「員数合わせ」的発想はやめよう――普天間問題の視点 2010年4月19日

校野球はあまりみないが、友人から 「日刊スポーツの記事をみてください」というメールがきたので検索をかけ、読んでみた。 第82回選抜高校野球大会の日本一に輝いたのは、沖縄の興南高校だった。延長12回の末、10対5で日大三高(東京)を破り、初優勝した。198球、12回完投したエースの島袋洋奨投手について、同紙女性記者の署名記事のなかに印象に残る記述があった。友人がメールをくれた理由がわかった。

「『沖縄が力があるところを見せたかった』。小さいときから沖縄が抱える痛みを肌で感じて育ってきた。自宅は移設問題で揺れる普天間基地の近く。小6のとき、近所で米軍ヘリ墜落炎上事故が起こった。炎上したヘリの破片は自宅アパート前にも飛んできたという。児童会長だったため、宜野湾市内で開催された市民集会で1万人を超える参加者の前でスピーチした。『安心して生活できる環境になってほしい』。切ない願いを訴えた少年は6年後、県民を沸かせるエースへと成長。不安を抱える地元の人へ頑張る姿を届けた」(『日刊スポーツ』2010年4月4日付)

私がゼミ生を連れて、 事故後1カ月の沖縄国際大学の現場を訪れたとき、 小学生の島袋君が近くにいたわけである。子どもの成長の早さを思った。だが、彼が6年前に児童会長として訴えたことは、未だに実現していない。 5月末にかけて、普天間「移設」問題 は最大の山場を迎える。

問題を混乱させているのは、主要メディアを覆う、度し難い「同盟思考」である。6年前の普天間基地のヘリ墜落事故について、当時、新聞各紙の東京本社版と沖縄地元2紙の記事や論調との違いに驚いた。そのことを、沖縄から帰ってすぐにラジオで語った (NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」2004年9月12日午前5時38分放送) 主要メディアに登場する人々の多くは、「同盟」というアナクロニズム的発想で日米関係を捉える傾きが強い。彼らにとって、普天間「移設」の解決策は一つしかない。だから、鳩山首相がさまざまな選択肢を出して検討すること自体が許せないのである。米国(といっても、ワシントンの一部勢力ではないのか)の要求通りにやっておけば、それが「日米同盟」だというなら、「そんなものいらない」と言うべきだろう。 つまり、そういう不自然な日米関係にそろそろ終止符を打つべきときに来たのである。

一体、日米間に対等な「同盟」関係など存在したことがあるだろうか。沖縄返還に際して、密約までかわして、米側の負担を免かれさせる。 その屈辱的な密約について、現在も不開示にする外務省。先々週、東京地方裁判所は、この態度を「不誠実」として、密約文書の不開示を違法と判断。 原告に10万円の賠償を認めた(各紙2010年4月10日付)。これは、役所の文書不開示について、高い説明責任を課したもので、憲法の知る権利や情報公開の価値に重きを置いて、行政実務に発想の転換を迫る画期的判決と言える。   なお、半世紀前に日米安保条約に基づく米軍駐留を憲法9 条違反と断じた東京地裁判決に対して、米国は異様な行動をとり、 それに日本政府と最高裁長官は驚くべき対応をした。 その関連文書を外務省が一部公開したが、まだ隠されている疑いが強い(『東京新聞』2010年4月9日付)。 半世紀前の原点に戻って、もう一度、日米安保条約の構造的な問題について議論することが求められる所以である。

「日米同盟の深化」と簡単に言ってはならない。 すでに日米の軍事的協力関係は、日米安保条約の枠を超えたグローバルなものにまで「進化」しているのだ。 これを正当化しようとやっきになる御用学者(「日米同盟」の臣下)は、普天間問題でも強迫と脅迫の言説を繰り出してくる。だが、「海兵隊が撤退するぞ」という脅迫論は、脅迫になっていない。 「だったら出ていけば」と言えばいいだけだ。それが脅しになる人々は、「日米同盟がなくなったら大変だ」という「同盟強迫」病にかかっているだけである。 他方、「普天間で失敗したら、米国は経済制裁をかけてくる。そうなったら日本は大変だ」とテレビで語る「識者」もいた。 「日米安保条約をやめたら日本は経済的に終わりだ」という主張は、50年間一貫して流布してきたが、これはあまりにも使い古されてきた脅迫的言説である。 米国がそんなことをするわけがない。そんなことをすれば、経済的に米国の方がダメージを受ける。 「日米同盟」絶対の思考から自由になって、日米関係をまともにしていくことが求められている。その意味では、鳩山首相の「迷走」は、時間をのばして米国に譲歩を引き出すための「確信犯」(言葉の使い方は法的には間違いだが)的行動で、5月末には「アッ」という結論を出すのかもしれない。 そうでなければ、ただの「暗愚の首相」に終わるだろう。

鳩山首相が早い時期に結論を出さ(せ)なかったおかげで、沖縄の海兵隊をどうするのかについて考えざるを得ない状況が生まれた。これは彼の功績と言えるかもしれない。 この間、 普天間飛行場を抱える 宜野湾市 の伊波洋一市長 が大変努力されて、SACO合意から15年間を、米側の資料に基づいて検証し、 普天間飛行場返還への展望を明らかにした。

