雑談(53)学生たちへの言葉(その1)  2006年10月2日

回で直言は連続 517回になる。1997年1月から毎週更新を続けているが、年に何度か繁忙期というのがあって、新たに原稿を書き下ろすのが困難になる。今週から授業が始まり、10月上旬は学会や韓国出張などが続く。安倍内閣発足後の重要な時期だが、2回にわたって「雑談」の連載をお許しいただきたい。「対テロ戦争」の怪しさについてはすでに2回連載で詳しく論じた安倍内閣の発足にあたって、問題となる論点は先週までにかなり書き込んだと考えている。安倍式改憲は、「美しい国の美しい憲法」を自分たちの手で作ろうというエモーショナルな響きをもっている。これも「美しい国から2006秋」として、10月中旬にUP予定である。

  そこで今週と来週は、「雑談」シリーズとして、学生が作った論集に寄せた文章をいくつか転載することにしたい。あちこちに書いたものをまとめたところもあり、直言とのダブリも一部ある。ただ、学生に向かって直接語りかけた文章ばかりなので、それなりの「熱さ」を感じていただけると思う。6年前の在外研究時、ドイツのボンで執筆したものもある(ちなみに、16年前の明日はドイツ統一の日である)。埋もれていた巻頭言のなかから4本を、この機会に公にしたいと思う。
  なお、〔〕括弧はこの直言に転載するにあたって付けた注である。必要に応じて、関連する直言へのリンクも張った。まだお読みいただいていない方には、この機会にご覧いただければと思う。

 

20年前の資料のこと
――水島ゼミ論集に寄せて――

水島 朝穂(在ボン)

  ゼミ論完成おめでとう。
  論集を完成させて諸君も痛感したと思いますが、一つのテーマでまとまった文章を書き上げるということは、実に大変なことです。この論集につぎ込んだ諸君の苦労は、今後必ずどこかで役に立つことでしょう。

  さて、昨日〔注・2000年2月27日〕、ドイツの南西部、ラインラント・プファルツ (Rheinland-Pfalz) 州の州都マインツ (Mainz) に行ってきました。マインツは活版印刷を発明したヨハネス・グーテンベルクの町としても知られています。博物館をはじめ、彼に縁の場所がいくつもあります。マインツ大学も、正式名称はJohannes-Gutenberg-Universitätといいます。
  20年前の1979年秋、ここに2週間ほど滞在して、資料集めをしました。当時、ドイツの初期ラント(州)憲法の制定過程に関心があり、私はフランス占領地区だったこの州憲法の制定過程の審議録などを大量にコピーし、日本に送りました。当時26歳。大学院浦田研究室の博士課程1年生でした。ただ不思議に、その後20年間、ドイツに何度も来ても、マインツだけは訪れる機会がありませんでした。今回、帰国が近くなり、家族を連れて、20年ぶりに訪れたわけです。
   市内には大きなビルが建ち並び、旧市街も新しい建物がたくさんできて、昔とはかなり風景が変わっていました。当時滞在していた駅前ホテルは難なく見つかりました。しばらく滞在したそのホテルの2階の狭い部屋に、生後7カ月の息子の写真を貼っていたのを思い出しました(その息子もいま大学3年生〔当時〕)。

  駅前からたまたま乗ったタクシーの運転手に、79年にマインツに滞在したと話すと、彼の態度が急に変わりました。この人はイラン人で、79年のイラン革命の際にドイツに亡命して、マインツに住みついたそうです。同じ時期にこの町にいたということで、彼はうれしそうな顔をしました。しかも、お兄さん夫婦が大阪大学に留学して、お兄さんの奥さんは日本語が達者で、日本とイランの通商関係の仕事をしているそうです。彼としばらく、車内でマインツ談義をして盛り上がりました。私の車を駐車したパルクハウスまでのわずかな距離を乗るつもりでしたが、しばらく市内を走ってもらいました。偶然乗ったタクシーのおかげで、20年前の私のマインツでの記憶が蘇ってきました。

  実は、20年前にマインツで集め、ここの中央郵便局から送った州憲法制定史資料のダンボールは、札幌時代も広島時代も一度も開けられることなく、いまも自宅書庫のなかに眠っています。今回、ボンで在外研究をするなかで、1949年「ボン基本法」の制定過程の資料を読む機会があり、また、基本法制定に関係する場所が近くにあるので、そういう場所を訪れるなかで、基本法制定史を色々と勉強しました。日本で文献を読むだけでは分からない、実にさまざまなことが分かります。
  旧西ドイツは米英仏3カ国の分割占領でした。この3カ国の占領軍は、基本法制定過程に執拗に介入しました。具体的な個々の条文の修正まで要求することもありました。それを基本法制定会議のアデナウアー議長(後に初代首相)らがなだめ、すかし、かわしながら、自分たちの憲法をデッサンしていったのです。基本法草案を可決する日を、わざわざ5月8日(無条件降伏4周年の日)にするなど、日付にこだわるアメリカ軍政長官に対する配慮も巧みでした。米英仏3人の軍政長官を相手に、したたかに実をとっていきました。その過程を手紙やメモなどで読んでいくと、緊迫した雰囲気が伝わってきます。

