増田れい子さんとの出会いと別れ――2 冊の本を通じて              2013年7月15日


週のように全国各地で講演している。京都が全国一の猛暑となった日は、東本願寺で講演した。東西の本願寺の僧侶が、毎年7月7日(盧溝橋事件)に合同で非戦・平和を考える集いを行っている。今年は私に講演依頼がきた。これまでもカトリックやプロテスタントの教会で講演したことはあったし、仏教関係の講演依頼もあった。しかし、純粋にお寺さんだけの依頼は初めてである。東本願寺教務所の大講堂で、日頃仏法を説く僧侶の皆さんに憲法を説くという面白い体験をした。

 京都講演を終え、東京に帰る前の少しの時間、三十三間堂に立ち寄った。30年ぶりだった。実は1983年10月、全国憲法研究会の秋季学会が清水寺で開かれ、当時30歳の私は、学会報告を清水寺大講堂で行った。報告準備のため、前日から三十三間堂前の京都パークホテル(現在は、ハイアットリージェンシー京都)に泊まって、必死で報告原稿を書いていた。気分転換に三十三間堂を見学しようとロビーに降りると、偶然、芦部信喜先生がそこにおられた。挨拶をすると、学会報告への激励の言葉をいただくことができた。今回、三十三間堂から見える旧パークホテルの建物を見ながら、当時のことをしばし思い出していた。

 今年は「人生の節目」を感ずることが多い。昨年12月12日、元毎日新聞論説委員でジャーナリストの増田れい子さんが亡くなった。83歳だった。『橋のない川』の作家住井すゑの次女として生まれた。戦後初めて正式に採用された女性新聞記者として知られ、1991年には毎日新聞初の女性論説委員になった。1984年には日本記者クラブ賞を受賞。『毎日新聞』の月1回の特集面「女のしんぶん」編集長も務めた。半年遅れになったが、ここで増田さんとの思い出について書いておきたいと思う。

26年前、久田栄正氏に聞き取りをしてまとめた『戦争とたたかう― 一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年)』が出版されると、増田さんは、『毎日新聞』1987年5月7日付「女のしんぶん」書評欄に、「戦争反対は『個人の尊重』から」という見出しで、「戦争を引きおこす権力にとどめを刺すのは個人の尊重」と、憲法と関連させて本書を特徴づけていただいた。これを読んだ久田氏は、これが最も的確で、うれしい書評だと満面の笑みを浮かべていたのを思い出す(久田氏は眼光鋭く、滅多に笑顔は見せない)。

次に増田さんと会うのは、1992年11月に拙編著『きみはサンダーバードを知っているか―もう一つの地球のまもり方』を出版したあと、『法学セミナー』誌上でこの本について対談したときである。巻頭対談「国際貢献はサンダーバードのように」(『法学セミナー』1993年6月号4-9頁)。今回、増田さんとのやりとりを20年ぶりに読み、日本評論社5階会議室で対談したときのことをいろいろと思い出していた。

対談のなかで増田さんは、「なんとかして、国家から暴力を取り去れないか。個人があってはじめて国家があるのに、国家は軍隊をつくって個人をつぶそうとする。また、国民の方はなぜ自分という個人の上につい国家を置いてしまうのだろうか。国家からの支配、干渉に弱いところがあるんですね」と述べていた。また、「日本人はみんな個人が弱いです。個人をなくして会社に従う。夫に従う。だれかに従うことはたいへんうまいんです。そういう従う文化なんです。従っていたら何とかなるだろうと思っている。非常に自分に対して無責任なんです。自分の足で立つ、自分の頭で考える。自分の力で何事かをする。そういう文化がまだ十分に育っていない」とも。戦後初めて全国紙に採用された女性の記者として、「どこよりも新聞社は男性中心主義」というのが口癖だった。

この対談でうれしかったことは、『きみはサンダーバードを知っているか』の狙いを的確に見抜いていただけたことだった。私が30代最後の年にこれを出したのは、何よりもサンダーバードをきっかけにして、「日本国憲法の人間像、国家像、安全保障構想」「国家と国家の関係ではなく、民衆同士の国際協力」「人命救助優先の思想と構想」(対談中の私の言葉)を読者にイメージ豊かに考えてほしかったからである。

 増田さんは、「今まで後ろ向きの護憲論、私自身もそれをやってきたような気がするんです。でも、後ろ向きは限界があるんです。やはり若い人たちと一緒に、これからの日本、これからの世界をどういうふうにしなければいけないかということが非常に大きな問題なんです。そのために前向きのものがどうしても必要なんです。これは前向きの護憲論です」と指摘していた。

 この対談から20年が経過して、いま、有明の日本科学未来館で、「サンダーバード博」が開催されている(7月10日〜9月23日)。公開前日の記者プレゼンに参加する機会があり、会場を見て回った。隊員募集キャラクターにサンダーバードを使うに至った自衛隊も参加しており、20年前とは隔世の感がある。海上保安庁特殊救難隊が参加するのは当然としても、本家本元の消防レスキューが参加していないのが心残りだった。主催者に質問しても、消防庁の協力がないことの理由はわからなかった。

