還暦の年に「易」を語る  2005年1月3日

暦を迎えるといっても私のことではない。まだ8年はある。今年還暦を迎えるのは、1945年生まれの方々だが、それは同時に「戦後の還暦」「国連(憲章)の還暦」「ヒロシマ・ナガサキの還暦」を意味する。この「記念日」の意味については別に書いたので、ここでは繰り返さない。今回は、ありきたりだが、「年頭の抱負」を書こうと思う。
  
こうした抱負を「直言」で7回書いてきた。98年は「非常事態の年」で、「緊急事態法制」への始動を警告した。ドイツで迎えた「2000年の花火」は、「イスラム教、総じて他の宗教や文明に対する尊敬や寛容の創出。これが新しい世紀におけるヨーロッパの最も困難な課題となるだろう」というH・シュミット元独首相の言葉で結ばれている。「寛容」というキーワードを軸に、2005年のヨーロッパはこの問題の正念場を迎えるだろう。2001年の抱負は、私が「アジア」に向かう宣言になった。これ以降、タイ、カンボジア、ラオス、韓国についての「直言」が続く。2002年はドメスティックな問題、わが「学内」問題に徹した。2003年は「イラク戦争」を目前にして、「戦争の世紀への逆走?」で警鐘を鳴らした。そして2004年の「年のはじめに武器の話」では、武器輸出3原則等の「見直し」の動きを批判した。年末を目前にした12月10日の「官房長官談話」で武器輸出3原則等の「終わりの始まり」が宣告されたのは、周知の通りである。
  ところで、1999年「われ遊ぶ、故にわれあり――年頭にあたって」では、「『ユーモアを忘れない』というよりも、もっと自然に、『遊び心を大切に』ということに留意したい」と書いた。そのなかで樋口陽一著『われ遊ぶ、故にわれあり』(非売品)を紹介したが、樋口教授はこの3月、浦田賢治教授とともに早大を定年(70歳)退職される。私たちの世代の責任の重さを痛感する昨今である。というわけで、2005年の抱負は、99年から6年ぶりに、文字通り私自身の「年頭の抱負」ないし「心構え」、もっと言えば「覚悟」を語ることにしよう。

   まずはホームページのことから。「直言」は今回で8年、通算426回の連続更新を迎えた。今年の抱負・目標の第一は、2005年12月26日(月曜)に477回目の直言をUPすること。それは、来年2006年6月に来るであろう「500回連続更新」への確実な一歩となる。次は大学のことである。この4月で私の早大勤務は9年になり、10年目に入った。早大の水島ゼミも9期生を迎えた。一つの職場にここまで長く勤めるのは、私の人生で初めてのことである(札幌は6年、広島は6年半)。不慮の事故や転職などがない限り、当面、定年までの残り18年間をカウントダウンしながら、与えられた「使命」に生きたいと思う。前にも書いたが、その人の「使命」とは「命」の「使い方」だから、与えられた課題に正面から向き合い、淡々とこなしていきたい。
  今年は何よりも、改憲の動きがさらに加速して、重要な局面を迎えることになろう。立場上、改憲問題について発言する機会が増えることは避けられない。すでに正月休み中、テレビの仕事で長時間拘束される予定が入っている。「憲法再生フォーラム」共同代表としてのみならず、研究者個人としても発言をする機会が増えると思う。昨年は、旭川から那覇まで、全国42箇所で講演した。昨年初めて講演してのが、佐賀、岐阜、ソウル(ソウル大学と延世大学)、愛媛、滋賀、福島、秋田であった。これで講演未踏地は6県となった。今年中に「全国制覇」を果たしたいと思う。これは自分自身への目標である。
  
仕事面では、学内の仕事が増える一方のなかで、雑誌連載2本のほか、編著、共編著、共著を計4冊を出版した。今年も数冊がスタンバイしている。ただ、肝心の単著が出ない。何とか1冊は出版したいと思う。
  
