新たな「戦前民主主義」の時代――国会前で起きていること            2015年8月3日

デモの写真

45年前の「70年安保」のとき、国会の近くを通るデモに初めて参加した。高校生だった。デモの最後尾で、「沖縄を返せ」「安保粉砕」などと唱和していた。ドイツ語の「シュプレヒコール」(Sprechchor)が一般化していたから(中島みゆきの「世情」の歌詞にもある)、「シュプレヒコール! 日米安保条約を破棄するぞォ! 」といった具合だ。さまざまな政治団体やセクトのデモ・集会が連日のように行われていた時代で、「シュプレヒコール」で使われるスローガンにも団体の色分けが反映していた。だが、7月31日に参加した国会前デモはまったく違っていた。「動員」「結集」「闘争」という世界とは無縁だった。

「安保関連法案に反対する学者の会」と、学生たちのグループ「SEALDs(シールズ)」の初の共同行動。「学者の会」の軸になっている佐藤学氏(学習院大学教授 教育学)から国会前でスピーチしてほしいと依頼されていたので、最初の集会から参加した。チラシには、「先生も一緒に国会前に行きませんか?」(PDFファイル)とある。

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集会が開かれた砂防会館1階大ホール(1200人定員)には4000人がおしかけた。学究肌の同僚たちもたくさん来ていて、「え、この人が」と驚くほどの広がりを示していた。「学者の会」の呼びかけ人ということで、佐藤氏、広渡清吾氏(専修大学教授 法学/日本学術会議前会長)と先頭を歩くことになった。学生と学者が一緒にデモするといっても、学生たちのはじけるエネルギーとパワーに圧倒されていた。かつてのシュプレヒコールとは違う、ノリの良いリズムあるラップ調のデモコールを初めて体感したが、よくよく聞いていると、主語の使い方を含めて、実に凝っている。かつての「我々はたたかうぞ! 」的なものはなく、「私」「俺」といった一人称が多用されていた。また「立憲主義を守れ」というコールは、昔はなかったものである。「なんか自民党感じ悪いよね」「安倍晋三、マジでむかつく」というコールにはのれなかったが、「勝手に決めるな」から、「民主主義って何だ」「何だ」、「民主主義って何だ」「これだ」という問い返しのコールには、「これだ! 」と思った。

この日、「学者の会」で国会前スピーチをするのは2人だけ。しかも、与えられた時間は5分である。国会審議で問われていることなど、言いたいことは山ほどあった。特に「先制攻撃」と「先に攻撃」をめぐる当日の審議について指摘したかった。喧騒のなか、何を、どう言おうか、デモをしながら考えていた。この日、途中の駅で買った『日刊ゲンダイ』(7月31日発売B版)の見出しは「安倍 デモ潰し 飛び交う流言蜚語『参加者は就職できない』」。就職活動を控えている学生たちを萎縮させる、何ともいやらしい妨害活動だと思ったので、5分のスピーチは、学生たちを励ます言葉に特化することにした。

マイクを握り、「民主主義って何だ」「これだ」というコールに感銘を覚えたことを率直に述べた。これは1989年9月に、旧東ドイツの古都ライプツィヒの市民が、外国旅行の自由化と自由選挙を求めてデモを行ったときのスローガン、「私たちが人民だ」(“Wir sind das Volk.”)を想起させる。「ベルリンの壁」崩壊のかげに、実は、小さなデモの積み重ねがあった。もちろん、市民のデモだけで「ベルリンの壁」が崩れたわけではない。誰もそんなことは言っていない。市民のデモのうねりが、権力内部の矛盾を拡大し、弥縫策をとろうとしてミスが連発され、その弾みであの日、あのタイミングで壁は開いたのである(詳しくは、直言「『ベルリンの壁』崩壊20周年 」参照)。勇気ある1000人から始まった人々のデモのうねりと広がりがなければ、東の体制はまだしばらくは存続しただろう。歴史のダイナミックな展開をしっかりみれば、ライプツィヒに始まる「月曜デモ」の意味は決して過少に評価されてはならないだろう。「ベルリン11.4」をもたらしたのは、ライプツィヒ市民による「月曜デモ」の継続であった。

今を去る24年前、「壁」崩壊の1年3カ月後、私は旧東ベルリンのアレクサンダー広場前の高層アパートに7カ月住み、1年3カ月前の1989年11月4日(土)、自分の目の前のこの広場で「100万人デモ」が行われ、その5日後に「壁」が崩れたことなどをいろいろと調べた(拙著『ベルリンヒロシマ通り』中国新聞社、1994年〔絶版〕)。

少し解説しよう。89年5月にハンガリー政府が、オーストリアとの国境の鉄条網を撤去して以来、東ドイツ市民の西側への脱出が始まる。「居住・移転の自由」は厳しく制限され、無理な越境は命を失う(直言「『壁』を作る側の論理――『ベルリンの壁』建設50周年」) 。人々の我慢も限界にきていた。だが、東ベルリンの市民のなかには東の体制を見限って西への脱出をはかっていくものが増えたが、ライプツィヒの市民たちはこの古都をこよなく愛していたので、「私たちはここにとどまる」(“Wir bleiben hier.”)といって西には行かず、東の体制の改革をめざした。

