雑談(105)今時の学生たち(2)――大学に生徒会?            2014年3月31日

1954年政経新歓企画

きな事件が次々に起きているが、都合により「雑談」シリーズが続くことをご了承ください。今回は雑談「今時の学生たち(1)」からほぼ1年ぶりの「その2」である。

まもなく4月。ピカピカの1年生が入学してきて、大学はいわゆる「新歓」の時期を迎える。冒頭の写真は60年前の早稲田大学第一政治経済学部の学友会(学生自治会)主催の「新入生歓迎大会」(1954年5月21日)のパンフレットである。当時は夜間部の第二政治経済学部があった(ちなみに42年前、私が第一法学部に入学した1972年の翌年、1973年に第二政経、第二法学部は廃止された)。このパンフは古書店の目録で偶然発見し、購入しておいたものだ。ガリ版刷りの粗末なものだが、学友会代表と学部長の挨拶朝日新聞論説委員と政経学部講師(経済学博士)の講演、映画「日本の悲劇」(木下恵介監督作品)の上映と続く。

早大に全学中央自治会があって極端に政治化した50年代初頭の時期を経て、60年代、自治会が政治セクトの党派闘争の舞台となっていく時期とのちょうど中間にあたるため、比較的おとなしい企画をやっていたことがわかる。60年代半ばから学生運動が過激化し、「70年安保」をピークに、それ以降は急速にしぼんでいく。早大は1972年11月の「川口大三郎君事件」が大きな転換点だった(この言葉で検索すれば、今時の学生たちが想像できない世界が広がる)。これは私が1年生のときのことで、いまでも当時のことを鮮明に思い出すことができる。それから40年。政治的引き回しに対する反発から、学生自治会の「正常化」が進み、さらには「自治会」という言葉すら嫌悪されるようになって久しい。

2012年12月、法学部学生自治会規約改正のための学部投票が行われた。教員のところに自治会選挙管理委員会から手紙が届き、投票のため、授業(3・4 年ゼミ)冒頭の10分を提供してほしいということだった。私のゼミには30人ほど「有権者」がいるから、投票箱をまわして投票が終わるのを見計らって、少し遅く教室に入った。どんな投票だったのか、ゼミ生の間でまったく話題になっていなかったので、何も聞かなかった。

12月20日になり、自治会の選挙管理委員会から、「学部投票結果のご報告」という手紙が届いた。何気なく読んで、びっくりした。学部投票の目的は、「法学部学生自治会」から「法学部学生会」への名称変更だった。総投票数1925票、投票率54.04 %。賛成1695、反対170 、白票42、無効票18。送り主は「法学部学生会」になっていた。

「学生自治会」から「学生会」へ。「自治」という2文字を削るための投票だったことを、不覚にもこの手紙で初めて気づかされた次第である。全構成員の直接投票という民主的手続を通じて、自ら治めるという「自治」という言葉をなくす。おそらく、日本の大学の歴史のなかで、かつてなかった現象ではないか。

当時の法学部自治会のホームページには、「学生会」への変更に関わる規約改正案が掲載されていた。1年前にダウンロードしておいた改正案の冒頭部分のみここにリンクしておこう(Wordファイル)。70年代初頭の空気を反映した前文は見事にカットされ、わずか一行のシンプルなものになっている。また、再び「全学連」のようなものに入ることのないよう、手続きを含めて「他団体への加入」条項を完全に削除している。そして、「自治」という言葉をことごとく放逐している。

1年前、当時の執行部にメールを送って質問してみたところ、丁寧な回答が届いた。私の質問の趣旨は、どういう理由で「自治」を削ったのか、につきる。教員の立場では、学生たちがどのような自治の仕組みをつくるかは、まさに学生の自治、自主的な判断の問題であり、横からとやかく言うものではない。

「団体名称変更に至る経緯」(2013年1月8日付)によると、「『学生自治』という言葉に対する内外の極端に歪められた悪いイメージを改善するため」ということらしい。ではなぜ、「自治」という言葉があるといけないのか。2012年12月から1月にかけて、学生たちがネット上でつぶやいていたことをまとめると、「相手にされない」「就職に不利になる」「やっていることは、高校の生徒会なので、生徒会でもいい」ということだった。執行部からのメールにも、「自治」という言葉を削除するのは、「学生自治」という言葉のもつ周囲の悪いイメージを取り除こうとすることに狙いがあり、決して「学生自治」の実質的内容まで放棄するものではない、とある。

2年前(2012年)の新入生歓迎行事を通じて、新入生が法学部自治会に抱くイメージは、(1)学生運動をする政治団体、(2)高校の生徒会と同種、(3)企画サークルの一種という3つに分かれたという。検討の結果、自治組織と企画サークルの両側面のバランスをとるための「大学版の生徒会案」と、政治的自治組織的色合いを一切捨て、企画サークルとして生まれ変わる「学生団体案」とに分かれたという。そして、学部投票の結果、「自治」を削除し、前者の道を選択したというわけである。「自治」という言葉にこだわりのある60歳以上の世代にとっては、「大学版生徒会」は隔世の感があるだろう。