  ところで、日本では、国会の憲法調査会なる所で、参考人として出席した二人の憲法研究者が、「憲法は占領下で押しつけられたもの」との意見を述べたと、朝日新聞のHPに出ていました(2月24日)。ドイツの友人に日本でこんなことをやっていると話すと、今ごろ何をやっているのかと笑われました。占領下の憲法制定という点では、ドイツも日本も共通です。「押しつけ」の状況は当然存在します。その点に関する細かな事実を今ごろ「発掘」して何になるのでしょうか。問題は、そのような状況のもとで、それぞれの国民のなかにあったさまざまな動きや主張が、その憲法のなかにどのように反映し、盛り込まれているか。そして、その憲法を、その後どのように活用してきたか、です。「押しつけ」を強調する人々には、憲法に対する主体的な姿勢が欠如しています。歴史に対する受け身の姿勢からは何も生まれません。内容抜きの「押しつけ」云々の議論は、こちらで見ていると実におかしい。息詰まる「押しつけ状況」のなかで、ボン基本法制定者たちがどのように行動していったのかを見ていくと、ドイツになぜ「押しつけ憲法」という議論がないのかがよく分かりますボンからベルリンに首都が移っても、このボン基本法と呼ばれた憲法の価値と意味はますます輝きを増すでしょう

  先月、ラインラント・プファルツ州議会で、州憲法に障害者や動物保護規定を入れるなどの憲法改正の議論が始まりました。それを紹介した新聞記事を読みながら、帰国したら、州憲法の制定史資料のダンボールを開けてみようと思いました。20年ぶんのチリやほこりと一緒に、きっと20年前の問題意識がまた蘇ってくるような気がして、いまから楽しみです。

  《付記》基本法(憲法)制定過程の問題について、『アエラムック・憲法がわかる。』(朝日新聞社4月末刊行)に書きましたので、参照して下さい。

(2000年2月28日稿)

 

心のタイムカプセル
――ゼミ論集に寄せて――

水島 朝穂

  今年〔2004〕もゼミ論集が完成した。今回は6期生の作品である。台風直撃下の沖縄ゼミ合宿(2002年)快晴に恵まれた北海道合宿(2003年)が思い出に残る。3期生以来、私のゼミは2コマ連続のゼミを行っているが、そのやり方も定着をしてきたゼミのホームページや ML (メーリング・リスト)を活用した交流など、ネット上での「ゼミ活動」も6期からさらに活発化した。その彼らが2年間のゼミ活動の総括として執筆したのが、本論集である。6期生のそれぞれの個性と問題意識が反映した作品が並んでいる。編集担当の学生から巻頭の一文を依頼された。すでにあちこちで話してきたことの繰り返しを含むが、最後まで読んでほしい。

  学問をするのに「早すぎる」ことも、「遅すぎる」こともない。6期生もまた、自分の論文の執筆を通じて、「無知の知」というものを実感したはずである。どこまで勉強しても、自分がまだ問題の入口に立ったにすぎないということがわかったとき、人は学問の奥深さにたじろぐ。そして、これだけ時間をかけて調べ、読み、書いたのに、まだ何もわかっていない自分に気づく。これは人生にとって、とても大切な瞬間である。なまじわかった気になるのと、不十分な自分に気づくのとでは、後者の方が何倍も、何十倍も進歩の「種」を自分の内側にまいたのだから。

  私は単身赴任で地方の大学にいたとき、日々迷ってばかりいた。ちょうど40歳になったとき、『論語』の「不惑」を思い出した。いまの自分は「40にして惑わず」とは到底いえない。そこで、『論語』の時代よりも寿命がのびているから、10歳上乗せしてしまえ、と勝手に解釈することにした。25にして学に志す。40にして立つ…。80以上にして「心の欲する所に従って、矩を踰えず」という心境に到達する。40歳は人生の転換期として、まさに「立つ」である。これは具合がいいと、当時勝手に思っていた。現在、私は50歳である。まさに「不惑」として、自分に与えられた使命に生きようと思っている。あと9年あまりで「還暦」だが、その時は「天命を知る」という心境になれることを祈る。

  そうなると、「25にして学に志す」の新しい意味も見えてくる。実は25歳は学問を志す者にとって大事な転換期なのである。大学院生だと博士後期課程。サラリーマンだと仕事を覚え、いよいよこれからという時期。家庭の主婦でも、世の中のことが見えてきて、環境や社会の問題について学びたいと思う時期である。25歳までは、大学浪人を何回しようが、留年しようが、高校中退だろうが、まったく関係ない。25歳までは「学に志す」ための「助走期間」と考えよう。大学受験生や現役高校生の予備校で講演したとき、このネタをよく使う。参加者のなかには、それぞれにコンプレックスをもっている人々がいて、25歳までは「学に志す」という点でみんな同じだという私の意見に深く共感してくれる。学校を捨てた若者たちも同じである。大検(大学入学資格検定)予備校や、通信制高校生のためのサポート校、不登校の人のための高校だってある。
  繰り返しになるが、学問の世界に「早すぎる」も「遅すぎる」もない。その意味でいえば、25歳以上の人も、自分のなかに「学びたい」という気持ちがモヤモヤっとわき起こってきたら、その時を逃してはいけない。その瞬間が、その人にとって本物の「学に志す」時なのだから。

  このゼミ論集に掲載した論文は、諸君の「学に志す」ための出発点にすぎない。これから永遠にテーマを追究しつづけてほしいと思う。あと30年たったら、この論集のなかの自分と会ってみよう。そのとき、この序文で私が書いたことの意味がよく理解できるに違いない。あなたたちの「心のタイムカプセル」として、この論集を大事に保存してほしいと思う。卒業おめでとう。

(2004年2月18日稿)

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