 増田さんとの最後の仕事は、『国公労連調査時報』という組合関係の雑誌の連載だった。2004年に増田さんから依頼があったときは、正直とまどった。組合の雑誌に毎月連載するというのは、発表媒体と頻度の2点で不安があったのである。しかし、増田さんは引かない。とにかくお願いします、の一点張り。ついに私が折れてお引受することになった。連載第1回、「いま、労働組合が『旬』」(同誌2004年11月号)は、「増田れい子さんからの強い依頼により、本欄を担当することになった。気品のある文章を紡ぐ名エッセイストの後がつとまるかどうか不安だが、おつきあいをお願いしたい」で始まる。小泉政権下で自衛隊イラク派遣が行われ、国立大学や国立病院・診療所等の独法化、年金問題の先鋭化など、この国が大きな転換点を迎えていた時期だった。

なお、連載の第2回目は「直言」にも転載した「人気があっても任期でやめる意味」である

 異色の媒体に100回も連載することになった。この8月で連載は終了となる。連載100回目(最終回)のタイトルは「『戦争とたたかう』こと―不断の『憲法診断』を」である(同誌2013年8月号所収予定)。

 ところで、増田れい子さんは、この連載を私に引き継ぐまでの161回分のうち、39回分を厳選して、岩波書店から『心のコートを脱ぎ捨てて』(2002年)として公刊されている。11年前にこの本を送っていただき、「直言」で紹介したこともある(直言「心のコートを脱ぎすてて」)。

 タイトルは、反ナチス運動の象徴だった「白バラ」からとっている。《心に着せた無関心という名の外套を脱ぎ給え》。これは、ミュンヘン大学の学生ハンス・ショルとゾフィー・ショルらのグループ「白バラ」が、市民に反ヒトラー抵抗を呼びかけた際の命がけのメッセージだった。「白バラ」事件50周年追悼集会(1993年2月)におけるヴァイツゼッカー・ドイツ連邦大統領(当時)の演説に出てくるこの言葉(永井清彦訳)を、増田さんは「心のコートを脱ぎ捨てて」と言い換えたのだ。

 増田さんはこの本のなかで、日本の民主主義の危機的状況について書いている。人々の政治的無関心は、「政治失い」「政治捨て」の状況にまで進んでいると述べ、これが「政治腐敗の温床づくりを手伝ってしまうのではあるまいか」と警鐘を鳴らす。「選挙なんか行ったことないよ」という無投票層の気分によって、いまの安倍政権も維持されている。昨年12月の総選挙、6月の東京都議会議員選挙の低投票率は、来週の参議院選挙でも続くのか。そうなれば、参議院で壊憲勢力が3分の2を獲得することになる。増田さんはいう。「民主制、民主主義というのは、自転車みたいなもので、乗る人が自分の両足をせっせと動かしていないと前に進まないし、たおれてしまう」。政治への無関心は、足を止めて、二輪車を倒すことにつながる。私たちは足を動かしていなければならない。

ところで、この「直言」を書くために、増田さんの著書を書庫から出してきた。そこに1枚の紙がはさんであった。増田さんの肉筆で、2003年1月22日12時2 分に書斎に届いたファックスだった。

 「直言、毎回面白く拝読しています。友人がアクセスしてファックスしてくれております。週のはじめの強壮剤!!になります。5月のご著書を心待ちにしています〔注:拙編著『世界の「有事法制」を診る』法律文化社のこと〕。ときどきチョコレートをお送りしますが、どうぞお心おきなく召し上がってくださいませ。近くにチョコレート屋さんが出来たので、お送りしたくなるのです。ヴァレンタインデー間近。でも寒い日が続きますので、ご自愛くださいますよう。世界の反ブッシュの声で、少しでも戦争を遠のかせたいです」。

 イラク戦争2カ月前のファックスである。当時、ブッシュ大統領のイラク攻撃近しで、これに反対する世界の世論が高まりつつあった。ピークとなった2月15日には「60カ国、1000万」の人々が街頭に出て、イラク戦争反対を訴えた。増田さんの「世界の反ブッシュの声」とはこうした動きを指している。

 このファックスのあと、まもなくして増田さんからの連絡が途絶え(もちろんチョコレートも)、こちらからも連絡できなくなったある日、突然、増田さんから電話がかかってきた。もう自宅にはいないということで、お見舞いも固辞された。出版した本も送ることができないでいたとき、突然の訃報を新聞で知ることになった。「急性心筋梗塞のため死去」(『毎日新聞』2012年12月20日付訃報欄)とあるから、死の直前まで、この国の政治のありようを憂えておられたに違いない。12月12日に亡くなっているので、総選挙(12月16日)の結果と、安倍第二次内閣の発足を知らずに増田さんは逝ってしまったわけだ。「アベノミクス」、原発再稼働、原発売り込みトップセールス、憲法96条先行(潜行)改憲など、安倍首相の跳梁について、増田さんだったら何と言われただろうか。「これは危ない。水島さん、憲法の危機ですよ」と、あの情熱的な口調まで想像できる。

先月14日、増田さんとの出会いのきっかけとなった『戦争とたたかう』をリニューアルしたものを、岩波現代文庫から出版した。俳優の三國連太郎氏について書いた「直言」で予告していたものである。これを増田さんに読んでもらえなかったことが残念でならない。

増田さん、安らかに眠らずに、この国と憲法の行く末をしっかり見守って下さい。

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