学校教育法では、児童、生徒、学生を区別している。大学には学生はいるが、生徒はいない。「生徒のいない学校は存在しないが、生徒がいる大学も存在しない」と言ってきた通りである。

生徒会的な傾向は何も早稲田だけでなく、全国的な傾向のようである。例えば、小樽商科大学では、学生自治会が、新入生歓迎コンパなどでの飲酒を禁止する規約を設けたという。『東京新聞』2013年4月10日付「話題発掘」欄によると、2012年春に入学直後の学生が急性アルコール中毒で死亡した事故を受けて、大学当局だけでなく、何と学生自治会までが、飲酒禁止の活動を展開しているという。学外を含め、未成年者が出席するあらゆる場で、成人であっても、「会場内に酒類を持ち込んではならない」「酒類を注文してはならない」という規制である。違反団体には、サークル配分金の無期限停止や体育館などの施設の利用禁止などを定めている。これはかなり厳しい。オリエンテーションで、自治会委員長がそれを新入生に説明したという。

60年代、70年代の大学を知っている世代にとっては、「学校当局」と一体となった「学級委員」や「生徒会」的な役回りをする学生自治会の姿に驚くことだろうが、これが普通なのである。いまの学生たちからすれば、かつての大学が異様ということになる。

地方自治、大学の自治、弁護士自治。いま「自治」というものが風前の灯火である。大学について言えば、「世間の目」に過剰に反応・対応した結果、さまざまな問題が生まれている。文化や芸術の世界でも、勘違いした権力者が土足で踏み込み、補助金を削減したり、内容に介入したりしている。憲法研究者としてのありようについても、安倍政権の爆走の果てに、かつてのように筆を折るような圧力がかからないとも限らない(直言「憲法研究者の『一分』とは[その2・完]」)。

そういうなかにあって、いまを生きる学生たちのなかでも、懸命に問い、考える人たちも少なくないだろう。かつて法学部学生自治会に関わったことのある学生の一人が、「学生自治」についての論文を残して卒業していった。この学生の論文のタイトルは「大学における学生自治の現代的意義」(Wordファイル)である。以下、この学生が自らの思いをつづった終章から少し引用してみよう。いまどきの学生たちの思考と感覚が理解できる面があるようにも思うからである。

…この論文の出発点は「学生自治」とは何かという疑問であった。なぜ学生自治会に嫌悪感を抱いてしまうのか。それなのになぜ、学生自治会に興味をひかれてしまうのか。時間が経つにつれ、それが私の最大の問題意識となっていた。私が胡散臭さを感じてしまう理由は、1970年代に至るまでの学生運動の負の遺産であることは既に述べてきた(リンク先はWordファイル)。では、にもかかわらず私が学生自治会に「関与してしまった」理由は何であろうか。かつての危険なエネルギーへの興味かもしれないし、単純に立ち寄った私に親切にしてくれた先輩のためかもしれない。しかし、それだけではない、もっと違うところに理由があるような気がする。その点について、ここでは前述の理論面からは少し離れて扱いたい。

尾崎豊の「卒業」は、管理教育からの解放を求めてもがく生徒の姿を描いたものとして多くの共感を得ているが、「学生自治」を考える上で「管理」という言葉は非常に重要である。中学高校までの教育は、理想はどうあれ生徒の管理が第一義になっていることが多く、そのため生徒は非常に抑圧された思春期を過ごしているように思われる。しかしながら、管理された中での「気づき」は自立の基礎をつくるとも考える。集団行動の訓練や、レディメイドの知識を詰め込むことは、一方では非常に苦痛であるが、他方そうした抑圧の中でこそ様々な問題意識や自己の理想、興味に気がつくことがある。スポーツを続けたいという思い、国籍性別宗教を問わず友達を作りたいという思い、未来の人類のためになる研究がしたいという思い、弁護士や医者として活躍したいという思い、あるいは家業を継ぎたいという思い、など生徒の数だけ多くの問題意識や理想、興味がある。管理教育終了後には、そうして浮かんだ問題意識や理想、興味を胸に、それらを自由に掘り下げる場・身につける場・経験する場として、多くの生徒が高等教育を希望する。ことに大学教育においては、そうした問題意識や理想、興味に裏付けられた「知りたい」「表現したい」という思いが何よりも優先されるべき場所であると思う。学生にとってそれは、講義において自由に教授から学んだり、教室内外での教授や学生との相互対話から自由に学んだりすることであり、まさにそれが大学の本質といってよい。そしてそこでの学びを通じて学生に批判的精神を身につけさせることこそが、大学の使命である。

このような観点に立つと、大学問題をめぐる学生運動は、ほとんどの場合、実はこうした本質や使命が大学や国家や、あろうことか大学自身によって軽視されたことへの憤りがエネルギー源となり起きていたのだと分かる。ようやく手に入れたはずの自由が踏みにじられているという事実に、自分たちで変えていこうという思いを抱くのは自然なことであるし、同時にそこには管理され抑圧された思春期を過ごす中で蓄積された、失望と怒りと鬱憤とが重ね合わされ、一挙に放出していた側面もあるのかもしれない。

