憲法研究者の「一分」とは(その2・完)  2007年1月8日

前の文部省思想局の秘密文書に関連して、今週も引き続き書いていこう。この記事を掲載したブロック紙や地方紙の見出しは、「憲法学者を個別攻撃/政府、転向を強要」(『熊本日日新聞』『西日本新聞』『四国新聞』17日付)、「国家が学問に徹底介入」(『高知新聞』同)、「『近代史の暗部』克明に/改正教育基本法に懸念も」(『琉球新報』同)等々。『琉球新報』が教育基本法に関連する見出しをつけたのは、記事中の次の一文による。「文書を閲覧した常石敬一神奈川大教授は『国家権力が学説変更を迫る際のすさまじさを実感した。手法が徹底的なのに対し、研究者はひ弱。日本の現状を考えると、身につまされる問題だ』と述べ、教育基本法改正に警戒感を示した」と。この論点については、また後に述べることにしたい。

  まず、この文書から浮かび上がってくるのは、天皇機関説事件後の憲法学者に対する思想統制の生々しい実態である。学問・研究の自由は、@研究の自由(研究対象の選択と研究方法の選択を含む)、A研究成果発表の自由、B研究に基づく教授の自由からなる。特定の学説について、これを研究することも、著書で触れることも、講義で語ることも許さないというのは、学問の自由に対するトータルな否定にほかならない。
文書を通読して驚くのは、思想統制に関わる人々が、実にさまざまな手法を駆使したことだろう。美濃部に対しては、著書「発禁」という強面の手法を使いながら、他の憲法学者に対しては「絶版」「改訂」という手法を用いている。「発禁」と違って、抑圧の構図は外部から見えにくい。「改訂」は教科書類では日常茶飯事だから、天皇機関説の叙述を削除しても、気づかれることは少ない。だから、「客体説」といった珍説に書き換えて、何もなかったかのように講義を続けた教授もいたわけである。美濃部に対する見せしめ的な措置の威嚇効果は十分だった。

  新聞各紙は「転向」という言葉を使っている。筆を折り、自説を曲げさせるという意味では、憲法学者にとっては「転向」の強制であっただろう。ただ、「転向」という言葉にこだわれば、すべての憲法学者にとって、それほど重大な思想的転換だったのかどうか、私はやや疑問に感ずる。「弁明書」を見る限り、軽やかに天皇機関説を捨て、主体説に転換した人もいる。もともと法律学の場合、甲説から乙説への転換は、さほどの思想的な葛藤や理論的深みなしに行われることも少なくない。戦前において、「転向」という言葉は、共産主義をとるか、命をとるかというかなり切迫した状況のもとでの事象において使われた。戦前の憲法学者たちが、文部省や大学当局の圧力のなかで、天皇機関説を放棄したわけだが、そこに「転向」という言葉を使うことに、やや違和感を覚える。美濃部に対する徹底した攻撃と弾圧を目撃して、なだれを打って権力に迎合していく。教授ポストを失うことにも連動しかねないとなれば、天皇機関説から距離をとることなど、さほどむずかしいことではなかったのだろう。「機関」という言葉はもう使わないと誓約する人まで出てきたことも、驚くに値しない。権力が要求していないことまで先回りして行い、ご機嫌をとる。こういう人間は、いつの時代にもいるからである。

  教授としての地位は確保しても、主担当科目から外され「生殺し」状態になることへの恐怖もあっただろう。学科目配当で憲法担当を外されたり、非常勤講師の場合は雇い止めをされるなど、大学内における人事や教務事項などを通じた圧力のかけ方は実に巧妙であった。人事権は、「大学の自治」の核心部分だが、大学当局者が文部省思想局にお伺いをたてながら、非常勤講師の不採用などを報告しているさまは、おぞましいとしかいいようがない。学科目配当における不利益も大きい。主担当科目を外され、憲法から政治学史に、あるいは憲法から行政法に変えさせられる「痛み」は、世間の人にはなかなか理解してもらえないだろう。それだけで、憲法学者にとっては大きなプレッシャーになる。文部省は決して露骨に、「こういう人物を採用するな」とはいっていない。天皇機関説をとる憲法学者には講義をさせないという動きは、むしろ大学当局によって積極的に進められていった。とりわけ関西大学の当局者の手紙からは、教授会や教務主任(教授)らの議論を経ないで、事務当局だけで、文部省の意向を過剰に斟酌し、先回りするような措置をどんどん実施することで、文部省のご機嫌をとる様子がうかがえる。