加えて、今年だけの特殊事情がある。何十年に一度の大引っ越しがあるのだ。96年4月の早大着任時から使っている研究室から、もうすぐ完成する新8号館の研究室に引っ越すのである。学内の数百メートルの移動だが、「わが歴史グッズ」のお引っ越しは結構大変である。私は、研究室の引っ越しを札幌で2回(学内移動)、広島で2回(東千田→西条)やっているから、今回で6回目になる。入試・学年末繁忙期に大量の書籍をダンボールに詰めて、開くという作業はかなり大変である。引っ越し先の研究室がいまよりも小さくなるので、「グッズ」たちが無事収納できるかも不安だ。グッズ展示室でも別にもらえればいいのだが。今年は、喉と気力と体力の勝負となるだろう。

  さて、ここで、私がこの13年間にいろいろと助言を受けてきた方との「出会い」と「別れ」について書いておきたい。その人は九星気学の易者である。広島県福山市の土路生茂(巽風嘉齎)さんという。印鑑などを販売する会社を経営する一方、NHK 広島で易学教室を開講しておられた。
  私が土路生さんに初めて会ったのは、1992年2月17日(月曜)、福山市のニューキャッスルホテルで開かれた広島県中小企業家同友会の講演会場であった。その時の演目は、その前年の在外研究を踏まえて、「激動する世界をどう見るか――統一後の旧東独に住んで」。終了後、会場で声をかけてきたのが、土路生さんだった。「私は先生に関心があります」。開口一番そう言われて、ギョとなった。講演のなかで私が出していた「気」に関心を持ったというのだ。懇親会の時に、早速、92年から99年までの私の「波動」を占ってもらい、それを手帳に克明にメモしておいた。もっとも、私はそれまで、宗教も占いもすべて信じない人間で通してきたので、彼の言葉も興味本位で書き留めたにすぎなかった。ただ、「99年病気で入院」という一行だけは気になったが、7年も先のことだと思ってすぐ忘れた。ところが、その後の人生は、手帳に書き留めた通りになっていった。プライバシーに属するので詳しい言及は避けるが、それは恐ろしいほどあたっていた。
  
手帳に書いたメモに示唆された通り、1996年に私は早大に着任する。早大での仕事も軌道にのり、多忙が超多忙に変わる98年、疲労が溜まり、健康に自信が持てない日々が続いた。その時、昔の手帳をあけてみて、「99年病気で入院」の一行が気になってきた。数日後、教授会で99年度在外研究員の募集があった。アンケート用紙を箱に入れるだけなのだが、「原則として在職5年以上」という縛りがあったため、これは無理だと一度はあきらめた。でも帰宅後、もう一度手帳を見る。「99年に外国に出れば、入院しないですむかも」。でも、私はその時点で在職2年半であった。そこで「原則として」に賭けて、「在外研究希望」に○を書いて投函した。数日後、在外研究希望を表明したのは私だけということになり、教授会で私の在外1年が正式に承認された。同じく多忙な生活をおくる同僚の皆さん方には大変申し訳なかったが、「病気で入院」を避けるための「不純な動機」で応募したのだが、運よく決まってしまった。そして99年3月から1年間の在外研究ドイツ、しかもボンというのが、私の研究者人生にとってきわめて重要で貴重な場と時間になった。それはケルン・ボン空港に着いた直後に「NATO空爆」が始まったことからもわかるように、激動のヨーロッパと、ボンからベルリンへの首都移転を診るという歴史的一回性の体験をさせていただいた。それは「ドイツからの直言」全55回(1999年3月31日〜2000年3月27日)で読むことができる。そして、私の家族にとっても、このボンの1年間はかけがえのない大切な時間となった。もし、土路生さんの「助言」がなかったら、私はあの時、あのタイミングでドイツで生活することはなかった。