米側の資料によっても、海兵隊はほとんどの部隊がグァムに移転する。 このことを前提に交渉すべきだという主張である。この主張には説得力がある。だが、海兵隊を沖縄になんとかとどめたいという人々は、数字の操作をやる。 彼らの数字は「定数」である。軍隊の場合、定数と実数にはズレが出る。沖縄海兵隊がグァムに移転するのは既定路線にもかかわらず、「定数」にこだわり、その幽霊のような数字を「県内」か「県外」かといった形で議論している。 これはある意味で滑稽である。

その昔、「1個連隊、但し3個大隊欠」というのがあった。つまり連隊長と連隊本部があるが、実は1個大隊しかいない。軍隊では、そうした定数に実態を無理やり合わせることが行われていた。 「員数合わせ」である。例えば、小隊のある兵士の帽子がなくなった。そこで上官はいう。「員数を合わせよ」。 兵士は隣の部隊に行って、帽子を盗んでくる。窃盗をしてでも、数を合わせる。すでに戦死の手続きをとってしまったため、上官は「貴様ら、死んでこい」と戦場に追いやった話もある。 軍隊ではそうした話は枚挙のいとまがない (拙著『戦争とたたかう―― 一憲法学者のルソン島戦場体験』日本評論社)。 大隊規模のわずかな海兵隊のために、巨大な基地を新たに作らせる。これは、現代版の「員数合わせ」ではないのか。 県内移設を言う人々は、表向きは「海兵隊の抑止力の維持」という形で安全保障論を語っているようで、実は「新基地建設」という巨大公共事業や生臭い基地利権が背後にあるとしか思えない。

そもそも「抑止力」という考え方自体、日本国憲法の平和主義の観点からは当然に受け入れられるものではないが、それはひとまず置くとして、そもそも「抑止力」とは何か。 何に対して、何を、どのように「抑止」するのか。そういう中身の議論が必要だろう。  そうしたなか、「海兵隊は抑止力である」という前提にクェスチョンを投げかける主張を新聞で見つけた。『毎日新聞』4月3日付オピニオン面「争論」。 「沖縄に海兵隊は必要か」というタイトルで、森本敏氏(拓殖大学教授)と柳沢協二氏(1970年防衛庁入庁、運用局長、官房長、内閣官房副長官補)との議論である。 柳沢氏は防衛庁生え抜きで、次官の最有力候補だったが、 かの守屋武昌元防衛事務次官 に嫌われ、内閣官房に遠ざけられた人物である。

 一方の森本氏とは、私は『朝日新聞』などのコメント欄で、いつも対比的意見として紹介されてきた。 2006年12月7日、「防衛省昇格法案」国会審議に際して、参議院外交防衛委員会の参考人質疑でご一緒した。 与党推薦参考人が森本氏、野党推薦が私だった。 紳士的な方だが、その主張に共感できるところはない(あちらもそう思っていらっしゃるだろう)。『毎日新聞』「争論」では、森本氏はいつもの主張を展開しているので省略する。 他方、柳沢氏は、非常に冷静な視角から議論を展開していた。その発言のポイントはこうである。

「96年の橋本内閣の普天間返還合意から相当時間がたって、戦略環境も随分変わった。…この状況の中で、1個大隊規模の海兵隊が、この地域の抑止力としてどれだけ不可欠なのか非常に疑問だ」 「海兵隊は、地域の軍事バランスを維持するというよりは、むしろ緊急派遣部隊だ。初動対応のためどこかになければならないが、なぜそれが沖縄かということをそれだけでは十分説明し尽くせない」 「私がこだわっているのは、今までずっと『抑止力のために』と言い続けてきたことだ。抑止力の中身を具体的に説明していないし、同盟協力の文脈、つまり、グローバルな意味での米の国際秩序維持について、どう日本が評価してかかわっていくか。その議論がなければ、たぶんなかなかこの話は難しい」 「(中国との関係で)『経済の相互依存関係』は過去に考えていた以上の深まりがある。お互いに相手を滅ぼすわけにはいかない一方、米の軍事力をもってしても強制できない。逆に米が軍事力以外で強制されてしまうかもしれない相手がいる。そういう状況が、抑止力にどう影響していくのかというようなことも考えておかないといけない」

柳沢氏の議論は、「日米同盟」維持の立場からのものではあるが、それを絶対視することなく、きちんと議論をしようという姿勢には好感が持てた。 とりわけ、「抑止の中身」をしっかり検証するという視点は、メディアに欠けている議論である。 実は在韓米軍も長らく同じような事情を抱えている。 アジアにおける安全保障環境の変化を踏まえれば、海兵隊基地のたらい回しは歴史的誤りである。 少なくとも、メディアでは柳沢氏の議論あたりからきちんと検証を始めるべきだろう。そうした検証を経れば、伊波市長が明らかにしたように、普天間飛行場の全面返還への展望も開けてくるだろう。

明治政府が1869年2月、江戸幕府が締結した不平等条約(安政五カ国条約)改定を通知してから141年。自民党政権が結んだ安保条約および米軍地位協定の不平等性や密約を徹底的に洗い出す時が来たと言えよう。普天間基地の県内移設をやめさせ、これを全面返還(「圏外」移設)させなければならない。   4月25日(日)、「沖縄基地はいらない」全国同時アクション が行われる。

《付記》写真は、普天間飛行場の夜間飛行訓練(2008年8月27日、水島 ゼミ生撮影)、普天間飛行場の記念時計(水島所蔵)、キャンプシュワブ鉄条網(同、水島撮影)。

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