この点、かつての学生運動を知る世代から、現代の大学生は大学にかんする問題に対して意識が低く主体的に行動しないという指摘をいただくことがある。しかしそれは本当だろうか。私には、主に以下二点から妥当ではないように思われる。

まず、学生運動の時代と決定的に変わったことは、それらの思いを表現する方法としての集団行動が「政治的・暴力的な学生運動」としてのレッテルを貼られたことである。そのことによって、仮に上記のような大学の本質や使命が侵害されることがあっても、往時のような自治会を通した要求活動をすることは非常に危険なことと認識されている。

次に、グローバル化や、少子化による学生数減少と規制緩和による大学数増加が進む中、自由競争的な政策に組み込まれたことで、教育のサービス化が著しく進んだことが挙げられる。そのことによって、カリキュラムや卒業要件はおしなべて緩やかになり、学校設備もハード・ソフトの両面で非常に向上した。これは、学生運動の時代の<大学にかんする要求>のほとんどをカバーしているのであり、そうした意味で学生の満足度が高いため、そもそもたたかう必要がないと感じる学生が多いのかもしれない。

このように、大学の本質や使命を脅かす権力に対し集団で行動をすることは、今日では非常に忌み嫌われる傾向にあるが、それにもかかわらず私は、私自身と未来の世代のために、特に早稲田大学法学部においては学生自治会による自治にこだわりたい。既に述べたように、大学の自治の歴史は戦前から多大な犠牲のなかに獲得されてきたものである。かつての学生運動の時代には、大学の自治=教授会自治であり、学生は特別権力関係における営造物使用者にすぎないとされ、学生の自治が排斥された。しかし、このように戦前のパターナリスティックな考えが支配的であっても、たとえば1969年東京大学「確認書」に見られるように、学生を大学の自治の一主体としてみとめる新しい大学の自治が構成されつつある。この全構成員自治というあり方は、「有力説」にとどまってはいるが、それでもこうした学説が生まれたことの意義は大きい。いま、学生自治会による活動がネガティブにとらえられ、また大学生活がそれなりに充実しているからといって、この学生自治を放棄することは、上記のように先達が築き上げきたものを破壊することにつながるのではなかろうか。今後、声を大にして大学や国家や私企業に主張したいことがらが出てきたときに、その手段がなく現状に甘んじるしかないという状況が来ないという保証はどこにもない。そうした事態に陥ることだけは、どうあっても避けなければならないと思う。

その手段として早稲田大学法学部において学生自治会を支持するのは、再びかつてのような名声を得るために既得権益を温存することが目的なのでは決してない。ここで「早稲田大学法学部においては」と断った点が重要であり、早稲田大学法学部では確かに過去には目を覆うような事態も経験はしたが、近年では学部事務所や教職員とは(少なくとも担当者においては)良好な関係にあるといってよい。学部による代行徴収こそなくなったが、年に必ず一回以上は意見交換の場として教員学生協議会を開催し、学部学生から民主的に集めたアンケートをもとに話し合いを設けている。また、新入生向けのオリエンテーションや冊子発行は公的なものの一部として扱われ、執行委員の選挙時にも協力を快諾していただいている。こうした活動が許されるのは、早稲田大学法学部学生自治会の活動目的が「知りたい」「表現したい」に直接結びつくものであり、かつ批判的精神を持って中立であろうとする態度をとることに努めてきたからであろう。そしてまさに、そうしたことに労をいとわず、むしろ率先して取り組み続ける学生自治会のひたむきな姿は、ある種の格好よさをもって私には映った。学生自治会のそうしたところが私を強くひきつけたのであろうし、また学生自治の草創期においては、そうしたところに多くの学生が魅せられたのであろう。…

…論文を書き終え、あまりにも当然で大切なことに気が付いた。私は早稲田大学法学部の(現)学生会に今後も活動を継続してほしいと思うのだが、私がここで述べてきたような学生運動や学生自治に関する歴史と教訓は、自らしっかり学ぶべきであり、何より他者にもしっかり伝えていくべきだということである。そしてそれは、なにも執行委員だけでなく、法学部生全員が考えていくべきことでもある。(旧)学生自治会が、なぜ否定的な印象を付与されたのか、それは法的にはどう位置づけられるのか、それを踏まえて自分はどう思うのか、そうしたことを、できるならば年次の低いうちに触れておく必要があると思う。そうすることで、自らのスタンスも見えてくるだろうし、無用な不安に駆られることも、無意味に忌避・敵視をすることもなくなってこよう。これまでの(旧)学生自治会に足りなかったものは、そうした軸と、それに裏付けられた毅然とした態度だったのかもしれない。しかし、(現)学生会は、そうした今まで曖昧にしてきた部分をしっかりと見つめ、考え、行動に移している。学生会が、今後どのような道筋をたどるのかをリアルタイムで感じることができないのは残念ではあるが、これまでの執行部が踏み込まなかった部分にしっかり目を向け、改革に踏み切った現学生会に期待するところは大きい。時代は変わっても、「知りたい」「表現したい」を守るため、変わらず学生のために活動を続ける組織であって欲しいと思う。…

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