」と書いたように、終焉に向けて今後、加速度をつけていくことになろう。

それよりも何よりも、この4月28日はサンフランシスコ講和条約(平和条約)発効60周年だった。来月15日は、「沖縄返還」「沖縄本土復帰」「沖縄県発足」の40周年である。日本の歴史にとって、重要な節目と言えるだろう。

「60年-40年」という視点に立ったとき、沖縄をめぐる何が変わって、何が変わっていないのか。変わっていない現実を直視すべきである。その点で、『毎日新聞』4月17日付「記者の目」佐藤敬一記者(西部本社報道部)の一文、「政府は『不条理』に向き合え――沖縄の本土復帰から40年」は、昨今のゆるい報道やぬるい社説が目立つなか、鋭い視点を提示する。「動かぬ基地、変わらぬ不平等。1972年5月15日に本土復帰を果たした沖縄の40年を一言で表すとこう表現できる」という書き出しで、全国の米軍基地の74%が集中する沖縄の現実を問うていく。「政府は基地の縮小に取り組むと同時に、基地があるがゆえの『不条理』の一つ一つに真剣に向き合うべきだ」と。「沖縄で取材していると『憲法』が話の中に入ってくることが多い」という佐藤記者は、地位協定17条により、米軍関係者が基地に逃げ込めば逮捕されないなどの「不条理」を具体的に紹介しながら、「『平和憲法の下へ帰りたい』と復帰を願った沖縄の人たちにいつまでも『憲法が上なのか、地位協定が上なのか』という残念な思いをさせてはいけない」と結ぶ。『東京新聞』を除けばなかなか見かけなくなった、まっとうな論である。

 野田内閣の沖縄に対する向き合い方は惰性と思考停止そのものである。それは、「なぜ、まだ辺野古なのか――思考の惰性を問う」で批判したのでここでは立ち入らない。また、沖縄防衛局長が二代続けて沖縄県民を怒らせた。これは個々の官僚の個性というよりも、沖縄に対する差別の構造の表出にすぎない(直言「沖縄防衛局長『発言』の底に流れるもの」参照)。

さて、2 年ぶりの「わが歴史グッズ」シリーズである。前回は「訓練グッズ」を紹介した。研究室には沖縄関連の「歴史グッズ」が多数ある。そのなかから、講和条約60周年と本土復帰40周年に関連したものを選んで紹介しよう。

冒頭の黄色いナンバープレートの写真をご覧いただきたい。これは米軍の沖縄支配を象徴するものである。「黄ナンバー」は一般車両の白ナンバーと際立った違いがある。番号の下にある一文、“KEYSTONE OF THE PACIFIC”(太平洋の要石)。このナンバープレートは沖縄市戦後文化資料展示室「ヒストリート」でも現物が公開されている。そこには「黄ナンバーにかかわる事故や違反は琉球警察の権限が及ばないことから、治外法権の象徴だった」という説明文が付いている。黄ナンバーは15000台もの米軍関係車両に付いて、沖縄の道路を縦横無尽に走り回っていた。轢き逃げがあっても「黄ナンバー」ならば警察の動きは鈍い。被害者の無数の涙がこの黄ナンバーの背後にはある。車の前後に「太平洋の要石」という看板を付けて走りまわる「傲慢無知」はすさまじい。1970年のコザ反米闘争では、黄ナンバーの車両だけが「米軍支配の象徴」として市民の標的となってひっくりかえされ、火がつけられた。ちなみに、現在は米軍人とその家族が運転する車は同じ白ナンバーだが、“Y”が付いており、それにより一般車両と区別している。どうして「Yナンバー」なのか。yellow(黄色)の頭文字だからか(付記参照)。いまもなお、地位協定17条により、米軍関係者は交通事故を起こしても「公務中」という理由で責任を曖昧にできる。毒々しい黄色から“Y”とアルファベットに変わっただけで、不条理の構造は変わっていない。

この構造をもたらしたのが60年前のサンフランシスコ講和(平和)条約3条である。日本は独立を達成したとされるが、他方で沖縄は本土から切り離された。日本国は、沖縄を含む南西諸島等を「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」。何という姑息な条文だろうか。信託統治制度は植民地主義の名残である。国連憲章78条は、「加盟国の間の関係は、主権平等の原則の尊重を基礎とするから、信託統治制度は、加盟国となった地域には適用しない」と定める。沖縄を米国の信託統治にすることは最初から不可能とわかっていた。なぜなら、日本はこの条約発効の4年後に国連に加盟するからである。とすると、この条文の本当の狙いは第2文にある。「このような提案が行われ且つ可決されるまで」(あり得ない仮定!)、米国は沖縄に対する一切の権力を行使するというのである。信託統治の提案はなされないから、暫定統治に期限はない。沖縄の米軍基地を好き放題に使える保証ができたわけである。日本政府は講和条約3条の「永遠の暫定性」をもって、沖縄を切り捨てたのである。