  そういうことが重なって、その後も、必要なタイミング、必要な局面で福山に行き、土路生さんにさまざまな助言を受けてきた。私のスタンスは、「易は決して信じてはいけない。易は参考にするもの。易は人生のスパイスである」ということである。この立場を、土路生さんは支持してくれた。占いを信じると人生は受け身になる。でも、占いをスパイスにすると、人生は豊かになる。憲法研究者が易について云々するのはおかしい、非科学的だ、とおっしゃる方もいるだろう。でも、易学もまた文化である。土路生さんは、国内外の政治・経済・社会の情勢について実に博識だった。私が世界の出来事について語ると、彼はそれを易学的に読み解いていく。これが面白いし、鋭いのだ。何時間でも話がつきなかった。彼の話は、いつもヒントにさせてもらった。日本政治の展開についても、彼の易学的読み解きは鋭かった。ある時、土路生さんに、「易と憲法」という本を共著で出しませんか、と提案したところ、彼は「面白いですね」といって賛同してくれた。意外な組み合わせと思うだろうが、彼との対談を側で聞いていると、「超オモシローイ」となるはずである。私もワクワクするほどの鋭い視点とヒントを、土路生さんは提供してくれた。特に、紛争の平和解決の道筋、憲法9条に基づく平和構想について私が書いたものに、土路生さんとの対話から得たものが反映している。彼と「易と憲法」のキャッチボールをするなかで、さまざまなアイデアが生まれたのだ。でも、「易と憲法」という本を出版することは、永久に不可能になってしまった。

  2003年8月22日(金曜)に広島で講演を頼まれた。私は前日、広島入りをする予定でいたが、途中関西方面での打ち合わせが入ったので、21日に新幹線で広島に向かった。大阪で広島に向かう「のぞみ」に乗ろうと思って、急に土路生さんと話がしたくなった。当時、いろいろと考えるところがあって、彼の「言葉」を求めていたのだ。すぐに彼の携帯に電話を入れた。4時から1時間だけなら会えるという返事。すぐに「のぞみ」をキャンセルして、「ひかり」の自由席に乗って福山へ(2003年10月からは「のぞみ」も停まる)。駅前のホテルのカフェで、小一時間話をした。たくさんの大切な「言葉」をもらい、広島に向かった。
  
その3週間後の9月13日(金曜)、私は青森県の浅虫温泉のホテルにいた。東北地方の女性教員の研修会で基調講演をするためだ。ちょうど台風14号が日本海に抜けて、東北、北海道に再上陸という荒れた天候だった。ホテルの部屋で、NHK青森のニュースを見ていると、弘前市で最大風速34メートルを観測したという。アナウンサーは、収穫前のリンゴが風で落ちないかを心配する農民のコメントを繰り返し伝えていた。東京のニュースでは決しておめにかからない現場の声である。荒々しい風の下のリンゴのことが、こんなにいとおしく感じたことはなかった。床に着くが、眠れない。夜2時過ぎに屋上の露天風呂に行くも、強風のためドア開閉禁止の立て札。そのまま布団に入るが、なかなか眠れない。3時くらいまで、猛烈な風の音とつき合うことになる。寝不足の状態で、翌14日の便で帰京した。
  
一週間後の朝、メールをあけて愕然とした。土路生さんの奥さんからのメールだった。「主人は9月13日急逝しました」と。あの台風の日、土路生さんは、52歳の生涯を終えていたのだ。あまりにも早い急逝であった。茫然自失のなかで、私は手帳を開けた。死の3週間前に私にくれた、これからの私の生き方についての「言葉」がそこにあった。文字通りの「私への遺言」、「一語一会」である
  大切な人はいつも私の前から、足早に姿を消してしまう。でも、その人が残した「言葉」が残っている。土路生さんが私にどんなことを最後に言ってくれたのかは、いまは書かないでおこう。「その時」が来たら、未来の「直言」で、今回の「直言」をリンクして語ることにする。それまでは、私の心の奥に大切にしまっておきたい。

  というわけで、今まで公にしてこなかった個人的事情を書いたが、これも「見えない時間」のなせるわざと思う。それでは、読者の皆さん、本年もどうぞよろしくお願いします。

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