  学生のノートを常時チェックして、思想局に報告するというやり方もおぞましい。教室が密告の場になっていった。今回の秘密文書には出てこないが、研究費や、さまざまな学内的便宜が、天皇機関説を捨てないと与えられないというような圧力もあったに違いない。大学当局が文部省に、問題となった教授の状況を報告し、積極的に迎合していく様は、「大学の自治」が死に体になっていたことを示す。
  文書に掲載されている時期は、1935年秋が中心である。そのわずか6年後に太平洋戦争が始まり、研究者も戦争に総動員されていくことになる。その末期症状について、かつて「研究者が戦争に協力するとき」で紹介したことがある。いま、戦前と同様のことは起こらないと考えている人が多いだろう。確かに「同じようには」起こり得ない。だから、『熊本日日新聞』などに掲載された私のコメント(前回「直言」で紹介)で使った「今日的」という言葉。そこにかけた私の思いは複雑である。

  今回の秘密文書を読んだときの私の第一印象は、「これは過去のことではなく、まさに現代の大学や大学教員のありようそのものだ」ということだった。「文部省思想局」といった仰々しい名前のセクションが存在する余地はない。だが、形を変え、手法を変え、ニュアンスを変えて、同じような効果を発揮することが、いま、大学や研究者に対して行われているとはいえないだろうか。あくまでも「自発的」に、「自主的」に、研究資金の「配分」などを通じて。

  いつの時代においても、世間や国家権力が大学や学問の世界に過剰に期待し、過剰に介入した結果生まれるものは、大学と学問の荒野である。その恐ろしさに、多くの人々は気づかない。「国際競争力をつけろ」「国民のニーズにこたえよ」といった「世間」の大学や学問への注文・要求は、それ自体としては反論しようがない。だが、「開かれた大学」は、「開きすぎた大学」あるいは「開ききった大学」とは違う。世間のニーズや短期的な利益などから距離をとって、すぐには役に立たないかもしれないが、長期的な文化や科学の発展に寄与するような地味な研究、基礎研究がしっかり行われる空間、それが大学である。私は企業との協力を一般的には否定しない。しかし、先端研究に傾きすぎた結果、基礎研究が脇に追いやられ、大学全体が、企業と完全に一体となった研究に傾斜していく。その先には、企業の研究所と変わらない「開ききった大学」があるのではないか。
  いま、大学には、学問の本質や大学本来の目的とは必ずしも適合しない制度が生まれ(例えば、職業養成や資格取得に特化したもの)、そこに、学問を真剣に追求するという目的とは別個の問題意識をパワフルかつ先鋭にもった人々が大量に入ってきている。従来の大学では「枝葉」の存在だったものが、いまや、大学の根幹部分に影響を及ぼしつつある。その結果、「無邪気ゆえに危ういエリートたち」はますます成長・増長していくことになるのだろうか

  教育基本法の「改正」の結果、教育の国家統制のみならず、教育分野へのさまざまな介入回路もますます広がっていくだろう。ある業界が与党に多額の政治献金をして、教育に関する立法を作らせ、その法律に基づいて当該業界のための教育が行われれば、それが「不当な支配」となることはない(「新」教育基本法16条)。教育への直接・間接の介入への歯止めは、「新」教育基本法によってかなり弱められることになった。なお、教育基本法を「準憲法的法律」と呼んで、その意義を説き続けた有倉遼吉が想起される
  「大学の自治」も風前の灯である。法曹養成に特化した制度は、大学法学部の根幹を弱体化させ、迷走させている。アメリカ型の制度を性急に日本の大学制度に接ぎ木した結果生まれた制度設計のミスは、いずれ根本的な見直しを迫られるだろう。
  学生の授業評価というものも、やり方と機能の仕方次第では、大学当局が学生のノートを文部省思想局に渡していたのと同じような役回りを演ずるおそれなしとしない。文部省思想局秘密文書から導かれる教訓が、きわめて今日的である所以である。

  そういう時代において、日本や世界各国の憲法(理論、思想、制度、歴史等)について学問的に研究している憲法研究者の果たす役割は何だろうか。今後、憲法改正の動きが本格化するなかで、かつて立憲学派が追い込まれていった状態がまったく起こらないとは断言できない。思想局のようなものができて、正面から露骨に学説の変更を要求することはないだろうが、「時代のニーズにこたえた研究」かどうかという形で、文系においても予算配分や人事などで格差が作られていくだろう。そのとき、なだれをうって「勝ち馬に乗る」現象が生まれないとも限らない。かりに自民党「新憲法草案」が実現したとしても、ヴァイマール憲法時代にいわれた「憲法は滅ぶとも、行政法は残る」(O・マイヤー)ということにはならないだろう。「新憲法」の説明と解釈に積極的に関わる憲法研究者は少なくないと思う。では、憲法研究者はいかなる姿勢をとるべきだろうか。