次の写真は、条約調印(1951年9月8日)を記念して発売された切手である。日の丸と平和の象徴・鳩。その裏に沖縄の人々の長年にわたる苦渋がある。この写真は、「平和条約発効記念」の葉書である。左側に「憲法施行5周年記念」と刷られていることにお気づきだろうか。1952年4月28日の5日後は、日本国憲法施行5周年だった。この葉書こそ、「沖縄は『憲法番外地』だ」(池宮城紀夫弁護士、前掲『毎日新聞』「記者の目」)と呼ばれる状況のはじまりを象徴するものと言えよう。

このメダルは大変珍しいものである。純銀製。佐藤栄作首相(当時)とニクソン米大統領(同)の顔が向き合っている。拡大して見ると「沖縄-日本を記念して、1972年5月15日」と記されている。あれからまもなく40年。米軍基地が集中し、基地被害を日々惹起している沖縄の現実は何ら変わらない。民主党のなかでも軽薄さが特に際立つ政治家(「言うだけ番長」)は、「もう『思いやり』とは言わせない」と言って、「思いやり予算」という言葉をやめ、「ホストネーションサポート」(HNS)をそのまま使うことを提唱している。米軍基地を置く他の国々に例を見ない、「至れり尽くせりの構造」は、HNSを超えている。米軍の沖縄での振る舞いはますます傲慢となり、県民の怒りは深まるばかりである。米軍関係者の記念品には、その心象風景がよくあらわれている。

例えばこの写真。海兵隊普天間飛行場所属の軍人のための記念時計である。海兵隊航空基地・普天間(Marine Corps Air Station Futenma)。この時計は一度紹介したことがある。秒針を1時10分にすると辺野古(県内移設)に向いてしまうので、私はいつも3時15分にして「国外、圏外移設」を目指す。写真の「6時14分」は別にフィリピンやオーストラリアを指しているわけではない。



海兵隊は1775年創設で、米国の海外権益を守るべく、世界のどこへでも展開できる最強の殴り込み部隊である。3個ある海兵遠征軍のうちの1個を海外展開するが、それが沖縄である(航空部隊は岩国)。「第一撃」の先兵としての凶暴な性格を象徴するのが、このブルドック軍曹の写真である。海兵隊の象徴は猛犬のようで、腕組みするブルドック軍曹の表情は凄まじい迫力がある。筋骨隆々のブルドックは、第1海兵航空団(山口県岩国市)のシンボルである。海兵隊はなぜか鳥居が好きのようで、海兵隊基地にはたいてい鳥居のマークがどこかに使われている読谷村の基地は「トリイステーション」という。海兵隊キャンプバトラーの記念のパネルを見ても、随所に鳥居が使われていることがわかるだろう。

全世界に展開する米軍基地には、どこにも将校用クラブなどの慰労施設がある。7年前、そのようなクラブやバーで使われていくマッチを多数入手したので、「わが歴史グッズ」として紹介したことがある。また、海外展開の記念プレートもいろいろ持っている。この写真もその一つで、1990年「砂漠の盾」作戦、1991年の湾岸戦争「砂漠の嵐」作戦に参加した海兵隊退役軍人が記念に作ったもの。米星条旗と日の丸の上をご注目いただきたい。日の丸の上にJAPAN、星条旗の上にはOKINAWAとある。「OKINAWAは米国」という意識が投影しているのであろう。ここでもラクダの隣に鳥居がある。そこに「さよなら」とローマ字で書いてある。


海兵隊普天間飛行場の「代替施設」を、名護市辺野古に建設しようという試みは成功しないだろう。もはや普天間の海兵隊が日本防衛や東アジアの「平和と安定」のための「抑止力」だという神話は崩壊した。1998年の九州・沖縄サミットの際、外務省は予算を組んで、随行者や国内外の報道関係者に「お土産」を提供したが、その一つが「サミットリカちゃん」である。ある大手紙記者から「わが歴史グッズ」に提供されたものだ。「サミットリカちゃん」は今年14歳になる。しかし、この間、9人の首相が変わり、普天間問題は未解決のまま、迷走を続けている。

私は何度も辺野古を訪れているが、何年か前に基地反対運動関係者が作ったジュゴンの文鎮をもらった。木製だが、重い金属が埋め込まれていて重量感がある。それと辺野古の反対運動のバッチである。それを辺野古の海について紹介する記事の上に置いてみた。ジュゴンも住めなくなる基地を作るのか。辺野古「移設」は選択肢から消えるべきだろう。


沖縄に関するグッズは、ここに紹介するものだけでなく、他にもたくさんある。沖縄戦の生々しい現実を現在進行形で新聞の形で表現した「沖縄戦新聞」は、「歴史グッズ」ではないものの、お薦めしたい文献である。歴史資料としては、沖縄戦関係の一次史料を持っている。それについては、過去の直言を参照されたい

最後に、退役軍人の記念プレートにあった「鳥居、さようなら」にあやかって、「海兵隊、さようなら」で結びとしよう。



《付記》 読者からYナンバーの「Y」の由来は、横浜の税務署で始まったことに由来するというご指摘をいただいた。「YOKOHAMA」の「Y」である。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/yokota-ynumber.html

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