「我々が人民だ!」

最初のデモは9月4日。ライプツィヒのニコライ教会前に1000人が集まった。秘密警察シュタージの監視と密告の体制のなかで、大変勇気がいることだった。「党を人民から守るために」を使命とするシュタージは、体制を脅かすデモを許すはずもない。「仕事を失うぞ」「退学処分になるぞ」などの脅しや嫌がらせが、デモ参加者と家族に行われた。「デモに行ったら仕事を失うわ」と家族に反対された人も少なくなかった。「誰もきていなかったら」「数が少なかったらどうしよう」。みんなそう思って教会前に集まってきた。だが、教会前には、あの人も、この人も、その人も来ていた。毎週月曜のたびに、5000人、2万人と増えていき、10月9日には15万人が街頭にあふれた。デモは禁止されていたが、たくさんの市民が街頭に出て、「私たちが人民だ」というスローガンを叫んだ。「ドイツ民主共和国」(人民民主主義)がいかに現実の人民とかけ離れたものであるかを端的に表現した、インパクトあふれるスローガンであった(直言「『ベルリンの壁』崩壊から4分の1世紀」)。

「通りの力」

「壁」崩壊の20周年にあたる2009年秋、高級週刊誌『シュピーゲル』が連続連載を行い、そこで、「ライプツィヒ10.9デモ」について、「通りの力」(Die Macht der Straße)というアングルから分析し、「ベルリン11.4デモ」へとつながる流れを明らかにした。

ライプツィヒに刺激されて、ベルリンでもデモが企画された。企画の中心を担ったのは、俳優、アーティストたちである。彼らがベルリン警察庁に集会許可を求めた。警察は、俳優やアーティストなら問題はないと許可した。「ベルリン11.4デモ」には、二つのポイントがある。一つは俳優などが呼びかけているから「おもしろそうだ」ということ、もう一つは警察の許可を受けているという安心感である。旧東の人々はシュタージを恐れ、無許可集会で逮捕されたらという強い不安があった。だが、この集会への好奇心と安心感から、ベルリンのみならず、周辺郡部から、たくさんの人々がアレクサンダー広場をめざした。この広場に100万人が入るはずはないから嘘だと書いた新聞があった。広場の真ん前に住んだ経験から言えば、この広場の収容人数から100万はあり得ない。そうではなく、周辺の道路、さらにそこに向かう電車、車、バスのなかも含めて、たくさんの人々が広場をめざしていた。それをすべてカウントすると100万近いということである。

集会の途中で、俳優やアーティストが後ろにさがり、新フォーラムの活動家や民主化を求める作家などが演壇に立ち、独裁政権を強く非難した。そして、片側3車線の広いカールリープクネヒト通り(私はその9番地に住んでいた)いっぱいに広がった巨大なデモ隊が、党本部や閣僚会議の建物を包囲した。権力者たちは動揺し、旅行の自由を一部認める譲歩を始めた。そこでいくつもの誤解、ミス、勘違いが重なり、1989年11月9日(木)午後11時25分に、ボルンホルマー通りの検問所が開き、実質的に「壁」は崩壊したのである。このあたりは、NHKスペシャルの傑作「ヨーロッパ・ピクニック計画――こうしてベルリンの壁は崩壊した」(1993年12月19日放送)をアーカイブで見てほしい。かくして、旅行の自由と自由選挙を求めるライプツィヒの「月曜デモ」の持続的発展が、「ベルリン11.4」という一回性の大集会につながり、「ベルリンの壁」崩壊の流れをつくっていったのである(直言「ハンバッハと天安門」)。

さて、ヨーロッパの話をしたが、アジアで最近起きた若者のデモといえば、香港での学生デモが記憶に新しいのではないか。また、台湾でも同様の若者の抗議が起きている。彼らもまた、現代の日本の若者と同じく、民主主義とは何かを非常によく理解していると感じる。安倍首相は、「60年安保改定にもあれだけの反対があった。しかし安保は通った。そしてその結果はどうでしたか?」と、さも今の日本の幸せは自分の祖父の手柄だと、誰のおかげで日本が幸せだったのかと言いたげだが、それは違う。

「反対することの力」。昨今、「対案のない理想主義だ」、「結果を出さない野党」、「ねじれ解消」や「決められる政治」などの言説により、国民にも、「結果主義」の風潮が蔓延し、民主主義として当然の「反対することの力」が一気に衰退した結果、すべてがスルーできる政治になってしまった。その結果が、今日の安倍政権である。これは従来の自民党政権ではない。日本政府が、一部の反知性主義集団に「乗っ取られてしまっている」状態である。反対することの大切さを忘れて、それを「現実的でない」と嘲笑し、「結果主義」に傾き過ぎたことが、こういうことを許す結果となったのではないか。

60年安保は反対運動が負けて、岸信介が勝った形にはなっていても、勝利という目に見える「結果」はとっていなくても、そこに「反対することの力」が効いていて、今日までの日本の政治のある程度の安定性やバランスをとって来たことは否定できないだろう。日本の政治の安定性に最も寄与したのは、目にはみえなくても(結果の勝ち負けでなく)、岸に対して反対した力だったのではないか。

「3.11」後の原発再稼働反対の国会前デモや、秘密保護法反対のデモなどから、すでに新たな兆候はあらわれていたが、SNSをフルに使ったこの新しい運動の形は、この国の民主主義の発展にとってきわめて注目される。戦後70年を前にして、昨年の「7.1閣議決定」は「戦後民主主義」を終わらせてしまった。いま、新たな「戦前民主主義」が生まれている。しかし、それは新たな「戦後民主主義」を決して伴うことはない。なぜなら、そこでは、憲法前文にいう「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」た一人ひとりの個人が、最悪の違憲立法に反対して立ち上がっているからである。

なお、旧東ドイツのシュタージも、デモをする人々に対して、西側世界から操られているとか、金をもらっているとかのレッテルをはっていた。いま、国会前デモの学生たちにも、さまざまなデマが流され、「中韓協力者潜入」なんて大見出しを打つ夕刊紙まである。いずこにおいても、権力者が恐れるのは、一人ひとりの市民が自らの判断で意見を表明してくることである。

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