  まず、何よりも、批判的な知を磨きつづけることだろう。「○○改革」の名のもと、「誰のための、どのような改革なのか」という視点を曖昧にしたまま、「改革」に次ぐ「改革」が行われている。そうした「改革」の連鎖に踊らされていると、最後には不利益がすべて庶民にふりかかってくる。近年、そういう仕掛けが多すぎる。こういう時代にこそ、「改革」の本質を明らかしていく作業が求められると同時に、「改革」の手続論にこだわる必要がある。憲法の研究と教育を通じて、地味ではあるがそうした任務を果たしていく責任があるだろう。
  ナチスに殺された学生を想起する「白バラ」追悼演説のなかで、R・ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦大統領はこう述べた。「不正が行われているときに目を背けないという課題、たとえ生きるか死ぬかというほどの問題ではなくても、紛争を回避せず、無関心に陥らず、だまされず、受動的な態度と宿命主義、危険への恐れと同調主義を克服するという課題」である。権力の横暴が激しさを増していくなか、中途半端な「対案」よりも、「ノー」をいいつづける勇気が必要だろう。「否(ノー)ということができる人こそ真の英雄である」という大隈重信の言葉は、この場面にも応用可能だろう

  次に、「規範的なるもの」に対する軽視、無視、蔑視、さらには嘲笑の気分や気運が高まっているなかで、憲法ないし「規範的なるもの」にことさらこだわって、「規範的なるもの」の意味と重要性を説きつづけることも重要な仕事である。「なぜ金儲けがいけないんですか」といってしまう某ファンド代表、昨今では、「だって、ほしいんだもん」とばかり、財界、政治家、官僚、「軍人」のなかに、あきれるばかりの「本音の突出」が目立つ。社会の批判力・抵抗力の低下は、不正の蔓延を許している。まさに社会の「免疫力」の低下といえる。個人の領域に権力が踏み込むケースも増え、今後、個人の良心が問われる時代になるだろう。この方面で憲法研究者の果たす役割は小さくはない。

  最後に、「政治」や「運動」から適切な距離をとりつつも、「研究者」としての社会的な発言を適時、適所で行うことが求められている。そういう営みは、いまや「ださい」ということなのかもしれない。9年前に奥平康弘(憲法研究者)が指摘していたように、憲法や平和の観点から「防衛政策」に歯止めをかける議論は、「かったるい」と受けとられる雰囲気があった。いまのネットや「論壇」の状況からすれば、そうした発言や言説自体が「うざい」として黙殺されかねない状況にある。

  では、憲法研究者はいかに処すべきか。ここでは、10年前に樋口陽一が指摘したことを想起するのが有益だろう。何か新しいことを主張しようとするあまり、「学説の常識に挑戦しようとする強迫観念が、社会の大状況の場面でのコンフォーミズムと全面的に同調する結果を引き出すという逆説」を伴うことがある。そういった場合、「あえて知の世界での常識をくりかえすという凡庸さに耐えることによってこそ、批判的でありたいという要請にこたえることができる。当たり前のことをだれも言わなくなったとき、その当たり前のことを語りつづけることこそが、批判的かどうかの試金石となるだろう」(樋口陽一「建設の学としての憲法学と批判理論としての憲法学」『法律時報』1996年5月号)と。実に大切な言葉である。胸に刻みたい。

  かつて芦部信喜(東京大学名誉教授)から送っていただいた『憲法叢説』のなかに、戦争が終わって東大赤門に立ち、美しい銀杏並木を見つめながら、「学徒出陣」で帰ることのできなかった学友たちのことを思う一文があった。戦争体験世代がますます少なくなるなか、戦後生まれの私たちの世代、さらにはもっと若い世代の憲法研究者は、1935(昭和10)年に私たちの先輩たちが体験したことからどのような教訓を引き出すべきだろうか。 あくまでも自らの学問的なスタンスは維持しつつも、立憲主義の基本的観点から勇気をもって批判・発言すべきときと場面において、自らの学問的良心をかけて言葉を発することが大切だろう。憲法研究者の「一分」とは何か。二回にわたって、この問いかけに対する答えを模索してきた。以上の文章のなかに、私の答えは示したつもりである。

付記: 憲法学者と憲法研究者のみ敬称を略した。

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